その1
パタパタと軽い足音が聞こえる。
人型をとり本を読んでいた焔は、顔を上げて、並ぶ書架を透かすように眺めた。放課後の校舎からはいろんな音が聞こえるのに、この図書室だけは静かだ。いまは足音だけが響く。ふいに書架の間から、旭が飛び出してくる。
嬉しそうだ。
頬の辺りが赤みを帯びている。つられて、焔の顔にも笑みが浮かぶ。
「焔」
「首尾は上々って感じだな」
「え? 首尾てなんのこと?」
ごつんと拳が一つ、旭の頭上に落ちてくる。
「ミッションだ、ミッション」
「あ、そうか。そうだね」
完全に忘れていた。そういう顔だ。
「そんなに真之介と話せたことが、嬉しいのか」
「え? なんでわかるの? それも焔の妖術?」
一目瞭然だ。とは口に出さない。妖術なんかじゃねえよ。顔に書いてあんだよ。笑いそうになる口元を無理矢理引き締める。
「おれにわからないことなんて、ねえんだよ。で、なにを話したんだ?」
「きっかけがなくて困ってたんだけど、ちょうど数学の時間にわかんないところがあったから、聞いてみたんだ。そしたらね、すごく丁寧に説明してくれたよ。先生よりずっとうまいんだ。部活の始まる時間なのに、気にしなくていいよって、ぼくがわかるまで何度も教えてくれて」
まるで初めてのおつかいだ。あるいは初めての遠足から帰ってきた幼稚園児か。頬を紅潮させて、興奮を隠せない。起こった出来事すべてが新鮮で、嬉しくて堪らない。
旭は他の誰よりも純粋で素直だ。まっすぐだからこそ、その言葉に、その行動に、心を揺さぶられる。まっすぐだからこそ、相手の言葉もストレートに受け入れる。
たとえるなら、白。
旭の心は、他の何色にも染まらない強い白だ。眩しくさえある。
けれど、今は別だ。
真之介との接触は、危険を含む。イレブンという組織の仕事をいくつもみてきた焔は、同じあやかしにとってはおもしろくもない結末を、いくつも知っている。そしてもっとも危険なのは、人間だということも、身に染みていた。
あやかしとなってしまったのも、人と関わったからだ。人の血を知ってしまったからだ。それでもまた人と関わってしまう自分を愚かだとも思う。けれど、旭だけは特別なのだ。
旭にとっては、初めて自分から近づくことのできた喜びでしかない。ミッションのことは忘れている。否。ミッションだ、仕事だという義務感で近づきたくないのだろう。旭は、純粋に真之介に興味を持った。そして、そのまっすぐな好意は、真之介に受け入れられたのだ。
これが旭の強いところでもあり、そして弱いところでもある。疑わないということは、自分を無防備にするということだ。自分に計算がなくても、相手にはあるかもしれない。そのことを、旭はまだ知らない。
まっすぐに真之介に向かっていく旭を、この手で引き留めたい。傷つけられぬよう、誰の手も届かないところに閉じこめて、しっかりと守りたい。
自由を奪えばいい。
自分ならば、簡単なことだ。けれど、それはもう乙葉旭ではない。ただの人形だ。自分の意のままに動く旭など、欲しくはない。
どうすればいい。
焔は、机の上においた拳をぎゅっと握りしめた。
「いいよね? 焔」
ふいに名を呼ばれた。
「あ、ごめん。聞いてなかった。なんていったんだ?」
「まさか、眠ってた?」
旭の背後に、ゴゴゴという効果音をつけて暗雲が立ちこめる。どこにいてもすぐに眠ってしまうのは、焔のクセだ。特に、旭の通う学校の図書室は、最高の昼寝場所だった。
公立とはいえ、古い歴史を持つこの中学の図書室は広い。教室を三つ並べたくらいの大きさに、四十以上の書架が並ぶ。その一番奥に、忘れられたように閲覧机が置かれている。なかでも、窓際のこの席は、焔のお気に入りだ。旭の授業中、古くさい本のにおいに囲まれて本を読み、降り注ぐ暖かい陽射しを浴びながら眠る。旭以外の人間にその姿は見えない。まるで自分の部屋のように寛いでいる。
「寝てない。ちょっと考えごとしてただけ」
「ほんとうに?」
「ほんと。で?」
「今度の土曜日に、二条の家に行くことになったっていったの」
「は?」
「だから、二条の家に行ってくるからね」
「ちょ、ちょっと待て」
「なんで?」
「早すぎる」
「だって、友だちになるってのが作戦だったんだよ」
「いや、そうなんだけど。でもまだあいつのこと、よく知らないだろうが。なんも調べもせずに、いきなり家に行くだなんて、なんかあったらどうするつもりだ」
「なんかってなんだよ。ぼくは友だちの家に数学を教えてもらいに行くだけだよ。もちろんミッションのことも頭に入ってる。でも、二条が妖怪なんかと関係ないってことを証明したい。そのためにできることなら、なんでもする。ぼくは、二条を信じたいんだ」
旭のまっすぐな声が、焔を捕まえる。焔の紫の瞳が不安げに揺らぐ。でもそれは旭には届かない。
「旭」
焔が旭の細い腕を掴んで引き寄せた。
これは旭が決めることだ。与えられたミッションに、旭は自分のやり方で、向き合おうとしている。旭にとって、必要なミッションなんだ。わかってはいても、引き留める言葉を紡いでしまいそうで、焔はぎゅっと唇を咬んだ。
旭のシャツの袖をめくりあげる。額をあて、小さく呟く。焔のくちびるから、白い煙のようなものがゆるりとはき出され、旭の左腕に絡みつく。それは皮膚に染みこむように消え、腕には赤い小さな蝶の形の痣が残った。
「なに? これ」
「まじないだ。旭ががんばれますようにって」
「ありがとう」
顔をあげた焔の前で、旭が笑った。焔はもう一度、旭の腕に額をあてた。いま、自分がつけたばかりの痣がある。旭の周りの変調を知らせる印だ。
どうかこの存在が、傷つくことがないように。この手で守ることができるように。
焔の願いは、小さな赤い蝶に刻まれた。
(第四章「影ゆらぐ」その2へ続く)