その2
地下五階の円形ホールから、またいくつもの通路を抜け、薄暗い廊下へと戻る。目立たない小さなエレベータに乗り込む。特殊なキーがなければ動かない。首からかけていた顔写真入りのIDカードを、壁の一点へ押しあてる。スキャナがあるのだ。ボタンを押すこともなく、エレベータは勝手に地上へと向かう。最新式のエレベータは、ガコンというわざとらしい音をたて、ドアを開いた。水道管やガスのパイプが入り組む狭い通路を進み、重い鉄扉を開く。
眩しい。
ビルとビルの隙間の、大人一人がどうにか通れるだけの狭い通路には、午後の陽射しがたっぷりと満ちていた。
イレブンは、その存在とともに、場所も秘密にされている。都心の地下にあるイレブン本部には、二十数カ所の出入り口があるとされるが、旭はそのうち一つしか知らされていない。
狭い通路に立ち止まり、旭は空を仰いだ。高層ビルに切り取られた、初秋の青空は、からんと晴れて美しい。大きく深呼吸する。吸い込んだ空気に、かすかに金木犀の香りが混じっている。その芳香に、身体中の緊張がゆるりと解けた。
もう少し、金木犀の香りを嗅いでいたくて、深く息を吸い込みはき出すと、視界のすみで茶色の髪が陽を受けて煌めいた。
「焔」
旭が出てきた灰色の鉄扉のすぐ脇に、膝を抱え蹲る人影が顔をあげた。
「んあ? 旭?」
「また眠ってたんだ。よく寝るね」
「おれ、まだまだ成長期」
うそだ、と旭は頭の中だけで反論した。
焔が両手を空に、伸びをする。よっとかけ声をかけて、跳ね起きる。自分よりも頭二つ分は高い焔の顔を見上げる。肩にかかるくらい伸びた茶髪を、無造作に後ろで一つに束ねている。長い腕が、穴だらけのジーンズについた汚れを払う。腕につけたシルバーの腕輪が二つ、ぶつかり合っては澄んだ音をたてた。
こうしてみると、どこにでもいるちょっと遊んでる風高校生にしかみえない。ただし、その紫の瞳を除けば、だ。
焔が旭の視線に気づき、にやっと笑う。
「どした? とうとう士、やめろっていわれたか?」
「違うよ。ファーストミッション、貰いました!」
旭は指でVサインをつくってみせた。
「おー、やっと仕事きたのか。そりゃよかったな」
焔の大きな手が、旭の頭をくしゃりと撫でる。
「実は、あんまりよくないんだけどさ」
旭の顔から、するすると笑みが消える。
中学に入って、半年と少しが経っている。祖母と二人の静かな環境で育った旭は、どちらかというとクラスでは目立たない。自分を主張せず、とりあえず嫌われもしない。影が薄い。自覚がある。
そんな旭からみれば、同じクラスでも人気者グループに入る真之介は、遠く手の届かない存在だ。もちろん話したこともない。少なくとも学校では、真之介の周りに妖怪の気配はまったくない、ありきたりの普通の中学生だ。旭にとっては、芸能人と同じくらい遠い、手の届かない憧れのクラスメイトだ。
近づかなければ、わからない。いつも近くにいれば、ちょっとした行動の端々に兆候がみえる。妖怪の気配を感じることができる。
じゃあ、近くにいけよ。いってにおいでも嗅いでこい。
焔ならあっさりそういうだろう。
でも、怖いのだ。人との接触は、昔から得意ではない。特殊な環境で育ったこと、特別な力を持っていること、幼いころからその力のことは周囲に伏せてきたこと。染みついた抑制は自分を守るばかりで、一歩を踏み出す勇気を遮る。
念願のミッションだ。成功させたい。士として早く一人前になりたい。認められたい。父のようなあやかしの心を感じ取ることができる士になりたい。母のような強く惑わされない士になりたい。祖母のように、イレブンのために働きたい。そういう想いだけが先走る。
腕に抱えたミッションファイルが、ずしりと重みを増す。
「一人で悩むんじゃねえよ。バカ」
焔の手が旭の肩にのる。まるで考えていることがぜんぶ伝わっているみたいだ。
実際、伝わっているのかもしれない。
口が悪く、ぐうたらで、昼寝と読書とテレビゲームが好きな、外見だけは高校生にみえる焔は、人間ではない。五百歳を超える強い力を持ったあやかしだ。
土を掘り起こし、川を埋め、空をも覆おう。近代化されつくした日本の首都東京でも、妖怪は存在する。普通の人々にはまったく気づかれず、この国のもう一つの種族として、人間の傍らで存在し続けてきた。昔に比べれば、彼らの数は減っている。それでもあやかしは、人間が謳歌する同じ世界で、ときに人に紛れ、ときに人を避けながら、生きているのだ。
焔もその一人だ。
いや一匹というのだろうか。
焔の原型は、白く大きな狐だ。どこかの山神の血を引くという焔が、なぜ、あやかしに成り果てたのか、誰も知らない。旭が生まれる少し前から乙葉の家に住み着いているという。イレブンという組織ができる以前、古くは妖怪退治屋の名で通ってきた乙葉家に、なぜ焔のようなあやかしがいるのか。
なぜ? と考えたことなどなかった。
旭にとって妖怪は、ときに人間以上に近い存在だからだ。焔だけではなく、たくさんの妖怪たちが、いつも両親のいないさびしさを埋めてくれた。焔は、生まれたときから旭のそばを離れなかったし、どんな小さな厄災からも旭を守り通した。
いつもそばにいる。自分に向けられた笑みも、差し出された手も、守りの言葉も、ぜんぶが本物だ。
こういうのを、幸せと呼んでもいいのだろうか。
「旭? どした?」
長身の焔がかがみ込んでくる。紫の瞳が、初秋の空の青を映す。ふわりと森のにおいがした。焔のにおいだ。
友人よりも、祖母よりも、誰よりも、焔の言葉は旭に前を向くための力をくれる。ぼくには焔がいる。
旭が焔を見上げた。
「相談にのってくれる?」
焔が笑った。
肩を組み、歩き出す。身長差でぎくしゃくする。歩きにくい。それがおかしくて、また二人で笑った。
空の青が映える空気の中に、金木犀の香りが散っていた。
(第三章「焔」へつづく)