その4
「焔殿、もしかして弱くなりませんか?」
いづなが笑うように口を広げた。
「そんなことねえよ」
「人間っぽくなると、妖怪の力が落ちるって本当だったのですね」
「違うって」
息があがる。昔なら、いづな程度の妖怪など、蚊をたたくようなものだった。自分の力が弱くなったとは思えない。ならば、いづなの方が力を増したのだ。
命の契約は、互いの持つ能力を数十倍にまで膨らませることができる。文字通り、互いの命の火を糧とするからだ。引き替えには、死が待っている。本来、ずるがしこいはずの管狐が、そのような契約をするはずがない。嘘なのだと思っていた。
本当に契約を交わしているのか? 命を懸けた契約の力に対するには、自分の命が必要だ。それ以外に、いづなを抑える方法はない。
焔は、右の手の甲についた傷口を、ぺろりと舐めた。
「真之介殿がお待ちだ。早く済ませましょう。われわれには成し遂げねばならないことがあるのです」
「やらせえねえって」
焔が地面を蹴る。一瞬のうちにいづなの真上に舞い上がり、その脳天目指して、蹴りを入れる。焔をちらりと見上げただけで、いづなは余裕で焔を避け、その体を長い尾で跳ねとばした。大きな池の向こう側へと焔の体が弾けるように飛んだ。
「焔先輩!」
旭が叫ぶ。その声が、焔に届いた。
「旭」
焔が旭の姿を確認して、にやりと笑った。
旭がいる。自分がいなくなっても、旭がいる。必ず旭は思い出す。己を取り戻す。旭が二条を止める。だからおれは、いづなを抑えればいい。いづなの力を封印できれば、真之介の力も半減する。それには、すべての力が必要だ。すべてが終わった後、自分は消えるかもしれない。それだけの力が必要なのだ。
焔は旭をみた。そのすべてを焼き付けるように、まっすぐにみた。
「旭! 真之介を止めろ! おまえのミッション、忘れるな!」
「先輩!」
ほんの一瞬の出来事だった。
焔目指して跳躍したいづなが空を舞い、池を越えた。焔は動かなかった。まるで向かってくるいづなを受け入れるかのように、なにかの印を結んだ両手を広げた。
音はなかった。
真っ白な光があたりに飛び散った。水の上を転がり、芝生の上を跳ね、花火が舞い散るように、そこここに降り注いだ。眩しい光が目に突き刺さり、旭の頭の中ではじけ飛んだ。
泣き声がする。
小さな赤ちゃんだ。
ベビーベッドの中で、泣いている。子猫みたいに、声ににならない声で泣く。なにかを掴もうと伸ばされた小さな手に、白い毛が触れた。長い尾だ。ふわふわと手に触れると、小さな手のひらがそれをしっかりと掴んだ。泣いていた赤ちゃんが、ことんと眠っていた。真っ白のタオルケットにくるまれて、たくさんのぬいぐるみに囲まれて、まだ頬に涙を張り付かせたまま、眠っている。その頬を長い舌がそっと舐めた。
これは、ぼく?
ベビーベッドの中のぬいぐるみに身覚えたあった。この視線は、祖母のものでも、両親のものでもない。いつもぼくのそばにあり、ぼくに触れていた優しい温度。
これは、焔の記憶だ。ぼくが生まれたばかりの頃の、焔だ。
焔の中にある旭のすべてが、強く熱い波となって押し寄せてきた。忘れていたすべてが、覚えていないはずの記憶とともに、一瞬のうちに旭の中を駆けめぐった。
ずしんという重みが、頭上からのし掛かる。ふわふわと記憶の中をさまよっていた旭の足を、地面へと下ろした。
「焔!」
「いづな!」
二人は同時に、真之介の部屋を飛び出した。転がるように芝生を走り抜け、最後の光が舞い落ちていく場所へとまっすぐに向かう。
青々とした芝生の上に、白い小さな、いたちのような獣が倒れていた。その四肢を縛るかのように、紫の炎の輪が巻き付いている。
旭の膝ががくんと折れた。
「焔」
震える旭の呼びかけに、焔からの返事はなかった。
「わかったでしょ? 殺したい理由」
旭は獣の体をそっと抱き上げた。温かい。小さく鼓動している。いづなはまだ生きている。では焔はどこへいったのだ。この紫の、見覚えのある色は、なんだんだ。
真之介の言葉が、旭の胸を引っ掻く。擦り傷のように、ひりひりと痛む。
真之介が、左腕をそっと撫でた。黒い痣があった。真之介の腕に刻まれた命の契約だ。いづなが死ねば、真之介も死んでしまう。力を増したいづなを、殺さずに抑えるためには、焔のすべての力を使うしかなかった。燐光のような輪が、それを認めるかのように、旭の腕の中で揺らめく。
「親からも厭われる、そんな気持ちが、きみにわかるかな?」
真之介が痣に触れながら問う。
「人にはみえないものがみえる。その変な力のせいで、父さんも母さんも、嫌なものでもみるような目つきで、ぼくを扱った。世界で一人だけ、夜子だけが一緒に闘ってくれた。夜子が亡くなってから、すぐにいづなに会ったんだ。いづなも親や仲間に見捨てられた存在だ。ぼくたちは、同じなんだ。だから友だちになったよ。水野が死んだ後、父さんと母さんはぼくを怖れ、ぼくを捨てようとした。だからいづなに頼んで、消して貰った。ぼくは、ぼくと夜子の魂を守りたい。だから殺すんだ。そして最後までやり終えたら、ぼくはいづなと一緒に逝くんだ。夜子が待ってるあの場所へ、いづなと一緒に逝くんだよ」
庭の木に舞い降りていた鳥が、ききっと鳴いて飛び立った。鳥や小動物など、すべての生き物が逃げだし、あるいは息を潜めている。美しいはずの庭園は、今、異様なほどに静かだ。耳鳴りがする。
「行けないよ」
声が震えた。でもはっきりと告げた。
「二条は、きみの妹のところには、行くことができない」
「なにをいっているの? 乙葉がぼくを止めるの? 今度はきみが、大事な先輩の復讐をしてみる?」
真之介の中で燃え続ける炎がみえた。怒りと哀しみに束縛され、硬く閉ざされた炎だ。
「ぼくはぼくのすべきことをするよ。乙葉に止める権利なんかない。わかるだろ。きみの大切な先輩は、もういないんだ」
焔はもういないと告げる。真之介の言葉が容赦なく旭に突き刺さる。真之介の炎がはみ出して、ちろりと旭を撫でる。
焔はいない。どこにもいない。
ぎゅうぎゅうと胸を圧迫するこの痛みはなんだろう。指先も、身体も、とても熱いのに、頭の中は逆に凍えるように硬く凍結していく。
焔を奪ったのは、二条ではない。それでも、この目の前の同級生に対して、かつて抱いたことのない熱を感じる。腕の中の小さな獣を、この手で握りつぶしてしまいそうになる。二条もいづなも、この世からなくなればいい。
ぼくから焔を奪ったおまえらなんか、消えてしまえばいい。
「許さない」
零れてしまう声を、止められない。身体が焼ける。内側から肉が焼けて、焦げるにおいがする。この火を止められない。炎の中から声がする。二人をイレブンに渡せ。処分せよ。甘い声だ。誘ってくる。
「そうだよ、乙葉」
二条が笑う。
「わかってくれたみたいだね。それじゃあ、いづなを返して欲しいな。夜子が待ってるから」
真之介の妹も、もういない。真之介の両親も、水野という少年も、二条といづなが消した。そしてもう一人、手にかけようとしている。そしていま、旭は、真之介といづなの存在をイレブンに引き渡し、処分されてしまえばいいと心の底から願っている。
イレブンの士であることを正義にして、ぼくは二条といづなを殺そうとしている。
同じじゃないか。ぼくは、二条と同じだ。
『わかったでしょ? 殺したい理由』
わかったよ。殺したい理由。
大切なものを奪われたら、きっと誰だって、こうなる。奪われたんだから、奪えばいい。悔しさと哀しみが、怒りに変わる。間違いであることをわかっていながら、普通では想像もできないことを、簡単に成し遂げてしまう。
どこで、間違ったんだろう。
二条はどこで間違ったのだろう。そしてぼくは、二条と同じ間違いを犯すのだろうか。二条といづなが処分されて、そのあとぼくは、どうするんだろう。
笑うだろうか。
悔やむだろか。
焔は還ってくるのだろうか。
温度のない紫の炎が、腕の中で揺らめいた。
『早くこっちに来いよ。待ってんだぜ』
『ふふっ。焔ったら毎日そればっかり。ちゃんと出てくるわよ。あと一ヶ月もすれば会えるんだから』
『おれはいますぐ会いたいんだよ』
お腹の大きなお母さんと焔が笑ってた。
『ほーら、旭。焔だよ。だっこしてもらえ』
『ちょ、た、太郎さん。無理。壊れる』
『あははは、大丈夫、大丈夫。落としても壊れないから』
『太郎さん・・・』
お父さんだ。白い焔の毛の中に、まだ生まれたばかりのぼくを、ぎゅうぎゅう押しつけている。焔の長い尾にそっと包み込まれて、ぼくは笑ってた。
焔の中にあったたくさんのぼくが、笑っていた。受け止めきれないほどの暖かい想いだ。涙が溢れた。溢れて止まらなかった。
同じだけれど、同じじゃない。父も母も祖母もいた。友もいた。焔がいた。
『おまえのミッション、忘れるな!』
二条を止める。
身体を舐めていた炎が、すっと違う熱に変わる。
「ぼくにわかることは、もう誰も失いたくないってことだけだ」
旭の頬を伝う涙が、ぽたぽたと胸に抱いたままのいづなの白い毛の上に落ちる。それは、小さな玉となり、滑らかな毛の上を転がった。焔の残した紫の炎に飲み込まれると、かちんという優しい音をたてた。
「きみに、ぼくは止められないよ。いづなを返して」
「だめだ。渡せない」
二条が消える。いづなが消える。そして、焔が消える。絶対に渡せない。
「ぼくにはそれが、必要なんだ。いづなもぼくが必要なんだ。約束したんだよ。最後までやるって」
真之介が腕を伸ばしてくる。いづなの身体に触れる。旭の腕の中で、いづなの身体がびくんと震える。紫の炎から、小さな火花が散る。
旭。真之介を止めろ。
焔の声だ。旭を強く支える言葉だ。
「二条を止めるのが、ぼくの任務だ」
「任務? きみは、一体なんなの?」
真之介が旭を見据える。
イレブンの士。そんな答えなど必要ない。
「ぼくは、二条の友だちだよ」
「ふっ」
二条から声が漏れた。
「ははははっ」
笑っている。声をあげて、おかしそうに、どこか壊れたみたいに笑っている。あっけにとられた旭の腕から、いづなを奪われる。
「あっ!」
「バカだね、きみは。ほんとにバカだ。でもおもしろいよ。あははは」
真之介がいづなを抱き、笑いながら芝の上を歩き出す。
「二条! だめだ! 返せ! おまえまで消える!」
二条を追う。
「違うだろ!」
それは、叫びに近かった。
「おまえは大切な先輩を消したくないだけだ」
旭の身体ががくんとくずおれた。綺麗に刈り込まれた芝の上に、へたりと座り込む。真之介が止まった。旭の姿を楽しむように眺める。それからゆっくりといづなの身体を撫でた。
「なんだ、やっぱりそうなんじゃないか」
吐き捨てるようにいった二条の声が胸を貫く。なに一つ言い返せない自分に気づいた。任務だ、友だちだといいながら、自分のためだけにここにいる。
二条の言葉のとおりだ。だから身体が動かない。真実の前ではこんなにも無力になる。
「に、じょう」
旭の掠れた声は、二条まで届かない。
「ぼくの還る場所は、乙葉のとこじゃないよ」
真之介が歩き出す。いづなをその腕に抱え、最後の約束を果たすために、歩いていく。
その背に、真之介の覚悟をみた。
復讐という炎を背負い、あやかしだけを友に選び生きてきた、真之介のすべてが旭の目に焼きついた。
「二条! だめだ! やめて、二条!」
もはやその背に向かって、歩き出すこともできない。身体がひどく重くて、手を伸ばすこともできない。真之介は二度と振り向かなかった。
二条と友だちなれると思ったんだ。
「焔!」
「焔!」
二条を止めると、約束したんだ。
「焔!」
こんな結末は、誰も望んでいなかった。
これがイレブンのミッションなら、こんなもの、ぼくはいらない!
「ほむらあー!」
(第八章「かえるところ」その5へ続く)