その3
旭は長い廊下を走り抜ける。断片的な記憶はフラッシュバックする映像に近い。不確かな欠片を頼りに、離れまで行き着いた。扉をあける。正面の大きなガラス戸は、ブラインドを開け放たれ、秋の午後の陽射しが部屋に満ちていた。ぐるりと部屋を見渡す。ベッドの上に、膨らみがある。駆け寄り、布団をめくる。浜崎が制服姿のまま横たわっていた。
顔が青い。手に触れてみると驚くほどに冷たかった。
「まさか、死んでる?」
慌てて胸のあたりを凝視する。かすかだが、胸が上下している。呼吸をしている証だ。ほっと息をつく。でも息は浅い。このまま放っておけば、眠るように死んでしまいそうだ。
「どうしよう。救急車、呼ばなきゃ。あーでも、説明なんてできないし。先輩は」
「彼は忙しいみたいだよ」
耳元で声がした。
「ひゃっ!」
飛び上がり、振り向く。いつのまに現れたのか、真之介が立っていた。心臓がどくどくと、経験したことのない速度で打つ。
「二条」
「どうしたの? 乙葉」
錯覚する。まるで教室にいるみたいだ。教室でクラスメイトとなんでもない会話を交わしている。二条がにこりと笑う。自分が二条の家に勝手に上がり込んでいる理由も追求されなければ、普通でない状態の浜崎が二条の部屋にいる弁解もない。
変だ。
なにが起こっているんだ。なにが起ころうとしているんだ。ぼくは、なにを止めればいい。
「乙葉? どうかしたの?」
二条が笑う。怖い。
焔先輩!
心の中で呼んでいた。叫ぶように、焔の名を呼んだ。
『よし、いい子だ』
焔の声が旭に呼びかける。焔の手のひらが旭に触れる。森のにおいに満ちていく。旭は、震える指を握り込んだ。呼気を整え、ゆっくりと二条に視線を向ける。
「なんで昨日失踪した浜崎さんが、二条の家にいるの?」
「いづなに運んでもらったんだ」
「なんのために?」
「妹が泣くから」
「妹?」
「夜子がね、泣くんだ。早く殺してって」
旭の体に寒気が走る。同じ年齢の、同じクラスのやつのセリフじゃない。氷のように冷たく鋭いナイフだ。旭は急に温度の下がった部屋で震えた。
「なんで」
殺すの?
言葉が出てこない。
「殺す理由? それは、きみにもすぐにわかるよ」
「どういう意味?」
真之介が、壁一面の窓を開けた。冷たい空気がどっと押し寄せる。窓の外の縁側に出ると、左斜めに見えている母屋に向けて指をさす。
その瞬間、家から、なにかがはじき出された。縁側のガラスが内側からの圧力でしなり、一瞬で砕け散った。ガラスの破片と一緒に、庭に転げ落ちる姿が見えた。
「焔先輩!」
「先輩? あの人、きみの先輩なの?」
焔が手をつき、立ち上がろうとしたところへ、家の中から飛び出した白い大きな獣が馬乗りに押さえ込む。重い音がした。
「なに、あれ。犬?」
普通ではない大きさだ。
「いづな。ぼくの友人だ。きみの大好きな先輩とお仲間なんじゃないかな」
「仲間って」
真之介がくすくすと笑う。
「ほんとに全部忘れちゃったんだね。いづなの術はすごいな」
ドンっと地面が揺れた。青白い雷のようなものが、弾けた。白い獣が飛び退いた。
(第八章「かえるところ」その4へ続く)