その2
大きな黒い門が内側に向かって、開かれている。
周囲には道路の角から角まで、ずっと白い漆喰の塗り壁に取り囲まれている。大きな家だ。いや、家はまだ見えない。真ん中に、どっかりと腰を据えた門が立ちふさがる。雨に染み、陽に灼けて黒ずんだ表札がかかっている。
「二条」
旭が声に出して読み上げる。真之介の家なのだろうか。
「旭、これがみえるか?」
焔が目の前を指さして問う。そこには門がぽかりと口をあけており、その向こうは砂利をしきつめたこぎれいな小道が続くばかりだ。
「これ? ただの小道しかみえません」
「じゃあ、これならどうだ?」
焔が旭の背後に立ち、その両手で旭の頭部を挟む。焔がその額を旭の頭上に載せると、旭の体の中を、冷たく澄んだ空気が駆け抜けた。すっと体が軽くなった気がした。
そして気づく。先ほど焔が示した場所には、大きな蛇が二匹、絡まり合うように模様を作り、来る者を拒むように、空中に二つめの門を作っていた。
「なんですか? これ」
旭の体が自然と後ずさりし、後ろに立っていた焔の体にとすんと当たる。焔の腕が、旭の身体を受け止める。
「怖れるな」
焔の強い言葉が耳に触れた。
「門番みたいなもんだ。たいしたあやかしじゃない」
「あやかしって、妖怪のことですか?」
「旭」
背後から焔の手が旭の肩をぐっと掴む。
「おまえの任務は、浜崎充、いや雪下充、あのランドセルの少年を探しだすこと。この家のどこかにいるはずだ。そして二条真之介を止めろ」
まっすぐに頭の中に響いてくるような声だった。
浜崎がなぜここにいるのか。真之介がなにをしようとしているのか。あの蛇の妖怪はなんなのか。焔が何者なのか。そして自分はなにを忘れているのか。
訊きたいことはたくさんあった。けれど、焔の声音は、そういうものをぜんぶ、旭からはぎ取った。ただ焔の言葉を刻み込む。
雪下充を探す。二条真之介を止める。それがぼくの役目だ。どうやって? そんなもの、そのとき考えればいい。
「はい」
旭は前を見据えたまま応えた。
「よし、いい子だ」
焔の手が旭の髪をくしゃりと撫でる。
知っている。ぼくはもうずっと昔からこの手を知っている。焔が自分に触れるたびに、自分の中のなにかが揺れる。生まれたばかりの小さな波紋が、次第に大きくなる。揺らす。響く。共鳴する。記憶がなくても、身体が反応している。
それくらい何度も、この手はぼくに触れたんだ。
「おれになにがあっても、おまえはおまえのできることを遂行しろ。いいな」
焔の身体が、旭から離れた。代わりに、冷たい空気が旭の背を抱く。思わず、焔先輩と、呼び止めていた。
「先輩は」
立ち止まり、振り向く。そのまま腕を伸ばして、もう一度、旭の髪に触れた。
「誰にも、触れさせない。怪我一つさせない。約束した。おまえが生まれたときに、そう誓った。おれはおまえを守るだけだよ。そのためにここにいる」
焔の指から、髪は零れるように離れた。
「いくぞ」
まっすぐに歩き出す。
それまでなにかの印を作っていただけだった蛇が、ゆらりと動きだし、その鎌首を持ち上げた。
「先輩!」
焔は構わずに進む。咬まれる、と思った瞬間、蒼い光がスパークした。空気を裂くようなするどい音が後に続く。思わず閉じた瞼を開く。焔の足元には、感電したように煙りを上げる、小さな二匹の黒い蛇が転がっていた。
「これが本当の姿だ。たいしたことないだろ?」
「し、死んじゃったんですか?」
「いや、気絶してるだけ。殺しちゃったら、旭が怒るからな」
そういって、ふふっと笑った。
自分の知らない自分を知っている焔を、もう不思議と思わなかった。目の前に、次から次へと押し寄せるすべての事柄が、もう普通ではない。ただ、自分を知るものがいる。その事実が逆に、旭を不安から解き放っていく。この人の隣りなら、怖くはない。
玉砂利をしきつめた小道は、二人を大きな玄関へと導いた。焔が躊躇いもなく、引き戸を開ける。靴のまま家に上がり、長い廊下を歩いていく。
ふらりと旭の脳裏にまた画像が散った。真之介だ。真之介の背中をみながら、この廊下を歩いたことがある。
「焔先輩、ぼく、ここに来たことがあります」
「思い出したか?」
「二条がぼくの前を歩いていました。庭の見える縁側の長い廊下をぐるっと回って、二条の部屋に行きました」
「よし、旭は、真之介の部屋へ行け。雪下もたぶんそこだ」
「焔先輩は?」
「おれは、あの人の相手をしないといけないからな」
焔が振り向いた方を、旭もみる。白いかっぽう着姿の女性が立っていた。焔が自分の体の後ろに、旭を押しやる。
「お客様、恐れ入りますが、靴はぬいでお通りくださいませ」
丁寧に頭を下げる。
「いづな、おまえ、いつからお手伝いさんになったんだ?」
「一年前からでございますよ。焔殿」
「先輩の知り合いなんですか?」
「大昔からのな。旭、おまえは先に行け。おまえの任務、忘れるな」
旭は自分の使命を刻んだ胸をぎゅっと押さえて頷く。旭が走り出す。焔が旭といづなの間に立ちふさがった。
「可愛いですね。焔殿のお好みに育てていらっしゃるとか。もうそろそろ食べころでは?」
いづなが、ほほほっと笑った。
「バーカ。おれはもう人を喰うのはやめたんだよ」
「信じられない発言ですね。あの焔殿が人を喰わぬとは。明日は赤い雪が振るかもしれません」
「おれのことは、どうだっていいんだよ。それよりおまえ、真之介との契約を破棄しろ」
「できません」
「互いの命をかけた契約か」
「はい」
「なぜ、そんなものを結んだ。おまえには力がある。人間と契約なんかしなくたって、十分、自由に生きていけただろう。なにが望みだ」
「同じだったのですよ」
「は?」
「真之介殿も、わたしも。互いに両親や周りに疎まれ、たった一つ、大切なものを奪われた。同じなのです」
「だからって、真之介を犯罪者にするな」
「彼が望んだのです。彼を疎んだ両親の死も。妹を殺した輩の死も」
「そのための力が欲しくて、命の契約をしたのか」
「そうです」
「願を果たせば、互いに消えゆく。おまえも、真之介もだ。真之介は知っているのか」
「ええ。全部、説明しました。やるべきことを終えれば、ともに無に還ります」
「おまえ、何を考えている」
焔の髪が、風もないのにざわりと揺れる。紫の瞳が人ではない異質な光を帯びる。
「どういう意味でしょうか」
「管狐とよばれるおまえらが、そんなに犠牲的精神の持ち主だとは思わなかったよ。人間のために命を捨てようなんて管狐がこの世にいるとはな」
「焔殿が知らないだけでしょう」
「ときに管狐を使役する人間の術者までも喰らうおまえらがか?」
「時と場合によります。われらを使う人間は、汚れた者。汚れた者など、この世にいない方がよろしいでしょう?」
「それがおまえらの持論か?」
「ええ、まあ。でも人を喰らえば、寿命は百年延びるといわれていますから。ああ、失礼しました。あなたはわたしよりも、よほどご存じでしたね。焔殿の寿命は、あと何千年続くのでしょうね」
いづなが薄く笑う。
「真之介をどうするつもりだ」
「わたしたちは友人です。役目を終え、一緒に逝きます」
「これ以上、人が死んでたまるか」
「信じられないお言葉ですね。焔殿は数百年お会いしないうちに、ずいぶん人間っぽくなられたようだ」
焔がため息をついた。
「平行線だな」
「昔話をしながら、時間かせぎしているのかと思っていました。真之介殿が戻られるのを待っておられるのですね」
「おれは、おまえの相手をしに来ただけだ。真之介は旭の友だちだからな。おまえはおれが遊んでやるよ」
「彼の者は、一体、何者ですか? 焔殿が大切にしていらっしゃる人間なんて、きっと誰もが興味を持つ」
「おれがしゃべると思うか」
「では、実際にみて参りましょう」
「行かせるかよ」
かっぽう着が白くふわりと舞う。お手伝いの格好をしたいづなが、背景に滲んで溶けたかと思うと、白い大きないたちの姿をとって現れた。
「おまえ、いつのまに、そんなにでかくなったんだ?」
「いえ、ちょっとした戦闘モードです」
焔がふんっと笑った。
(第八章「かえるところ」その3へ続く)