その1
「なあ、真之介、昨日のこと、聞いたか?」
「聞いたよ。図書室失踪事件だろ?」
唐揚げをくちに入れようとした旭の耳に、そんな会話が飛び込んできた。昼休みの教室は、弁当を広げる生徒がさまざまな場所で机を囲んでいる。
図書室と聞いて、思わずどきりとした。昨日の焔との出会いは、一晩たっても旭の中で鮮明に息づいている。焔と交わしたたわいもない会話が、あちこちにこびり付き、繰り返し囁いてくる。
旭が家の中に入るまで、焔は門の前から動かなかった。ポケットに手をつっこんだまま、街灯の光からちょっとはずれた場所で、自分を見送ってくれた。優しい紫の双眸が自分だけを捉えているのを感じていた。
このまま離れてもいいのか。ドアを閉めるとき、躊躇った。学校から家まで、途中、コンビニに寄り道しながら歩いた三十分を、そのまま終わらせたくないと思った。
「ほら、早く入れよ」
焔がいった。でも入れなかった。
「また明日。図書室で」
焔がそういってくれなかったら、そのままずっと立ちつくしていたかもしれない。
夕食のとき、母にそう話したら、笑われた。
「それって、もう恋人同士よねぇ。いいわねぇ。甘酸っぱいわ!」
「焔さんは男だよ。間違っても恋人とかじゃないから」
母に旭の言葉はもう届かない。
「ああっ! 思い出す! 思い出すわ! わたしも太郎ちゃんを家まで送っていったのよ。いつも帰りがたくて、ドアが閉まってからもずっとそこから離れられなくてね。一時間くらい、閉まった扉の前にいたこともあったわ。もちろん翌朝には、一番に会いに行ったっけ」
父と母の役割が逆っぽいのは、このパワフルな母をみれば納得できる。でも変だ。
「お母さん、それってストーカーっていわない?」
「なにいってんのよ! 愛よ! 愛!」
そしてその夜は、母の語る父との恋物語が延々と続いたのだ。だから今日はちょっぴり寝不足だ。
「それそれ! 失踪したんだよ、生徒が。すごい騒ぎになってんだよ」
失踪って、まさか焔先輩が?
寝不足なうえに、ストーカーとしか思えない強烈な母の思い出話が蘇り、遠のきそうになった意識が、ふっと戻る。
旭は、目の前で野球部の試合について語っている南野から意図的に耳を塞ぎ、斜め前の真之介とクラス委員の波多野の会話に全聴覚を集中させた。
「二年の浜崎充って人らしいんだけどさ。夜になっても家に戻らないんで、学校に連絡があったらしい。そしたら、図書室に置いてあったカバンが見つかったって。靴は靴箱の中。どう考えても学校にいるとしかおもえなくてさ、先生方が探し回ったんだけど、どこにもいなかったんだって」
「神隠しみたいだな」
「そうなんだよ。で、朝から警察が来ててさ、図書室とかいろいろ調べてるらしいよ」
「へえ、本格的だな。でもさ、ただの家出だったら、どうするんだろうな」
真之介がそういったとき、旭の左腕に、痛みが走った。なにか熱いものに触れたように、びりっと焼け付くような痛みだ。そっとシャツの袖を捲る。左腕の肘の下あたりに、小さな赤い痣があった。蝶が羽を広げたような形だ。昨日までは、こんなものなかった。ような気がする。思い出せない。
「む? どうした?」
南野がくちにごはんをかき込んだまま、問うてくる。
「なんかぶつけたみたい。痣ができてる」
「どこ?」
「ほら、ここ」
「なんもなってないよ。気のせいじゃん」
「え、だって、ここに赤い蝶みたいな痣が」
南野が旭をみた。不安になる。まただ。なにかがおかしい。
「ごめん」
南野が謝った。
「え、なに?」
「おれにはみえない。でも旭がそういうなら、きっと本当なんだ」
「みえないの?」
「うん。でも、昔からそういうことあったじゃん。旭にしかみえないものとか。小さいころは、よくバカにしてたけどさ」
「そう、だっけ」
「そうそう。あ、思い出した。一度だけな、おれにもみえたんだよ。ちらっとだけど。小学校三年生の夏休みだったかな。おまえん家に泊まりで遊びに行ったとき。夜中にさ、おまえが誰かと話してる声が聞こえて、なんだろうって、薄目開けたら、狐みたいな動物としゃべってたんだ。旭のいってたことは、嘘じゃなかったって、やっとわかった。今だからいうけどな、そんなおまえがすげえ、羨ましかったんだぜ。おまえの回りには、沢山の不思議があった。おれには、あんときだけしか見えなかったけど、きっとどれも本物なんだ。おれも一緒にみられたら、もっと楽しいだろうのにな」
「なんちゃん」
旭が南野に返す言葉を探していたとき、また腕に痛みが走った。痛くて、熱い。思わず顔をしかめ、痣を手で押さえる。
「おい、大丈夫か?」
「うん」
顔を上げたとき、旭の目の前に、また何枚もの写真が散らばった。
緑。青々とした水田。水色の服の少女。青む空。階段。黒いランドセルを背負った二人の男の子。彼らの視線の先に、血を流して倒れている小さな女の子。右側の男の子が振り返る。笑う。汚らしく笑っている。その顔が誰かに似ていた。
「あっ!」
思わず声に出ていた。
浜崎だ。
昨日、図書室にいた図書委員の浜崎だ。
同時に、腕の痛みがぴたりと治まった。抑えていた手をはずし、痣を見る。赤い小さな蝶はまだそこにあった。何かを訴えるように、熱をもっている。
椅子ががたんと鳴った。
「落ち着きねえな、旭。さっきから、どうしたんだよ」
南野の声を背中に受けながら、教室を飛び出していた。ざわつく廊下を走り抜け、南館三階の図書室まで一気に駆け上がる。波多野の話では警察が来ているとのことだったが、図書室の前には誰もいなかった。扉を開け、左側の書庫に飛び込む。書架の間を抜けて、一番奥のぽっかり開いたスペースへ、まっすぐに向かった。
焔がいた。
「よう」
あの席で、左手をあげた。白いシャツから、銀の腕輪が二つ覗いた。
「ほ、焔、先輩」
「お、いいねぇ、それ。新鮮だ」
「は、あの、え?」
教室からずっと走ってきたので、息があがってうまく声にならない。旭は大きく深呼吸して、息を整える。それでも心がざわざわして、焦る。うまく息ができない。
焔が自分のとなりの椅子を引いて、旭を座らせた。どこから出したのか、ミネラルウォーターのペットボトルを、キャップをとって旭に渡す。旭は、ごくんごくんと勢いよく飲んでから、はあっと大きく息をついた。
「あ、すいません。ありがとうございます」
旭が返したペットボトルを、なんの躊躇いもなく焔がそのままくちをつけて飲む。その行為にちょっと驚いた。とくんとくんと心臓が鳴りはじめる。この人と自分は、とても近い。なにげない行為の中に、確かにそう感じた。
話してみよう。いや、話さなければならない。直感がそう告げた。
「あの、焔先輩は、昨日、ここで会った図書委員の浜崎って人、知ってますか?」
「図書委員? ああ、追い出しに来た人か。知らない。顔も見なかったけど」
「こんなこというと、変に思われるかもしれないけど、焔先輩なら、もしかしたらわかってくれるかなって」
「話してみろ」
「はい」
旭はもう一度深呼吸して、再びくちを開いた。旭が垣間みた映像を話し始めると、焔から笑みが消えた。
「その二人のうちの一人が、図書委員の浜崎ってやつだったのか? 名前が違うじゃねえか」
「え? 名前?」
「あ、いや、こっちの話。で、その浜崎ってやつは、何年何組かわかるか?」
「それが、その人、昨日から行方不明なんです」
「なんだって?」
「ぼくもさっき、教室で誰かが話してるのを聞いたんですけど。昨日から家に帰ってないそうです。クラスメイトは神隠しじゃないかって。でもその話を聞いたとたんに変な映像が見えるし、腕は痛いし。なんか怖くて」
「腕?」
「はい。左腕のここんとこが、やけどしたみたいに痛くて」
旭が腕を押さえる。焔がその腕をとり、シャツの袖を捲る。そして赤い蝶の痣を指で触れた。
「熱もってるな」
「焔先輩。これ、みえるんですか?」
「おまえもみえるのか?」
「はい。さっき急に痛んで。めくってみたら痣ができてたんで、どこかにぶつけたと思ったんですけど。なんちゃん、あ、幼なじみなんですけど、彼には見えなくて、その」
自分がどれくらい途方もない話をしているのか、自覚している。小さいころから一緒で、自分を理解してくれている南野ならまだしも、昨日会ったばかりの焔に、なんでこんなことを話しているのだろう。
変だ。怪しい人だ。それでもいわずにはいられなかった。自分ではどうすることもできないなにかが、周囲で動いている。それに自分も関わっている。その渦に巻き込まれていく。怖くて、どうしていいかわからない。けれど焔なら、どうすればいいか知っている。そんな気がしてならない。
「大丈夫。ちゃんと機能してる証拠だ」
焔がふっと笑った。
「機能してるって、何がですか?」
「そのうちわかる。もうすぐだ。それよりもやばいのは、あっちだな」
「やばいって、浜崎って人ですか?」
「行くぞ」
腕を掴まれて、無理矢理立たせられた。旭の背中をぐっと前に押し出して、自分も歩き出す。
「えっ? どこですか?」
「今日、二条真之介は、来てたか?」
風を切るように、書架の林の中を歩きながら焔がいった。
「はい。来てます。二条が関係あるんですか?」
「あとで話す」
バタンと派手に音をたてて扉をあけ、図書室を出て行くその背中を、旭は小走りで追いかけていくのが精一杯だった。焔が歩いていくその軌跡に、ふわりと森のにおいを嗅いだ。
あのときと同じだ。朝、誰かがいる気配がして、このにおいがした。
でも、なんで。
母親のこと。焔。浜崎。二条。忘れているなにか。それが朧気ながら、繋がってくる。自分に深く絡みつき、縺れ、旭をより混乱させる。何をどこから考えればいい? 頭痛がする。
深い山のにおいが、旭を導く。ただ、茶色の長めの髪が揺れる背中だけを見て、走った。
(第八章「かえるところ」その2へ続く)