その1
太古から、日本に変わらずに存在するあやかし、あるいは妖怪。
人に害をなすそれらを処理するための特殊機関がある。国家公安委員会第十一特別外局、通称「イレブン」
あやかしを制御する特殊な力を持つ人々を「士」(し)と呼ぶ。年齢に関わらず、能力を発した時点でイレブンに登録される。その数、全国に約五千人。大抵の場合、士としての資質は、親から子へと受け継がれる。
その特殊性ゆえに、イレブンの存在は公にされていない。東京のどこかに本部があるといわれるが、その場所を知る者は、イレブンの士と、日本という国の中枢にいる数人だけである。
「登録ナンバー4832。乙葉旭」
「指紋、声紋、虹彩、静脈パターン、全テ、一致シマシタ。入局ヲ許可シマス」
目の前のただの灰色の壁に、音もなく縦にまっすぐに亀裂が入る。眩しい光が、薄暗い通路にこぼれ出す。旭は、高鳴る鼓動を抑えるように、一つ大きく深呼吸すると、光の中へ進み出た。
目の前に、大きな円形のホールが広がっていた。数人のスーツを着た大人たちが、靴音を響かせながら行き交う。高い天井はドームになっていて、曇りガラスの向こうから、やわらかな光線が降り注いでくる。
初めてここを訪れたとき、口をあけたまま動けなくなった。エレベータで地下五階に降りたはずなのに、このホールには、陽の光が満ちていたのだ。自分の感覚がおかしくなったのかと思った。一緒にいた母が「特別な光なのよ」と笑った。手のひらをかざすと、太陽のように少し暖かい。どんな原理で光と熱を放っているのか、旭には未だにわからない。
円形ホールから八方へと伸びる廊下の一つを目指す。自分や往来する人々の姿が、はっきりと映るぴかぴかの床で、場違いなスニーカーがきゅっきゅと鳴く。いくつかの曲がり角を、右へ左へと進路をとり、やがて突き当たる。
ネームプレートが「乙葉日向」の在室を示すブルーの弱い光を発していた。旭はトレーナーの裾をひっぱって、居住まいを正す。
「乙葉旭です。入ります」
扉を開けて、中に入る。ベージュを基調とした優しい色合いが視界に広がる。ここにも、太陽のような柔らかい光が満ちていた。大きなデスクの向こう側の革張りの椅子が、旭を迎える。
「三分の遅刻です。乙葉旭」
きつい声が響いた。旭の身体がびくんと飛び上がる。大きな椅子から、声の主が立ち上がる。きっちりと結い上げた髪が、すらりと伸びた身長をより高くみせる。鋭い双眸が旭を見据えていた。
「ごめんなさい。おばあちゃん、あの」
「乙葉旭。ここは家じゃありません。イレブンの士の一人なのだという自覚を持ちなさい」
イレブンの士。
その言葉は、乙葉家の者にとっては、何よりも重い。逃げることの適わぬ責任である。旭はきゅっとくちびるを咬み、ぺこりとお辞儀をする。
「はい。すみませんでした。気をつけます」
旭の祖母、乙葉日向は、国家公安委員会第十一特別外局、通称「イレブン」の局長だ。そして、旭を育てた親代わりでもある。旭の両親もまた士だ。全国を飛び回っている両親に代わり、実質、旭を育てたのは日向だった。
イレブンの士となって日の浅い旭は、きっぱりと気持ちを切り替えることができない。祖母はどこにいても祖母だ。イレブンの長としての祖母の姿や声に戸惑ってしまう。この部屋にいると、正しい認識を無理矢理ねじ曲げようとしているみたいで、落ち着かない。それでも割り切らなければならないのだと、祖母はいつもいう。そういうことを自然にできるようになるのが、大人なのだろうか。旭は、部屋の中の息苦しさに、そっと息を吐き出した。
「最初の任務です。この人物を調査してください」
日向の一言で、全身がぴしりと引き締まる。
日向が机の上からファイルを取り上げ、旭に差し出した。ファイルを開く。履歴書のような書類に、写真が一枚、クリップで留めてある。
「二条真之介? ぼくと同じクラスの?」
写真の中の黒い学生服を着た少年は、四ヶ月前、夏休みが始まる直前に、旭の通う中学に転入してきた。時期はずれの転校生は、東北の方から越してきたらしいが、屈託のない笑顔と壁を作らない物腰のせいか、すぐにクラスに馴染んだ。
「報告書の二枚目をご覧なさい」
ページをめくる。リストだ。七人の名前と年齢、日付、場所、そして病気、火事、事故、行方不明などという旭の日常生活とおよそ縁のない言葉が並んでいる。さらにリストの最初の四人には「死亡」と記されていた。
「二条真之介の周囲で起こった出来事の関係者です。一つ一つは、警察の事件にもならない、新聞にも取り上げられない、ありふれたもの。けれど、これが一人の人間を中心に起こっている。わかりますね、旭」
誰かが病気になったとか、交通事故にあったとか、近所の家が火事になったとかは、自分が生きるこの世界で、普通に起こっている。ただ知らないだけで、今この瞬間にも、病気で亡くなる人もいれば、生まれてくる子どももいる。長く生きていれば、人の生死に触れる回数も増えてくるのかもしれない。
けれど、七件もの事故や病気が、たった十二歳の二条真之介の周囲で起こっている。リストに並んだ日付を視線が追う。すべてが、過去三年以内に発生している。これは異常だ。旭は、イレブンの動く理由を理解した。
妖怪が人間を惑わす。昔から、そんな事件は数え切れないほどある。
「普段は大人しくて、とてもいい人だったんですよ」
凶悪な事件の後、近所の人たちが口を揃えて容疑者をそんなふうに形容するとき、イレブンはあやかしの存在を疑う。なんの理由も、目的もなく、妖怪は人を狂わせるのだ。ときには、そんな妖怪の力を利用し、人間が人間を傷つけるような事件もある。
そのため、妖怪を視たり、制御できる力を持つ者は、すべてイレブンに登録される。中でも、適性検査の結果、性格や生活に問題のある者は、士としての資格を得られないばかりか、一生をイレブンの監視下に置かれる。本人にも、その周囲にも気づかれることなく、静かに見張られるのだ。
そのイレブンが、クラスメイトである二条真之介をターゲットにした。
教室の中で笑っていた二条を思い出す。昼休みには、二条を中心に笑いの渦ができる。クラス委員の波多野と一緒に、笑っていた。
笑っていたのだ。
あれが、四人もの死を抱え、そして乗り越えた笑みなのか。あの笑顔の向こうに、どんな闇を隠しているのか。あるいは、どんなあやかしが、彼の心を惑わし、彼の身体を操っているのか。
旭の頭上の空気塊が急に重みを増した。
「旭、あなたの任務は、二条真之介の身辺調査すること。あやかしの存在を確かめること。存在がわかれば、あとは別の者を派遣します」
旭は祖母の表情を仰いだ。黒い双眸が静かに旭を見下ろしている。イレブンの士の顔だ。
イレブンに登録された士の数は少ない。けれど妖怪がらみの事件や問題は、後を絶たない。一度、士として登録されれば、子どもだろうと可能な限り、イレブンのミッションにかり出される。妖怪など、とうに忘れ去ったはずなのに、近頃では人と妖怪の接触は減るどころか、増え続けている。天候が狂うように、人の世界にも、あやかしたちの世界にも、どこかに歪みが生まれているのだという。
旭は、両親から力を受け継いだ。二人の子どもとして生まれた瞬間から、イレブンに登録されている。十歳のときに訓練を終え士に認定された。しかし旭には、これまでただの一度もミッションは与えられなかった。局長の孫だからと、甘やかされていたわけではない。訓練の最終課題で、ハデに失敗をしたのだ。捕らえるべき妖怪に同情し逃がしたばかりか、隙をつかれ攻撃を受けた。結果、旭は二週間入院する怪我を負った。かろうじて士の認定は受けたけれど、これまで二年間、ミッションは一つも貰えなかった。
落ちこぼれだと思っていた。
今、自分は生まれて初めての仕事を与えられたのだ。嬉しくないはずはない。それなのに、踊る心を押しのける勢いで、不安も芽吹いてくる。
「期間は一ヶ月。イレブンの存在は気づかれないように」
「はい」
「たとえあやかしと出会っても、あなたは手を出さないように。いいですね?」
念を押された。頷くしかない。やはりまだ、認められてはいないのだ。
「了解しました。これより任務を開始します」
「成功を祈ります。行きなさい」
日向は机の上の別の書類に手を伸ばし、すでに次の仕事に移っていく。
なんでぼくなんですか?
ぼくは落ちこぼれなんじゃないんですか?
ぼくにできますか?
問いかけたい言葉を飲み込んで、旭は一礼し、部屋を出た。
(第二章「ファーストミッション」その2へ続く)