その5
古ぼけた木の扉を開くと、もう本のにおいがした。貸し出しカウンターにいた上級生が、ちらりと旭を見たので、あわてて会釈をした。
顔をあげたとき、もう一度、その顔をのぞき見た。何かがひっかかった。どこかで会った人のように思えたのだ。それがどこだかは、思い出せない。掴もうとすると、より深い場所へと逃げてしまうような感覚に襲われた。旭はぷるると首を振ってから、左手の扉を開けた。
書庫の中は、校舎の廊下よりも暖かい。大きな窓から午後の太陽が降り注ぎ、閉め切ったこの部屋を暖めている。何も考えず、書架の間を歩いた。いくつかの本を手に取ってみたりしたが、あまりぴんとこない。元々、本を読むほうではない。図書室にも、宿題の調べもの以外で、用があったとは思えなかった。
なんとなく目の前にあったミステリー本を手に取り、またふらふらと歩き出す。沢山ある書架の間を、できるだけゆっくりと縫うように進み、一番奥の少し開けた場所にたどりついた。
「こんな場所あったっけ」
大きな閲覧机が三つ、並んでいる。柔らかい色の陽射しが差し込み、日溜まりを作る。暖かく優しい区間ができあがっていた。猫がひなたぼっこをするのにぴったりだ。案の定、そこに猫が一匹。閲覧机の一つ、一番窓際の席につっぷして寝ている生徒がいた。陽に透けて茶色に光る髪がとら猫のようだ。気持ちよさそうに、その背が上下する。ほんとに猫みたいで、ちょっと笑ってしまった。
かすかに空気が揺らいだのか、猫が、いや寝ていた生徒がぴくりと反応した。ゆっくりと顔をあげ、あたりを見回すと、旭を見つけてそこで視線が止まる。伸びすぎた前髪の間から、不思議な色の双眸が旭を捉えた。
紫?
旭の心臓がどくんと鳴る。昼寝姿。茶色の髪。紫の瞳。写真をばらまいたように、映像が蘇る。
ここで、この場所で、以前、確かに、この人と会った。
けれどそれも、確かめようと伸ばした手の隙間から、簡単にこぼれ落ちてしまう。消えていく朝方の夢のようだ。どれほど握りしめても、欠片一つ、手のひらに残せない。虚しさと、苛つきだけが残る。
現実のこの人は、にこりともせず、どちらかというとむすっとした顔で、旭を見ていた。気持ちよく昼寝しているところを邪魔してしまったのだろうか。
「あ、あの、ごめんなさい。お邪魔しました!」
「あっ、旭!」
旭がぺこりと頭をさげて、その場を立ち去ろうとした。回れ右をする。今にも駆け出そうというときに、強い力に引き留められた。腕を掴まえられていた。いつのまに席をたち、旭の背後まで来たのだろう。なんで、自分の名前を知っているのだろう。そんな疑問が浮かぶ間もなく、あまりにも突然のことに、旭は声も出せずにいた。南野よりもさらに背の高い、たぶん三年生だろう、彼を怖々見上げる。
「ごめん。驚かせるつもりじゃなかったんだ。逃げなくてもいいっていおうとしたんだけど」
旭を捉えていた手をそっと離した。かなり強く掴まれていたようで、彼の手が離れた箇所に、少しの痛みが残っていた。
「本、読みに来たんだろ?」
頭の上から振ってきた。
「座れば?」
そういって、椅子の一つを示される。上級生に図書室の人気のない場所で引き留められ、椅子を勧められる。なんか変だ。けれど、旭の戸惑いも気づいてないのか、気にしていないのか、彼はさっきまで自分が座っていた席に座り、どうぞと、その正面の席を指し示した。
マイペースだ。
そして、変な人だ。
旭の思考がおいつかない。でも、身体はなすべきことを知っていたようだ。誘われるままに素直にすとんと座っていた。なんとなく持ってきてしまった本を机の上におく。そして、目の前に座る彼を見た。
笑っていた。
わけのわからない感情が、急に込み上げる。体がほわっと暖かくなるような嬉しさと、どこかにひっかき傷でも作ってしまったかのような痛みを伴う不安。半分半分の感情に、旭は自分でその理由を見つけることができない。
『まずは動け』
南野の言葉が頭をよぎった。旭は絡まり合った思考をかき分けながら、最初の一歩を踏み出す。
「あ、あの、どこかで会ったことありましたっけ?」
「あるだろうね」
「それは、どこですか?」
「こことか。あちこちで」
「あなたは、ぼくのこと、知ってるんですよね」
「知ってるさ」
紫の目がいたずらっぽく輝いた。
「乙葉旭。十二歳。一年C組。誕生日は十一月一日。お、あと一ヶ月だな。好きなものはプリン、嫌いなものは、そうだな、学校のテストくらいか。怖いものは、ばあちゃんの『お座りなさい』だ」
「な、な、なんでそんなことまで知ってるんですか!」
「なぜなら、おまえはおれの」
少しの逡巡のあと、紫の双眸がほんの少しだけ陰り、それさえも隠すかのように、その人はまた笑って
「しもべだからさ」
といった。
「は?」
ふふっと笑うこの人の会話についていけない。でも気を取り直して、前へ進もう。
「あの、ごめんなさい。ぼく、最近、ちょっとおかしいみたいで、いろいろ忘れてしまったみたいなんです。あなたのことも、覚えてなくて、ごめんなさい。ほんと変ですよね」
「謝らなくていい。おかしくなんてない」
南野と同じことをいう。
「でも、母親の職業とかも覚えてないんですよ。あなたのことも、知っている感じがするんですけど、でもわからないんです。できれば教えてもらえたら嬉しいんですけど、だめですか?」
こんな問いかけは、普通じゃないだろう。けれど、この人の前だと、そんなこと気にしなくてもいい気がしてくる。上級生と会話なんてしたことないのに、すらすらと言葉が出てくる。
不思議な人だ。
「おれのこと、どう思う?」
「えっ?」
自分が問うていた立場なのに、逆に聞き返された。
これって、告白とか?
一瞬、そんな冗談めいたシーンが頭に浮かんだが、そういった彼がほんの少しだけ不安げな顔をしたことが気になった。彼は、真面目に問うているのだ。彼にとっては大切なことなのかもしれない。
旭はもう一度、彼をじっと見つめた。茶色い髪は、ちょっとやんちゃな生徒みたいだ。顔立ちは、すっきりさわやか系で、とても整っている。そしてなんといっても、紫がかった瞳が印象的だ。どこか異国の血が混じっているのだろうか。映画やアニメのキャラクターみたいだ。
人、らしくない。
変だな。この人はちゃんとここにいるのに、この学校の制服をきて、ぼくの目の前にいるのに、人間じゃないだなんて。あり得ない。
でもそんなことよりも、もっと大きな力がある。惹かれるのだ。ぐんぐん引き込まれて、この人に包まれてしまうような感覚にさえなる。それが嫌ではなく、心地よいとまで思える。
「不思議な人です」
旭の中に浮かんでくる感情を、ありのまま口にした。
「マイペースで、強引で、振り回されてしまいそうだけど。でも、なんだか一緒にいたい。そう思わせる人だと思います」
旭は自分のくちから出た言葉を頭の中で反芻して、そして頷いた。もう少し、一緒にいたい。それだけが確かだ。
目の前の紫の瞳が、すっと伏せられた。前髪が降りかかり、よく見えない。何かを考えるようにして、そしてぼそりといった。
「ありがとな」
それはあまりにも小さくて、そのとき鳴り出した下校チャイムに、半分、かき消されてしまった。
「もうすぐ閉室時間です。帰り支度をしてください」
いきなり背後から声をかけられて、旭はびくんと椅子の上でとびあがった。振り向くとカウンターで会った上級生がいた。事務的に言うべきことだけを告げ、もう戻りかけている。
「帰るか」
目の前の彼が立ち上がり、思いきり伸びをした。旭は机の上の本を片づけ、一緒に図書室を出た。
冷え切った校舎の空気にさらされて、ぶるっと体を震わすと、旭は気になっていたことを、再び尋ねた。
「あの、あなたの名前は?」
「ほむら。火へんのほのおって字を書く」
「ほむら? 名前も不思議ですね・・・えっと、また会えますか?」
少し躊躇したあげく旭がそう尋ねると、焔は嬉しそうに笑顔を見せた。
「たいていあそこにいるから」
焔は書架の向こう、閲覧机の方を指さした。
「はい」
旭が笑う。もうそれだけでいっぱいになる。ぎゅうぎゅうと胸が鳴く。
旭を真之介の家へと向かわせたとき、旭の顔さえ見なかった。それが最後だった。あのとき、もっとちゃんと旭と向き合っていればよかった。東北になんて行かなければ、この手で旭を守れたんだ。
あのとき、ああすれば。
後悔ばかりが押し寄せた。自分を忘れたままの旭に向き合うのが怖かった。自分を見ていない旭の視線が痛かった。眠る旭のそばに、ただついていることしかできなかった。あれが最後だなんて、許せなかった。
あれから四日。人の形をとり、人にも見える術をかけ、やっと旭の前に立った。会いたかった。旭の視界の中に入り、言葉を交わしたかった。旭が笑うのをみたかった。
心が動き出す。泣き出したいような衝動に包まれる。こんな感情も、旭でなければわからなかった。旭が教えてくれる。陽桜の言葉のとおりだ。
焔が旭の背にそっと触れる。
「家まで送ってく」
「え、大丈夫ですよ。一応、男子ですから」
「もう冬だからな、すぐに暗くなる。おまえになんかあったら、おれがおまえのばあちゃんや陽桜さんにボコボコにされるんだよ」
「ボコボコって・・・おばあちゃんはそんなことしないけど、お母さんならやるかも。焔さんって、うちのこと、なんでも知ってるんですね。あ、そうか、近所に住んでるとか」
「まあ、近いっちゃ近いな」
「どこなんですか?」
「それは秘密だ」
「なんで教えてくれないんですか?」
「ミステリアスな方がもてるだろ」
「ぼくなんかにもてたって、意味ないと思いますけど」
意味なら大いにある。旭が笑ってくれれば、それでいい。自分が欲しいのは、それだけだ。
「お、コンビニだ。旭、肉まん食おうか」
「話、逸らしましたね」
「ピザまんのがいいか?」
「あんまんがいいです」
「了解!」
焔が笑うと、その息は白く丸い球体を描き、旭の息と重なった。
(第七章「笑顔の向こう」その6へ続く)