その4
最近の自分は、どこかおかしい。
旭は放課後を迎え、ざわつく教室で一つため息をついた。
毎日、学校に来る。一年C組のこの教室の、一番後ろの自分の席に座り、授業を受ける。部活には入っていないから、授業が終われば家に帰る。適当にテレビを見たり、ゲームをしたりして、晩ご飯を食べ、宿題をして、風呂に入り、眠る。
あげつらねてみると、それらにはどこにも落ち度がないように思える。落ち度がないのに、納得できない。母親が家にいることさえ、違う気がする。母はそれを肯定した。だからおかしいのは自分なのだ。
斜め前に座る二条真之介が、重そうなスポーツバック抱えて、席を離れた。旭の横を通り過ぎ様、バイと手を振って笑った。条件反射で、自分も手を振り返してから、気づく。
二条としゃべったことなんて、あったっけ?
どちらかというと、クラスで人から声をかけられるタイプではない。かといっていじめられてるとか、嫌われているとかではないから、挨拶くらいはする。ただ、これまで二条とは、挨拶さえ交わしたことはなかったはずだ。
「旭? どした? ぼけっとして」
ふいに呼ばれて、自分が二条の背を追っていたことに気づく。ふりむくと、南野がこれまた大きなスポーツバッグを担いで立っていた。南野は旭の数少ない友人だ。幼稚園からずっと一緒で、彼はいま、野球部に入っている。
「あ、えと、なんでもない」
旭の顔をじっとみつめてから、南野は肩からバッグを外し、旭の前の席に座る。
「あのさ、なんか抱えてるなら、話しちゃったほうがラクだぞ。おれ、聞くだけしかできないかもしれないけど」
「え? ど、どうして?」
「ここ二、三日、おまえ、らしくない。なんていうか、旭じゃねえみたいな。いや、旭なんだけどさ。なんかうまくいえない。ごめん。でもちょっと、いや、かなり心配」
南野が短く刈り込んだ後頭部をがりがりと掻く。大きい身体のわりに、照れ屋なのだ。ぶっきらぼうだけれど、優しい。小さいころから変わらない南野の前では、旭は肩の力を抜ける。
「なんちゃんもそう思うんだ」
旭がまたふうっと息をつく。
「自分でもなんかおかしいんだ。お母さんが家にいるのが納得できなかったり。当たり前のことしてるのに、間違ったことをしているみたいな。違和感? っていうのかな。自分が自分でないみたい。ほんとの自分がわからなくて、もやもやしてる、そんな感じ。二重人格になったか、頭がおかしくなったんじゃないかって思ってた」
「そんなことねえよ!」
南野が強く反論する。教室にまだ残っていた数人の生徒から注視される。南野がしまったって顔をして、視線を逸らすと、また頭をかいた。
「おまえはおまえだよ。でも、旭が変わっても、おれが旭の友だちだっていうのは、変わらないからな」
南野の耳朶が赤く染まる。そんな南野の姿を見て、自然と笑みが浮かぶ。
ほんと、変わってないなぁ、なんちゃん。
小さいころから、南野は旭の言葉を、いつでもちゃんと聞いてくれた。どんなことでも、一緒になって考えてくれた。ありのままの旭を、受け止めようとしていた。自分に向けられた南野の想いが、自分は一人ではない、大丈夫だと力を貸してくれる。そういう瞬間が幾度もあった。
「ありがと、なんちゃん」
南野が照れたように笑う。
「変わったことといえばさ、旭、最近、放課後、図書室に行かなくなったな」
「図書室?」
「まえはよく行ってただろ?」
「そう、だっけ」
思い出せない。
旭の中に、小さな風が生まれた。漠然とあった不安を、その風が掻き立てる。なにか、とても大切なことを忘れているんじゃないだろうか。
南野の大きな手が、旭の頭をくしゃくしゃと撫でる。その手にふっと別の影が重なる。大きくて優しい手の既視感。
「気になるなら行ってみろよ。なんかわかるかもしれないだろ。まずは動け。これ、おれの座右の銘なんだ」
自分より頭一つ分高い南野を見上げた。南野が陽に焼けた顔で笑っていた。旭はその前向きな提案にのってみることにした。
(第七章「笑顔の向こう」その5へ続く)