その3
「おはよう、お母さん」
朝食の席についたばかりの旭が、動きを止めた。自分の言葉に、小さな違和感を抱く。口がその言葉を言い慣れていない。そんな気がしたのだ。
「あら、旭、早いのね。おはよう」
陽桜がキッチンから顔を出す。味噌汁のにおいが広がった。旭の目は確かに陽桜を捉え、それが母であることを知っているのに、なぜか納得できない。母がここにいることが不思議でならない、そんな顔で、陽桜をみた。
「どうしたの? 旭」
「んー、なんかね、お母さんに会うの、久しぶりな気がしたんだ。でもそんなの変だよね。毎日会ってるのに」
「そうよ、久しぶりよ」
陽桜が一瞬の躊躇いもなく応える。あまりにもはっきりいうので、冗談ではないのだろう。旭の鼓動がとくんと不安に揺れる。
「どういう意味?」
「お母さんは、国家公務員なの。いつもは仕事で全国を飛び回っているから、家に帰れるのは一ヶ月に一週間くらいかな。今は特別休暇中なのよ。知らなかった?」
あまりにも簡単にいうから、旭の方が戸惑う。母の職業を初めて耳にした。母親の仕事をしらないなんて、あり得ない。でも耳慣れないのだ。国家公務員という文字が旭の頭の中をぐるぐると回る。
「国家公務員・・・だったっけ。なにする仕事?」
「それは秘密」
「秘密機関のスパイとか?」
陽桜が笑い声をたてる。笑われて、それがとてつもない勘違いなのだと、いわれた気がした。テレビや映画の見過ぎだ。バカみたいだと、悔いる。
「おしいわ」
「え?」
今度は謎めいた笑みを漏らす陽桜に、旭の思考回路がついていかない。
「旭も知っているはずよ。よーっく胸に手をあてて考えてみて。ごはんとお味噌汁よそってくるから」
旭はキッチンへと消えていく母の背中を、言葉もなく見送った。
「陽桜さん、今のなに?」
冷蔵庫の前に突っ立っていた焔が、陽桜を睨む。
「ほんとのこといっただけよ。わたし、旭には嘘をついたことがないの」
「旭がすげえ気にしてる。あんま負担かけんなよ」
「あら、あのくらいでへこむようなヤワな子に生んだ覚えはないわ。それよりも」
陽桜がすっと焔に近づく。茶色の髪が無造作に降りかかる額に手を伸ばす。焔が思わず身を引いた。ごとんと、その背が冷蔵庫にぶつかる。
「あなたの方が、死にそうって顔してる。寝てないんでしょ。この三日間、昼間は二条真之介のターゲット、雪下充を探し歩き、夜は旭のそばにつきっきり。妖怪だからって、不眠不休ってわけにはいかないのよ」
「おれはいいんだ」
焔は陽桜から逃げるように、視線をそらせた。
あれから三日間、真之介が生まれ育った街にこびりつき残っていた思念を頼りに、彼のターゲットを探しまくった。わかっていたその名を頼りに、街を歩き尽くした。雪下充の年齢は真之介の一つ上だ。中学二年だから、同じ学校に通っている可能性は高い。それなのにまだ見つからない。
間に合うならば、止めたい。
すべて終わったあとに、旭にその結末だけを語る、そんな状況だけは嫌だ。それでは、旭の背負っていくものが重すぎる。中途半端に関わって、知るだけ知って、結局はなにもできなかった。助けられたかもしれない二つの命が消えた。そんな自分を旭は許さない。一生、悔い続ける。幾度も思い出し、泣きながら眠る。そんな旭をみたくない。それならば、最後まで見届け、最後まで関わる方を選ぶ。たとえなにも救えなかったとしても、できることすべてをやり遂げたなら、いつの日にか、そんな自分を受け入れることもできる。旭ならば、きっと乗り越える。
気づいてみれば、すべては旭のためだ。
ほんとうは、二条真之介も、かれと契約を交わしたあやかしも、どうでもいい。ただ旭が元気で笑ってくれたら、それだけでいい。
焔は、旭が眠っている間、その寝息が聞こえる距離で、夜を過ごした。今の旭と焔を繋ぐ唯一の証である赤い蝶に、幾度も触れた。名前を呼んだ。自分の名を呼ぶ旭の声を思い出した。夜という空間が、苦しく悲しいものだと、初めて知った。そんな夜を繰り返して、わかった。
旭がいてくれたら、なにもいらない。
そのためだったら、なんだってする。
自分が消えたっていい。
「よくないわよ」
「え?」
盆を手にした陽桜が焔を振り返った。
「ぜんぜんよくないわよ。旭が元に戻ったとき、あなたがいなくなってたら、あの子は狂ってしまうわよ。自分がどれだけ旭に必要とされているか、考えたことはないの?」
「違う、おれが旭を必要なだけだ」
「一方通行なだけの想いだったら、あなたは今、ここにはいないでしょ」
「そんなこと」
「わからない? だったら旭に訊いてみれば? あの子なら知ってるかもよ」
「おれを覚えてないのに、どうやって」
「ほら! 後ろ向きになってる! らしくない。あなたもご飯、食べなさい。ちゃんと食べて、ちゃんと寝なさい。正しい思考は、正しい生活からよ」
母親の顔で陽桜がいった。
このままではだめだとわかっていた。でもどうすることもできなかった。すぐそばにいるのに、旭は自分をみていないのだ。触れてもわからない。呼んでも聞こえない。その現実を受け入れられなくて、旭に近づくことを躊躇った。家の中でさえ身を隠し、眠る旭のそばにいることしか、できなかった。
身体が叫ぶ。細胞一つ一つが声を上げる。
おれを忘れないでくれ。おれを消さないでくれ。あの瞳で自分を捉えて欲しい。おれを呼んで欲しい。触れたい。触れられたい。会いたい。旭に、会いたい。おれをみろ。みてくれ。
リビングから聞こえてくる旭と陽桜の笑い声が、焔の胸をどくんと揺らした。
(第七章「笑顔の向こう」その4へ続く)