その3
「すごいねえ、おにいちゃん」
黒く豊かな髪が、目の前でふわりと風に舞った。
水色のワンピースの裾が翻り、空の青と同化する。眼前には、一面の水田が緑を抱く。豊かに実りゆく稲穂のおもてを、風が触れた痕がみえる。その行き先は、ずうっと先にある山の麓だろうか。
右手の先の温もりが、肌をくすぐる。妹の小さな手が、真之介の手を握りしめていた。田んぼのあぜ道を、手を繋ぎ、並んで歩む。
妹の夜子が自分を見上げて、笑った。
「夜子は怖くないのか?」
「え? なにが? おばけ? 妖怪? 怖くないよ、ぜんぜんだよ」
首をぶんぶん振る。そのたびに、さらさらな長い髪が腕に触れてくすぐったい。
「妖怪じゃなくて、おれ」
「なんでおにいちゃんが怖いの?」
「だって、ほら、妖怪とかみえるし。みんなと違うし」
「おにいちゃんは、夜子のおにいちゃんだもん。かっこよくて、頭もよくて、夜子、大好きだよ」
夜子が笑う。
身体の中に、満ちていく。おいしいものをたくさん食べたときのように、お腹がいっぱいになる。
人とほんの少し、違うだけだった。他の人にはみえないものがみえる。たったそれだけで、周りは、自分をはじき出した。学校のクラスメイトからは無視され、上級生には容赦ない言葉を浴びせられた。追いかけられ、肉体的な暴行を受けた。両親でさえ、一歩離れて自分をみる。決して、近づいてはこない。ぎこちない。家の中でも自分の周りにはぎしぎしと音がした。
二つ下の夜子だけは違っていた。
夜子は兄を恐れない。家族の中でも、兄を他のみんなと同様に扱う。躊躇わず、触れてくる。妖怪がみえるという兄を羨ましいとさえいい、いつでも兄を慕っていた。
その夜子が、ひどく怪我をして帰ってきたのは、真之介が五年生のときだ。夜子はまだ三年生になったばかりだった。肘から腕にかけて、大きな擦り傷ができていた。
真之介が帰宅したとき、家には夜子しかいなかった。一人で傷の手当てをしていた。
「どうしたんだ、それ」
「えへへ、ちょっと階段から落っこちちゃった」
夜子が舌を出して笑った。すぐに嘘だとわかった。
「誰にやられた」
「おにいちゃん?」
兄の低く抑えこんだような声に、夜子が不安げに顔を見上げてくる。
「まさか、雪下と水野か? あいつらに突き落とされたのか?」
近所に住む一つ年上の二人は、真之介が幼稚園のころからずっといじめを繰り返している。何度となく、とっくみあいのけんかもしてきたが、その度に負けるのはいつも真之介で、親や学校の先生に怒られるのも真之介だった。
真之介の腹の中で、くらりとなにかが煮える音がした。身体に震えが走る。指を握り込む。歯を噛みしめる。その音を、夜子が聞きつけた。
「お父さんやお母さんにはいわないで! 先生にもいっちゃだめ!」
夜子が真之介の腕を掴む。
「なんでだよ! あいつら、おれだけじゃなく、夜子までも。なんにも関係ないのに」
声が震えてしまう。怒りが溢れて止まらない。
「関係なくなんかないよ。夜子はおにいちゃんの妹だもん。夜子もおにいちゃんと一緒に闘うんだから」
「夜子、なにいってんだ」
「夜子は大丈夫だよ。夜子がおにいちゃんを守るから」
真之介の袖を掴んでいる小さな手が、震えていた。それでも真之介を見上げる黒い大きな瞳は、揺らぎも曇りもせず、つやつやと瞬いている。
怖くないよ。大丈夫だよ。守るよ。
夜子にもらったたくさんの言葉たちが、真之介の中に静かに降り注いでいく。それは長い年月をかけて、真之介の痛みを埋め、気づけばもう溢れそうになっている。
誰になにをいわれてもいい。なにをされてもいい。この世でただ一人の味方がいる。たとえ夜子が妹でなくても、たった一人、自分をわかってくれる人がいれば、もうなにもいらない。
「消毒液、貸せ。おれがやる」
「ありがとう、おにいちゃん」
ぶっきらぼうに手当を続ける真之介の前で、夜子は嬉しそうに笑う。そのとき、夜子の耳から血が流れているのを見つけた。
「夜子、耳から血が出てる。耳もぶつけたのか」
「あ、うん、そうみたい」
「そうみたいって、痛いならちゃんといわなきゃだめだ。ほらあっち向いて」
「くすぐったいよ」
「バカ、じっとしてろ」
「ねえ、おにいちゃん。今日は、お父さんもお母さんもお仕事で帰りが遅いんだって。おばちゃんちで晩ご飯食べなさいって。夜子、おばちゃん、大好き」
「夜子が好きなのは、おばちゃんちの駄菓子だろ」
「あはははー、ばれた?」
「夜子のことはなんだってわかるんだからな」
なにも知らなかった。真之介も、夜子も、幼すぎて知らなかった。それは取り返しのつかない結果を導いた。
二日後の夕食時に、夜子は頭を押さえ呻いたかと思うと、崩れ落ちるように倒れた。叫び声、足音、救急車のサイレン、そして閑寂。
茶碗や箸が散らばり、味噌汁や豆腐が飛び散った汚れた小さな居間の床で、蹲り、待っていた。夜子が戻ってくるのを待っていた。
明け方、車の音がした。玄関で出迎えた。母の目はなにもみていなかった。疲れた顔で、真之介の横を素通りした。父は小さなものをしっかりとその腕に抱いていた。夜子だろうか。でもあんなに小さかったっけ。父も真之介をみなかった。真之介はその後ろ姿を見送った。父の腕から、黒い髪がだらりと垂れた。やがて、父母の消えた奥の部屋から、母の絶叫が聞こえた。声にならない声が、夜子を呼んでいた。
夜子は戻ってきた。
けれど、それはもう夜子ではなかった。
『復讐を』
気づいたら深い森の中にいた。耳にそっと触れてくるような声は、そういった。近くの藪が揺れ、やがて姿を現した声の主は、小さな白い獣だった。白く大きな耳にとんがった頭。胴体は細長い。長い身体よりもさらに長い尾をふわりと振った。その目が光った。色は赤だ。血のように深い赤。夜子の耳から流れ出た血が、真之介の脳を焼く。怒りは熱を発し、身体の中でふくらみ続ける。身体が軋み、悲鳴を上げる。もう自分では抑えることはできない。
抑える必要もない。
息を振り絞るように、呪詛を吐く。
「夜子を殺したあいつらを、殺してやりたい」
白い獣が笑った。
(第六章「届かぬ夜の中で」その4へ続く)