その1
「なんだって?」
焔は繰り返して問うた。日向の言葉が理解できなかったのだ。居間のちゃぶ台に肘をつくというおよそらしくない姿勢で、日向は額に手をやり俯いた。
「あの日、気づいたら、玄関に倒れていたんです。なんの物音もしなかった。玄関に近い部屋にいたのに、狐火が教えてくれるまで、まるで気づかなかった」
「怪我は」
「身体にはなんの外傷もありませんでした。ただ寝ているだけ。でもぜんぜん目を覚まさなくて、さっき、やっと目を覚ましたところなのです。旭の身体のどこにも、おかしな印はなかった。ただ、二条真之介の家でなにがあったのかは、覚えていませんでした」
「真之介がなんかしたに決まってんだろっ! 行かせるんじゃなかった。止めるべきだった。なんでおれは!」
焔の茶色の髪が、焔の気を受けてざわりと揺れる。普段は静かな日向の瞳が、揺らぐように焔を見上げた。胸がざわめく。
「まだ、なんかあるのか」
「忘れたのは、それだけじゃない。イレブンのことも、自分の力のことも、ぜんぶ覚えていないのです」
あなたのことも。
焔は、日向が次にいうであろう言葉から逃げるように居間を飛び出した。人の手足がもどかしい。一瞬で原型の大狐に戻ると、二階への階段を一気に飛び越えた。焔の身体から生まれた風が、旭の部屋のドアを開く。ベッドに座った旭と、旭の母、陽桜が向き合っていた。二人の視線が焔へ向かう。
否。
「お母さん、いま、このドア、独りでに開かなかった?」
焔の身体が凍り付いた。
陽桜の目は確かに焔を捕らえている。焔の姿を見て、その眉根が小さく寄せられた。けれど、旭は違う。見えていないのだ。焔の姿が、その存在が、まったく見えていない。
忘れるという意味を、初めて理解した。
「うそだろ」
陽桜が焔に向かい、首を振る。そして旭に向き直った。
「今日はちょっと風が強いみたいだね。旭、お母さん、晩ご飯の支度してくるね。お腹空いたでしょ。なにが食べたい?」
「グラタン!」
「オッケーオッケー。旭はまだここで休んでいて。できたら呼ぶからね」
「うん」
立ちつくし旭から視線をはずせないままの焔の白い毛に、陽桜が触れる。下で話しましょう、と階下を示す。焔は黙ったまま、陽桜の後について階段を降りた。
(第六章「届かぬ夜の中で」その2へ続く)