その2
「うわー。二条ん家って、すごく大きいんだぁ」
静かな玄関に旭の明るい声が響く。
「古い家なんだ」
二条の言葉に高飛車な雰囲気は全くない。頭がよくて、スポーツもできる。家も大きくて、きっとお金持ちで、それでいていばらない。自分にないものばかり持っている。こういう人もいるのだと、憧れさえ抱く。惹かれる要素ばかりだ。
「こっちだよ」
真之介の後について、長い廊下を歩く。平屋の日本家屋は、典型的な広い池を携えた日本庭園を囲むコの字に建てられている。威厳と歴史を感じさせる。京都の寺にありそうな作りだ。古いけれど、塵一つ落ちていない。すみずみまで行き届いた手入れに、この家の生活ぶりが伺える。
どこもおかしなところはないみたい。
旭には、近くに妖怪がいればすぐにわかる感覚がある。それといったにおいもしなければ、力がぶつかり合うときに生まれる空間のひずみもない。古いこの家は、人を守る空気を抱き、ただ静かにそこに在るだけだ。
やがて行き着いた部屋は、母屋とは廊下続きの離れだった。中は洋室で、深い焦げ茶のフローリングに、低いベッド、勉強机、クローゼットなどがある。旭の部屋の軽く二倍はありそうだ。真ん中にはローテーブルが用意され、座布団が二枚、置かれていた。
「そっちにどうぞ」
真之介に示されるままに、座布団の一つに座る。旭の正面は、一面、大きな窓になっていて、広い庭が見渡せた。
コンコンと扉を叩く音に、びくりと飛び上がる。
「はい、どうぞ」
真之介が応えると、失礼しますという声とともに、扉が開かれた。その向こうに、白いかっぽう着を着た女性と、和服姿の女性、そしてワゴンがみえた。
「お母さん」
え?
母親? 二条に?
思わず振り返る。和服姿の女性が部屋に入ってきて、真之介の横に座った。
「お母さん、ぼくのクラスメイトの乙葉くん。乙葉くん、ぼくの母です」
「あっ」
旭の左腕に、ちくんと痛みが走った。
「真之介の母です」
薄紫の上品な色合いの着物の袖を、フローリングの上にふわりと広げ、指をついて旭に頭を下げた。
「あの、乙葉です。お邪魔してますっ」
慌てて旭も頭を下げる。下げすぎて、床にごつんと頭があたった。
「いつも真之介がお世話になっております。転校したてでわからないことばかりで、ご迷惑をおかけしているかもしれませんけれど、どうかいろいろ教えてやってくださいね」
「は、はいっ!」
そう答えるのがやっとだった。ほんとうなら、こちらこそお世話になっています、くらいいうものだと、知識としては知っている。けれど慣れない言葉は、なかなか出てこないものだと思い知った。挨拶一つまともにできないくらい、混乱している。恥ずかしい。ここに祖母がいれば、きっとアレが出るだろう。
顔が熱い。
真之介の母親だと名乗った人は、にっこりと笑った。色が白い。折れてしまいそうに線が細い人だ。かっぽう着を着た人が、てきぱきとしたしぐさで、紅茶とケーキ、クッキーなどでテーブルを埋めていく。
「お手伝いの早池さんだよ」
真之介が紹介してくれる。
「あ、乙葉です。初めまして」
早池と呼ばれた女性が控えめに頭を下げた。白いかっぽう着が去っていくとき、ふわりとにおいがした。知っているにおいだ。ぴくんと鼻が動く。
焔の残り香に似ている。深い森の木々や土のにおいだ。背を向けたままの焔が、ちらりと過ぎる。
「じゃあ、始めよっか」
真之介が数学のプリントを開いた。それを合図に、真之介の母も立ち上がる。
「ゆっくりしていってくださいね」
言葉とともに、小さく首をかしげたしぐさが、少女のようにもみえた。旭は顔を赤らめたまま俯いた。世間の母親というのは、こんなにも柔らかそうで、綺麗なものなのだろうか。
思わず自分の母親と比べてしまう。
父も母も、イレブンの士だ。婿養子の父はもうずっと前から東北へ単身赴任中で、滅多に家に帰ってこない。向こうでイレブンの仕事をしている。母は、乙葉家の血を継いでいるので、士としてもかなりランクが高い。全国を飛び回っていて、一月に一週間も家にいればいい方だ。いつでもパワフルで、決して太くはないその身体に、どれだけエネルギーが詰まっているのかと不思議に思う。
陽桜は、家に帰ってくると、旭を背骨が折れるくらい強く抱きしめる。ひとしきりなで回すと、次はマシンガンのように話しまくる。会えなかった間のすべてを埋めようと、すべてを話してくれる。おしゃべりはつきない。見かねた祖母が、いい加減にしなさいというまで続く。その後は、旭よりも先に、まるで電池が切れたみたいに、ことんと眠ってしまうのだ。そんな母を、布団まで運ぶのは焔の役目だ。すーすーと眠る母をみると、疲れてるんだと、子供心に痛みを覚えた。どれほど疲れていても、母は、家にいる間、旭を一番に扱ってくれる。そんな母を、会えないことを理由に恨んだことはなかった。
真之介が母だと紹介した人は、旭の母とは一八〇度違う世界に生きているようだ。きっといつでも家にいて、真之介を迎えてくれるのだろう。
大きくて立派な家。お手伝いさん。線の細そうなお嬢様風の母親。そして勉強もスポーツもこなす真之介。それらは、一つのジグソーパズルのように、真之介の姿形にしっくりはまった。
けれど、正しくないのだ。
イレブンの報告書では、真之介に両親はいないことになっている。故郷で妹と両親を失ったあと、とつぜん東京に転校してきたとだけ、記されていた。東京の父母のことは、調べが進んでいなかったのか、なに一つ書いていなかった。
なぜ東京に転校したのか。なぜここに母と名乗る人がいるのか。父と呼ぶ人はいるのだろうか。
湧いてくるのは、疑問ばかりだ。本当ははまらないピースを、無理矢理に押し込んだように、落ち着きが悪い。真之介を信じたい心と、旭の身体のどこかが反発している。信じるな。真之介の言葉を信じるなと、湧いてくる疑問が警告する。
数学の宿題を前に、意識は違うところへと流れていく。
疑え。
疑うな。まだなにもわからないじゃないか。
旭は、さっきからひりひりと痛み続ける腕にそっと触れた。
「どうしたの? 腕が痛いの?」
「あ、ごめんなさい。なんでもないです」
気遣ってくれる二条に笑ってみせる。
「乙葉はおもしろいね。謝らなくていいのに」
おもしろいなんて、初めていわれた。
「べ、べつに普通だよ」
「そうかな。乙葉って、ちょっと不思議な感じするよな」
「え?」
どくりと心臓が音をたてる。
「あ、変な意味じゃないから、そんな顔しないで。なんていうか、おとなしいんだけど存在感があるんだよね。なんでもないのに視線がいっちゃう。そんな感じだ」
二条のくれた言葉が、旭の中でむずむずする。
「だから前から、話してみたいと思ってたんだ」
ほおづえをついた二条が、笑いかけてくる。どくんどくんと心臓が鼓動する。嬉しい。嬉しくて、身体が浮き上がりそうだ。
きっと、真之介は養子になったんだ。家族を亡くした真之介に、この新しい家族が新たな笑顔を与えたんだ。だとしたら、なにもおかしいところなんかないじゃないか。よい家族に恵まれ、大切にされ、心の傷を癒される。喜ぶべきことだ。
「乙葉から声をかけてくれて、嬉しかったんだよ」
「ぼ、ぼくも、二条とこんなふうに話せて、嬉しいよ」
「よかった。また友だちが増えた」
「友だち?」
「友だちでしょ」
「うん!」
思い切り頷いた。二条が笑った。
「早池さんの入れてくれる紅茶、すごくおいしいんだよ。冷めないうちに飲んでみて」
二条が持ち上げた紅茶のカップから、柔らかい香りが広がり、旭をのみこんだ。ふわふわとした浮遊感に包まれる。気持ちがいい。真之介の言葉に酔ったみたいだ。嬉しすぎて、目の前の真之介や宿題の数学すら、遠のいてしまう。
ミッションのことも、イレブンのことも、焔のことも、遠くなる。
焔?
茶色のぽさぽさの長い髪。銀の腕輪が鳴る。綺麗な音。
左腕が痛む。忘れるな。声がする。頭の中に響く。
熱い。痛い。腕が痛い。どれほど押さえても、痛みは止まらない。
紫の瞳が揺れる。不安げにぼくをみる。
左腕の蝶が、発熱する。
おれを忘れるな。
「乙葉? ほんとに大丈夫? 顔色、悪いよ」
真之介の指が、旭の腕に触れた。
「あっつ!」
瞬間、目の前で火花が散った。蒼い花が咲いて、散った。身体の中を電流が駆け抜ける。
これは・・・
突き抜けた電流が、わずかな痺れを残し、消えていく。
蒼い火。妖術がぶつかり合うときの現象だ。
旭はゆっくりと視線を動かした。自分に触れている真之介の腕に、黒い痣のようなものがみえた。さっきまではそんなもの、なかった。
その禍々しい黒を知っている。
あやかしとの契約の印だ。
「二条、きみは」
その後の言葉を、旭は続けることはできなかった。真之介が、旭の腕を強く掴んだ。
「痛っ」
血が止まるくらい強く握りしめる。大人の力みたいだ。ぐらりと目が回る。座っていられなくて、身体が床の上に崩れた。汗が流れる。視界が濁る。息が苦しい。
「乙葉、きみはいったい何者なのかな?」
どこか遠くで、くすくす笑う声がする。
「真之介、笑っている場合ではないですよ。この人間からは、並ならぬ力を感じます」
「どうしようか。消しちゃう?」
「やめておきましょう。ここを視なさい。この痣は、あやかしが付けた守りの印。この人間の後ろには、あやかしがついている。それもとても力の強いものが」
「やっと最後の一人を見つけたんだ。こんなところで邪魔されたくない。夜子が泣く」
「では、こうしましょう」
歌を歌っているような声だ。
あやかし?
守りの印?
夜子?
それらの言葉が、子守歌のように、旭の身体にそっと触れてくる。ゆらりゆらりと身体は床を突き抜けて沈んでいく。寒い。冷たい。歌が遠のいていく。ざざーという潮騒のような音に包まれる。
冷たい暗闇の中で、旭は自分の身体の一点に小さな熱を感じていた。その一点だけが、まるで生きているように鼓動し、熱を発する。
ああ、そうだ。ぼくの腕だ。熱いのは蝶。焔がくれた、小さな赤い蝶だ。ぼくが、がんばれるようにって。
「ほむら」
遠のいていく意識の中で、旭はその名を呼んだ。伸びすぎが茶髪をかき上げる腕がみえる。銀の腕輪が鳴る。その向こうで、焔が笑った。
(第六章「届かぬ夜の中で」その1へつづく)