プロローグ
妹が死んだ。
たった一つの温もりだった。自分へと繋がれていた、あの小さな手は消えた。妹の大半は煙となって大気に混じり、ほんの少しの白い塊がその存在の証として地に遺った。
哀しみと疲労が混じり合った圧力が息を止め、人々の好奇の視線が肌を焼く。葬式の終わったばかりの家を、逃げるように飛び出した。
道など覚えていない。ただ走り続けた。なにかに躓き、身体が宙を飛んだ。柔らかな大地に軽い身体は幾度も弾かれ、どこまでも転がった。天も地も、右も左も、わからなくなったころ、下草に抱かれるように止まった。
瞼を押し上げる。妹の還っていった空は、遠かった。
決して手の届かぬ高いところで、幾重にも張り出した枝が光を遮る。薄暗い森に自分はいた。甲高い鳥の鳴き声が響き渡る。かさかさと、枯れ草の下を虫たちが蠢く。
人ではないものたちの謳歌する世界。
もう誰も自分をみていない。
もう我慢しなくていい。
初めて泣いた。声をあげて泣いた。
涙と汗が混ざり合う。仰向けになったまなじりから、涙はどくどくとあふれ出し、こめかみを伝い、地へ落ちる。大地がその哀しみまで受け入れるかのように、音もなく吸い込んだ。
打ち付けた膝や腕など、痛くはない。本当に痛むのはここだ。土と草の青臭い汁に汚れた余所行きのシャツを掴む。いくら押さえても、その内側の胸の奥が軋んで、悲鳴をあげ続ける。
自分がどこか他の人と違うと気づいたのは、幼稚園に入るころだった。
部屋の隅、庭の木の陰に、みつけた生き物を、母に見せた。
母にはそれが、見えなかった。
母は、顔を歪めた。そして、一歩、遠ざかった。
他と同じでなければはじかれる。
いくつかの間違いを犯したあげく、この世界はそういうところなのだと学んだ。でももう遅かった。好奇の眼差しは排除のための飛礫となった。ただそれが自分だけに向けられたものならば、いくらでもがまんできた。兄妹というだけで、自分と同じように厭われた妹は、その結果、死んだのだ。なんの証拠もなかった。ただの事故として片付けられた。
父は「おまえのせいだ。おまえが殺した」と怒鳴った。母は「わたしの夜子を返せ」と泣き叫んだ。
妹は、家の外でも内でも、ただ一人自分を受け入れてくれた。その存在は、あっけなく消えた。ただ妹だというだけで、夜子は死ななければなからなかった。
妹が好きだといってくれたこの身を、初めて呪った。灼けてしまえばいい。腐ってしまえばいい。欠片一つ残さずに、この世から消えしまえ。
こんな目さえなければ、夜子は笑っていたのだ。
あんなものが視えなければ、夜子は生きていたのだ。
自分さえいなければ、夜子はそっと寄り添うように隣に居てくれたのだっ!
「あああああーっ!」
獣のように叫んでいた。
地へ幹へ、構わず打ち付けた拳から、皮膚が裂けて血が流れ出す。柔らかな緑の下草に、いくつもの赤が飛び散った。
「ごめん、夜子。ごめん。ごめん。ごめんなさい。ごめんなさ・・・」
噛みしめたくちびるが、熱い。自分の血と熱が混ざり、どろりとした塊となる。喉につかえる熱を吐き出したくて、土に伏す。目の前の、名も分からぬ雑草を握りしめ、引きちぎる。青黒い汁が指を伝う。
たった一つ大切なものさえ守れない、なにもできない汚れた手をじっと見つめる。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
「なぜ謝るのです? 小さな子よ」
声だ。
深く落ち着きがあるにもかかわらず、どこかねっとりと絡みついてくるような響きが耳に触れた。
周りを見た。
誰もいない。
心臓がどくどくと異音を発する。
直感でわかった。
「どうしました? わたしの声が届いているのでしょう?」
その声は人外のもの。
小さなころから自分を翻弄し続けた、自分が普通ではない証。夜子を奪った元凶。
聞きたくもない。
関わってはならない。
逃げろ。
頭は命令するが身体が動かない。足が震えて、立ち上がることさえできない。絡みついてくる声に、縛られていく。汗が流れる。
「怖がる必要はありません。わたしはきみの友人なのですから」
深みのある声に柔らかさが加わる。
友人? なにをいっている。ふざけてんのか。
「友だちです」
「やめろっ!」
耳を塞ぎ、眼球が痛むほど強く瞼を閉じる。
「ふざけるな! おまえらは友人なんかじゃない。敵だ。おまえらがいなければ、夜子は死ななかったんだ。返せ! 返せよ! 夜子を返してくれよ!」
哀しみが、突如、怒りへと変質する。身体中の細胞一つ一つから、炎のような熱が次々に生まれ、吹き出してくる。
「なんで、夜子だったんだ・・・あいつはなにもしてないのに・・・代えてくれよ。おれを殺して、夜子を返してくれよ」
「残念ですが、それはできません。わたしたちだってあなた方と同様、万能ではないのです。でも、少なくともわたしは、人間にはできないことができます」
どれほど強く塞いでも、声は脳へ直接、響いてくる。
「なにができるんっていうんだ」
「わたしには妖術が使えます。きみを傷つける輩から、きみを守りましょう。わたしは人よりも長生きです。いつまでもきみのそばにいましょう。そして、きみの望みを叶えましょう」
「ぼくの望み」
「復讐を」
明らかに人間ではないとわかっている。ぼくの生活を狂わせ、妹を奪ったその原因となったものたち。それなのにその声は、他の誰よりも優しく自分の肌を撫で、そして身体の中へと染みてくる。すべてを失った自分の隣に、ぴたりと寄り添ってくる。
震えが走った。
両手で自分の身体を抱きしめた。
畏怖ではない。
これは、なんだ?
夜子の手よりも温かく、どんな菓子よりも甘い。
ゆっくりと顔をあげた。
「あなたは、だれ?」
「わたしの名は、いづな」
かさかさと枯れ草を踏む小さな音が近づいてくる。
目の前の藪が揺れた。
(第二章「ファーストミッション」へ続く)
長々と続きます。よろしくお願いします