永遠に続く物語
人はいつ気づくのだろうか
今、自分の送っている人生が
永い、永い「人生」という物語の
たった一ページにしか過ぎないことに
「お疲れさまでございました」
聞き覚えのある女性の声で目が覚める。久々に温もりを感じない躰となったらしい。久々と感じるのもまた、今終わった人生に対する名残であるだけだ。
「ああ、あんたか」
色を認識しない目で、彼は彼女の顔を見つめた。前回この場に浮遊したときも彼は彼女の声で目覚めた。彼の周りには彼女の姿しかない、真っ白な世界。彼女の髪色も、瞳の色もわからない目を彼は何度かしばたかせた。ぼやけていた視界がだんだんと鮮明になっていく。
「はい。おかげさまで、あなたさまにお逢いするのは合わせて七度目となりました」
「珍しいもんだ。『迎え』が重なるのはめったにないのにな」
「ええ。またお逢いできて光栄に思います」
「そりゃよかった」
起き上がるという感覚を思い出し、上半身を起こす。躰はふわふわと揺れているが、今、己が浮上しているのか落下しているのかさえもわからない。
ただ、ここに在る。在るしかない。
わかるのはそれだけだ。
「此度はどのような『人生』にございましたか」
あぐらをかいて首をコキコキと鳴らし、彼が大きく伸びをした。自然と出てくるあくびを手で口を押さえながら噛み殺す。
「地球という第七九六番宇宙の端に属する星、その中にあるまた小さな島国、日本という国に生まれた。新人がその星で原人と戦い、新人が蔓延るようになってまだ間もない星だったな。そこで過ごしたのは今回が初めてだ」
幾度となくこの空間に放り出され、また別の世界へと飛ばされてきた。生を受け、死に至る営みを繰り返し、再びこの何もない地へ行き着く。「ヒト」とはそういうものだ。無数に存在する小さな箱庭である宇宙の中で進化し、退化するのが我々「ヒト」である。進化と退化、もはやこの二つは同義語として意味を成しているのだ。
生きながら死んでいく。それは生きとし生けるものすべてに当てはまる摂理。
「地球にいる人間たちは短時間のうちに面白い発展を遂げていたな。まだまだ未熟ではあるが、電磁波を駆使して大量に情報の交換をしていた。だが同じ電磁波でも放射線への対応が異様に遅れている。あれの使い方がまったくと言っていいほどなってない。視点を変えりゃ色々と見えてくるもんもあるだろうが」
彼の死因は核戦争による爆撃だった。一瞬にして水蒸気と化した躰には残念ながらなんの未練も残っていない。もっと悲惨な最期を迎えたこともある。
彼の生まれた地球では既に核を利用した戦いが頻発していた。生物が滅ぶのもまた時間の問題である。このように人類が滅亡し、その環境に適応するヒトが派遣されて再び多くの消長をみせる星はいくらでもあった。
ヒトがヒトの姿に成長する過程や生物の進化に欠かすことのできない放射線に対する人々の意識も、それの利用法もまったく以て確立していない。しかしそれに気づいたのは皮肉にもこの何もない地にやって来てからだった。ヒトである期間は、そのとき歩む人生以外の記憶をもつことができない。だからヒトはいう。
死んでからでは遅い、と。
「死を説明する体系もたくさんあった。宗教という形であれやこれやと画策してはそれを広めていった者がいたようだ。だがそれに拘りをもちすぎている。自らの運命を憶えていないのにもまた問題があるな」
これは運命。ある種の理。幾星霜という時のなか、逆らうことのできぬ生を彼は何度も、何度も享受してきた。
今、自分の話す言語がどこの国のモノかも疾うの昔に忘れてしまった。それでも彼女に通じているのは、彼女の能力によるものなのだろうか。万を超える言語を知っていても、億を超える人生を生きてきてもわからないことがなくならないのは至極不思議に思う。
「あんたはどうしてたんだ」
初めて彼は彼女に対して何かを尋ねてみた。知りたいと思ったのも初めてだった。『迎え』に要する時間は短い。いや、そもそもこの世界に時間など無きに等しいのだ。そのため次の生を受けるまでの時を遅いか早いか感じるのも自分次第である。
「私、ですか」
「ああ」
彼女は虚を衝かれたかのようにぴくりとも動かなくなった。彼女の座る体勢に「セイザ」という呼び方もあるのを先ほど送り終えた人生のなかで彼は知った。
モノクロの世界でしか逢うことのない存在。
また次の人生が始まれば彼女のことも忘れてしまう。
この瞬間だけでも、彼女の姿を胸に、目に、とどめておきたいと思った。
「あなたさまと六度目のお別れをして、再びこの任に就いたのは二億ケリン前にございます。それからはこのように、『眠り』につかれた方を『目覚め』へと導く仕事を任されました」
ケリン。古の昔に滅びた星で使われていた時の単位だ。その惑星が恒星の周りを一公転するごとにケリンという時を一つ刻む。また、彼も彼女と同じ『迎え』という任を務めたことは何度もあった。そのほかにも数えきれぬほどの責務をまっとうした。
すべては理から命じられて。
抗うことのできない、巨大な力に。
「自分の名前は、憶えているか」
彼の問いに彼女は首を横に振った。
「私のことは、何一つとして憶えておりません。ですがお迎えに上がった人々、……あなたさまを忘れたことは一度としてありません」
彼女の暗く見える瞳が揺れ動く。彼はその瞳から目を逸らし、伏せて自らの組んだ指を見た。
変わったのは彼女か、自分なのか。
この単調な空間で、こんな感情を抱いたことはかつてなかった。
微かな笑みを浮かべながら、彼は再び彼女と目を合わせた。
「トワ」
音が伝わるのは大気の中を波が振動していくためだ。ここには大気があるのか、はたまた自分がただ声を発していると思っているだけで、口を開きながらも言葉として機能していないのか。聞こえると感じるのも脳内でそう勝手に解釈しているのか。この空間においては既存の知識などなんの役にも立たない。
「さっきまでの俺の名だ。なかなかいい名前でな。永遠という意味があるんだ」
平和なんてものに触れたことさえない人生だったが、名づけてくれた両親との貧しいがささやかな生活は彼の心を十分に育んだ。両親が病で死んだあと、軍に志願してから死ぬ寸前まで血を見ない日はなかったが、それでも自分なりに精一杯生きてきたつもりだった。
「この名を、あんたにやるよ」
「あんたの名は今からトワだ」と彼は彼女に念を押した。弾かれたバネのように背すじをぴんと伸ばして、彼女が何度も頷く。その様子を見て彼はまた笑った。
「永遠という言葉は、俺たちには残酷としか言いようがない。でも、それでも、生きている間、永遠をヒトは信じ続ける」
初めて産声を上げたのは果たしていつだっただろうか。誕生日も死にいった日も、過去も未来もすべてがごちゃ混ぜになっている。自分は前に進んでいるのか、それとも後退しているのか、巡り巡って人生を謳歌しているのか。何百、何千という疑問を解消する術すらもつことの許されぬ小さな存在。それがヒト。
「また逢えたらいいな、トワ」
素直な想いを彼女に伝える。最初の『迎え』ではお互い話すこともなかった。それから逢瀬が重なるうちにぽつぽつと互いが口を開くようになったのだ。彼女と迎えた『目覚め』が四度目になったとき、彼女のほうから声をかけてくれて、どんなに嬉しかったか。どんなに心躍ったか、彼女は知らないだろう。
彼は息を呑んだ。
言葉が続かなかったのだ。
今、自分の目にしている光景が信じられなかった。
どうしてヒトは涙を流すのだろう。
悲しいとき、嬉しいとき、感動したとき、怒ったとき、あくびをするとき。
――ああ、俺たちは生きているんだな。
この空間の中でも、俺たちは、生きているんだ。
彼女の頬に流れる一筋の涙を見て彼は実感した。
声を出さずに、瞬きもせずに、彼女の瞳から止め処なく涙が溢れていく。
彼は彼女に向かって手を伸ばした。
しかし彼の手は彼女に触れることなく、そのまま彼女の躰をすり抜けた。
わかっていたことだった。それでも触れたいと、彼女をこの手で抱きしめたいと切に願った。
「必ず、逢えるから」
腕を下ろし、拳をぎゅっと握りしめる。それは自身に向けた言葉でもあった。なんの確証もないが、そう信じたかったのだ。
彼女は瞼を閉じ、震える唇を噛んでいた。その結んだ唇をほどいてやることも彼にはできない。
同じ人生などなかった。だが同じ過ちを繰り返した。学ぶのがヒト、学ばないのがヒト。一つの人生が終わり、後悔を感じることも次第になくなった。これほど無意味で足枷となるものはない。それにすぐまた別の人生が始まる。
彼女の濡れた瞳が彼を捉えた。
「私も、逢いたいです」
涙混じりの声だった。いつも淡々と話す彼女からは想像もつかないような声。彼女の想いが彼の心に流れ込んでくる。
それで十分だと思った。
逢えなくとも、この時を思い出せば、これから自らに降りかかるであろう無情な年月を歩んでいける。
だが未来に期待を抱いてしまうのがヒトという生き物の悲しい性だ。
「……もし、逢えたなら」
彼は一つ深呼吸をした。自分は呼吸するのだと、はっきり認識する。しかしたとえ息を止めていても苦しいとは感じないだろう。
「そのとき俺はトワと初めて逢ったときの名を使う。確か――『ゼロ』だ。これもまた面白い偶然だ。いや、必然とでも言うべきか。そう名乗っていた頃は意味などもたない飾りのような音だったが……。無、または始まりという意味があるのを今回の人生で知った」
無という概念の生まれた世界は少なくない。地球より知能や技術の発達した世界はいくらでもあったし、逆に地球より長い人類の歴史をもちながらも今日まで狩猟と採集で生活を営んでいる世界もあった。
奴隷として生き、蔑まれ死んだことも、王族として国を治めたこともあった。宇宙に旅立ち、新たに星を見つけその地に骨を埋めた。喉元を搔き切るよう命じられ、それを黙って遂行した。己が最も信頼していた者に裏切られた。自分が友を裏切った。独りで死んでいった。大勢に看取られながら息を引きとった。
ヒトを愛した。息子、娘を愛した。
愛される以上に愛した。愛する以上に愛された。
「忘れないことを、ただ願う」
なぜヒトは忘れるのだろう。愛されたことを、愛したことを。始まりと終わりを。大切な思い出たちを。
「トワのことを」
ずっと待っていてくれた彼女のことを。
この何もない空間で、遥か昔から今の今まで。
「ありがとう」
たった一言でその永い年月を片付けようとは決して思わないが、彼には言葉で伝える術しか残されていなかった。
彼女は大きく首を横に振った。何か言おうとしているのだろうが、発した声が嗚咽に混じってうまく聞きとれない。
そのとき突然、彼女の動きが止まった。ばっと顔を上げ、涙で濡れた頬が晒される。
彼にはわかった。
「時が満ちたか」
彼は立ち上がって、自身の後方を見つめた。黒い渦がそこに生まれ、だんだんと大きく広がっている。やがてこの渦が躰を呑み込み、彼はこの空間から消え失せるだろう。
「いかないでください!」
悲痛な叫びだった。本来ならば、この渦に飛び込むよう命じるのは彼女の役目だ。躊躇する者が現れたら誘導し、行きたくないと懇願されても諭さねばならない。いずれにせよ、闇に呑み込まれるのは変わらない。
彼は歯を食い縛った。少しでも気を緩めると、涙が溢れて止まらなくなるのがわかっていたからだ。
彼の腰に彼女の腕が回された。お互いの体温も感触も感じることはできない。それでも彼女の躰を温かいと思えるのはなぜなんだろう。
漆黒の渦に呑み込まれそうになるのを必死に堪えて、彼は彼女と向き合った。今にも壊れそうなその躰をぎゅっと抱きしめる。
「またな」
躰を離し、彼女の目を見て、彼は笑った。
その瞬間、目の前に大きく広がった闇が彼の躰を呑み込んでいった。膨張と収縮を繰り返し、渦は一気に収縮してその存在もろとも何事もなかったかのように消えた。残されたのは、この無彩色の空間に縛られた彼女だけ。
笑って
最後、彼の口がそう動いたように見えた。
私はちゃんと笑えただろうか。
彼に笑顔を見せることはできたのだろうか。
これが最後かもしれない。
もう二度と、逢うことは叶わないかもしれない。
涙なんてずっと前に枯れてしまったと思っていた。子どもみたいに声を上げて泣くのはいつぶりだろうか。どんなに泣き喚いても、彼はもう戻ってこない。
それでも、生き続けるしか、彼に逢う道は他にないのだ。
彼のあとを追っていきたかった。あの闇の中へ一緒に飛び込みたかった。なぜ自分はここにいるのだろう。また途方もない時間を生きていかねばならないのか。たった独りで、この空間で。逢える保証など、どこにもないのに。
彼女は顔を覆っていた手を離し、ゆっくりと正面を見上げた。何かが聞こえてくるのだ。凛として澄んだ音色。なんの音かは彼女にもわからなかった。
胸の前で震える両手を握りしめる。
すると彼の姿が見えなくなった場所に、もう一度あの渦が現れ始めた。
闇の奥から吹いてくる風が彼女の躰を包み込む。風に乗って、再びあの音色が運び込まれてきた。
自分は試されている。
今まではただ受け入れるしかなかった運命に、試されている。
進むかどうかは自らの意志で決めろと。
己次第であると。
――迷うことはなかった。
しかし闇の渦中へ足を一歩踏み出そうとしたとき、彼女は誰かに背を押されたような気がした。
後ろを振り向く。既に躰の半分以上は渦の中へと呑まれていた。
目を見開き、そこに立っている者の姿を凝視する。
視界が闇の黒で塗りつぶされていくなか、もう一人の自分が微笑んでいるのを彼女は一瞬だけ捉えた。
そのときすべてがわかった。
縛っていたのは、私だったのだ。
運命など、理など、初めから存在しない。絶対になんてこともない。そんなこと誰にも言い切れないし、誰にも決められない。
未来は己が切り開くものであると、いつの間にか忘れてしまっていた。
永い永い時の中で、葬り去ってしまったこと。
今、再び取り戻した。
誰からも干渉されない、わたしを。
自分の意志で歩く術を。
思い出したのだ。
さあ、ゆこう。
大切なことを思い出させてくれたヒトに、逢いにゆこう。
躰が深淵へと沈んでいくのを霞む意識の中で僅かに感じる。
耳に残る神秘的な音色が、彼女を新たなる『目覚め』へと誘った。
それは、遠い日の約束。
「やっと、起きたな」
彼の声とともに南部鉄器の風鈴の音が彼女の眠りを呼び覚ました。生まれて四か月になる赤ん坊がすやすやと昼寝する横で軽いうたた寝をしていたつもりだったのに、永い、永い夢をみていたような心地がする。
縁側に腰を下ろし、彼女を振り向く彼の黒髪が黄昏の陽に照らされていた。
色とりどりに広がる世界がだんだんとぼやけていく。
「意外に泣き虫なのは相変わらずだ」
彼女が待っていた年月には遠く及ばないが、彼もまた彼女の『目覚め』を待っていた。
彼女は立ち上がるのもままならず、彼に向かって倒れこむようにして足を動かした。
二人にはわかっていた。これが永遠なのだと。
この出逢いこそが、自分たちの終着点であると。
互いの体温が伝わるしあわせ。思い切り抱きしめられるしあわせ。ありがとうといえるしあわせを、彼女はただただ噛みしめていた。
私はもう忘れない。
無限に営みを繰り返す数々の生命が生み出した奇跡を。
一生、忘れないと誓う。
「トワ」
彼が彼女の耳元で、彼女だけに聞こえる声で、そっと囁く。彼女は涙に震える声を振り絞ってそれに答えた。
「私もです、ゼロ」
彼の名を呼ぶとき、すべてが始まる。
私たちの紡ぐ、永遠の物語が。




