第六章 冷たい婚約者
夜会というものは、戦場だと思った。
シャンデリアの光が眩しく香水の匂いが混ざり合う。
絹のドレスが擦れる音。
笑い声。
グラスが触れ合う音。
どこを見ても、華やかで、絢爛で、その裏側で誰もが誰かを値踏みしている。
私はその中心に立っていた。
アリス・シャルムとして。
学院の比ではないぐらい視線が集まる
大人たちの目は子供たちよりずっと鋭くて、ずっと計算高い。
何者か値踏みして、利用価値を測って、それから笑顔を向けてくる。
居心地が悪い、と思った。
でも表情には出さない。
唇の端を、少しだけ上げる。
目は笑わせない。
練習した笑みを、完璧に貼り付ける。
これでいい。
「アリス」
母が隣に寄ってきた。
扇を口元に当てて、小声で言う。
「ルシアン様がいらしたわ」
名前を聞いて心臓が、跳ねた。
悟られないように、ゆっくりと視線を動かす
会場の入り口に、男がいた。
漆黒の髪。銀灰色の瞳。
端正で、冷たい。
まるでこの華やかな場に全く興味がないみたいに、静かに立っている。
でもその周囲だけ、空気が違う気がした。
重くて、鋭くて近づきたくないと本能が囁くような。
ルシアン・シルヴェスト。
漫画で見た顔だ。
でも実際に目にすると、まるで違った。
紙の上の人物が、そこに立って息をしている。
怖い…と率直に、そう思った。
彼の視線が、会場を流れた。
そして私のところで止まり目が合った。
銀灰色の瞳が、こちらを見ていた。
表情は動かない。
笑わない。
ただ静かに一瞬だけ見て、それからすぐに何もなかったように流れていった。
切り捨てられた、と思った。
婚約者の顔を確認して、それだけで終わった。
彼にとっては、それだけの存在だった。
私は反射的に視線を逸らしそうになって堪えた。
アリスは逸らさない、アリスは怯まない。
だからそのまま、前を向いた。
ルシアンは会場の奥へ歩いていった。
こちらへは来なかった。
婚約者であるにもかかわらず、挨拶のひとつもなかった。
夜会の間中、一度も近づかなかった。
他の貴族たちと低い声で言葉を交わして、それだけだった。
冷遇、というのはこういうことか。
頭ではわかっていた。
漫画でも見ていたから。
でも実際に体験すると思っていたより、ずっと、息が詰まった。
「アリス」
母の声がした。
「大丈夫です」
小さな声だった。
私にしか聞こえない声だった。
私は答えなかった。
答えられなかった。
ただ、また唇の端を上げた。
完璧な笑みを、貼り付けた。
会場の奥で、ルシアンが誰かと話している横顔だけが見えた。
こちらを見ることは、もう一度もなかった。




