第四章 母の目
シャルム侯爵夫人は、美しい人だった。
深紅ではなく、落ち着いた栗色の髪。
穏やかな茶の瞳。
アリスとは似ていないけれど、所作のひとつひとつに品があって、見ているだけで育ちのよさが滲み出てくる。
私はその向かいに座って、紅茶のカップを持ったまま内心で必死に平静を保っていた。
アリスの母が目の前にいる。
漫画では名前すら出てこなかった人が今、目の前にいる。
柔らかく微笑みながら私を見ている。
「顔色が優れないわね、アリス」
声も穏やかだった。
責めているわけじゃない。
ただ心配している、そういう声だ。
「……少し、眠れなかっただけです」
「そう」
夫人は静かに紅茶を口に運んだ。
沈黙が落ちた。
気まずい沈黙ではなかった。
でも私には、その静けさの中に何かが含まれている気がして上手く息ができなかった。
この人は、アリスの何を知っているんだろう。
漫画には描かれなかった。
でも目の前の人は、どこまで知っているんだろう。
アリスのことを本当はどう思っているんだろう。
「アリス」
夫人が、また口を開いた。
「ルシアン様のことを聞いたわ。来月の夜会ね」
「ええ」
「怖い?」
思わず、手が止まった。
カップを持ったまま、私は夫人を見た。
彼女は相変わらず穏やかに微笑んでいた。
でもその目は笑っていなかった。
真剣な、真っ直ぐな目だった。
怖い、か。
怖いに決まっている。
でもそれを言えるわけがない。
アリスは怖がらない。
悪女は、怖がらない。
「なぜそう思うのですか」
「思っただけよ」
夫人はカップをソーサーに戻した。
「あなたはいつも強いから」
その言葉が、胸のどこかに引っかかった。
いつも強い。
アリスがいつも強かったのは本当に強かったからだろうか。
それとも、強くいなければならなかったからだろうか。
「お母様」
気づいたら、口が動いていた。
「私のことを、どう思っていますか」
夫人が、少し目を見開いた。
私も驚いていた。
なぜこんなことを聞いたんだろう。
アリスはこんなことを聞く人間じゃない。
でも聞かずにいられなかった。
しばらくの沈黙。
夫人はゆっくりと、私を見た。
穏やかな目だった。
でもその奥に、何か深いものが揺れていた。
「愛しているわ」
静かな声だった。
「それだけよ」
それだけ。
その言葉の重さを、私はまだうまく測れなかった。
愛している。
それは本当だと思う。
でもその愛が、どんな形をしているのか。
何を抱えているのかわからない。
「……そうですか」
私は視線を落として、紅茶を一口飲んだ。
紅茶は少し冷めていたけど、不思議と悪くなかった。




