第三章 悪女の作法
アリス・シャルムとして生きるということは演じるということだ。
わかってはいたけど実際にやってみると思っていた以上に難しかった。
まず、笑い方がわからない。
アリスは笑う。
漫画の中で何度も見た。
唇の端を少し持ち上げて、目は笑わせない。
余裕があって、冷たくて、見る者を少し不安にさせるような笑み。
あれをどうやって作るのか、鏡の前で練習してみたのだけれど。
「……なんか、違う」
思わず声に出てしまった。
鏡の中の私は、ただ引き攣った顔をしていた。
悪女というより腹痛に耐えている人間に近い。
駄目だ、これは駄目だ。
深呼吸をして、もう一度。
意識して唇の端を上げる。
目に力を入れる。少し顎を引く。
少しマシになった気がする。
でもまだ足りない。アリスの笑みはもっと自然で、もっと怖くて
「お嬢様」
ドアがノックされた。
私は咄嗟に表情を消した。
「何」
「本日のご予定をお伝えに参りました」
ヴィヴィアンだ。
「入りなさい」
扉が開いて、彼女が入ってきた。
手に予定表のようなものを持っている。
視線が一瞬、鏡と私を往復した。
私が鏡の前に立っていたことに気づいているはずだ。
でも何も言わなかった。
「午前中はご自由に。午後はお母様とのお茶の時間がございます。夕刻にはシャルム侯爵がお戻りになる予定です」
母と、父。
漫画の中で見た顔が浮かんだ。
アリスの家族。
でもそれ以上のことは、よくわからない。
原作ではほとんど描かれなかった人たちだ。
「わかったわ」
「それから」
ヴィヴィアンが、少し間を置いた。
「先日、ルシアン・シルヴェスト公爵閣下よりご連絡が入っております。来月の夜会にて、婚約者として同席されるとのことです」
心臓が、大きく跳ねた。
ルシアン・シルヴェスト。
アリスの婚約者。
漫画の中で、アリスを冷遇し続けた男。
最終的に、アリスを殺す人間。
それだけしか、私は知らない。
顔も声も、実際に見たことがない。
漫画の中の絵として知っているだけだ。
「……そう」
声は思ったより平静に出せて安心した。
「何かご返事はございますか」
「不要よ。それだけのことでしょう」
ヴィヴィアンは一礼した。
でも部屋を出る前に、もう一度だけ私を見た。
さっきと同じ目だ。
慎重で、鋭くて、でも今度は少しだけ違うものが混じっていた。
心配、だろうか?
扉が閉まると私は鏡の前に戻って、そこに映る自分を見た。
来月、ルシアンに会う。
漫画の中でアリスを冷遇し続けた男に。
実際に会ったことはない。
どんな声をしているか、どんな目をしているか、何もわからない。
どうすればいい。
まだ、何もわからない。
ただ不安が襲ってくる。
会ったことのない相手に、婚約者として会わなければならない。
しかもその相手は最終的にアリスを殺す人間だ。
まず、会ってみなければわからない。
私は鏡の中の自分に向かって、もう一度笑みを作ってみた。
今度は、少しだけうまくいった気がした。
完璧じゃないけど、でもまあ…
練習あるのみ。




