第二章 侍女の目
ヴィヴィアンの動きには無駄がなかった。
クローゼットを開ける。
衣装を選ぶ。
手早く広げて、私のそばに持ってくる。
すべてが流れるように進んで迷いがない。
この部屋のどこに何があるか完全に把握しているのがわかった。
彼女はずっとここにいたのだから当たり前だと思った。
私はされるがままに立っていた。
腕を上げてと言われれば上げて、こちらを向いてと言われれば向く。
体が覚えているのか指示される前に動けることもある。
それが少し怖かった。
アリスの記憶がまだここに残っている。
どこまでが私で、どこからがアリスなのか。
「お嬢様」
ヴィヴィアンの声で思考が途切れた。
「少し、よろしいですか」
鏡の前に立たされていた。
ヴィヴィアンが後ろから私の髪を整えながら鏡越しに目が合う。
その目が、さっきと違った。
さっきは品定めするような目だった。
でも今は何かを確かめようとしている目だ。
慎重で鋭くて、少しだけ心配そうな色がある。
……もしかして気づいている?
「何かしら」
声は平静を保てた。
我ながら上出来だと思う。
「今朝のお嬢様は、少しいつもと違うように見えます」
予想していた通りだ。
でもいざ言われると背筋に冷たいものが走った。
「そう」
私は鏡の中のヴィヴィアンを見返した。
表情は動かさない。
アリスとして完璧に冷たく、完璧に無関心に。
「気のせいじゃないかしら」
ヴィヴィアンは一瞬、黙った。
髪を梳かす手は止まらない。
でも目だけが、じっと私を見ていた。
「……そうですね」
答えは静かだった。
引き下がったような声だったけれど諦めていない目だと思った。
「失礼いたしました」
彼女は視線を外して、また手を動かし始めた。
私は静かに息を吐いた。
また、乗り越えることができた。
でも彼女はきっと、また見てくる。
明日も、明後日も。
ヴィヴィアンはそういう人間だ。
諦めない。
アリスのことが好きで、アリスのことを誰より知っていて、だからこそ「違い」を見逃さない。
厄介な侍女になるかもしれない。
でもなぜか悪い気はしなかった。
こんなに真剣に見てくれる人間がアリスの傍にいた。
アリスは孤独だと思っていたけれど、少なくともひとりだけ、本気でアリスを見ていた人間がいた。
それは——
「お嬢様、髪が整いました」
ヴィヴィアンの声が、また思考を断ち切った。
鏡の中に、完成したアリスがいた。
深紅の髪が美しく結い上げられて、冷たい美貌が一層際立っている。
どこから見ても、完璧な悪女だ。
私はその顔を、しばらく見つめた。
これが私の顔だ。
これから毎日、この顔で生きていく。
……覚悟を決めるしかない。
「ありがとう」
口から出た言葉に自分で少し驚いた。
アリスが、礼を言うだろうか。
ヴィヴィアンも一瞬、動きが止まった。
でもすぐに、また無表情に戻った。
「……お役に立てて光栄です、お嬢様」
声は平静だった。
でも鏡の中で、ほんの少しだけ彼女の目が、柔らかくなった気がした。
ヴィヴィアンが部屋を出て行き、扉が閉まる音がして静寂が戻った。
私はその場に立ったまま、しばらく動けなかった。
前の世界のことを、思った。
家族がいた。
友人がいた。
好きな漫画があって、好きな食べ物があって、明日も普通に目が覚めると思っていた。
それが全部、なくなった。
やっと実感できて泣きたいと思った。
でも涙が出なかった。
この体が泣き方を知らないのか、それとも私自身がまだ追いついていないのか。
瞼が熱くなる気がした。
でも何も零れてこない。
ただ胸の奥が、じくじくと痛んだ。
理由もわからず殺されて、知らない体に入って、死ぬ運命の悪女として生きていかなければならない。
……笑えない話だ。
私は静かに目を閉じた。
泣けないなら、せめて少しだけこの痛みを、ちゃんと感じておこうと思った。
誰にも見せられないけれど、これは本物だから。
前の私が、確かにいたということを。




