第十九章 変わる距離
稽古を重ねるうちに少しずつ変わってきた。
感情を、見る。
怒りが来るとき、怒りだとわかる。
焦りが来るとき、焦りだとわかる。
わかれば、まだ溢れる前に少しだけ息ができる。
まだ完璧ではないけれど、廊下での出来事や夜会の時より、ずっとましだ。
「顔が変わったな」
三度目の稽古の帰りにオズワルドが言った。
「……そうですか」
「怖がり方が変わった。前は力を恐れていた。今は力と向き合い始めている」
向き合い始めている。
自分ではそこまで実感がなかった。
でもオズワルドが言うならそうなのかもしれない。
「まだ途中だ。だが、悪くない」
この人にしては褒め言葉、だろうか。
✦ ✦ ✦
学院からの帰り道、馬車の中でヴィヴィアンが口を開いた。
「お嬢様」
「何」
「最近、少し……顔色がよろしいように見えます」
「そう」
「……何かございましたか」
何かあった、と言えば何かあった。
でも話せることではない。
「別に」
ヴィヴィアンは一瞬、私を見た。
それから視線を窓に戻した。
「……そうですか」
諦めていない目だ、と思った。
いつも通りの、諦めていない目。
「ヴィヴィアン」
「はい」
「……あなたは、ずっとそこにいてくれるの」
我ながら妙なことを言った、と思った。
でも口から出てしまった。
ヴィヴィアンは少し、黙った。
「……当然でございます」
それだけだった。
でも声が、いつもより少しだけ柔らかかった。
✦ ✦ ✦
夜会が続いた。
ルシアンはあいかわらず公の場では私を無視した。
挨拶もしない。近づかない。
婚約者として扱わない。
でも変わったことが、ひとつあった。
あの夜会の男が、また来た。
人混みの中で私の隣に来て低い声で言った。
「お返事を聞かせていただけますか、シャルム嬢」
星詠みの会の、答えを。
「……まだ考え中ですわ」
「それは残念。でもあまり時間はありませんよ」
また脅しだ、とわかった。
でも表情は動かすわけにはいかない。
アリスとして、静かに笑みを貼り付ける。
「そうですか。でも私のことは私が決めますので」
男は少し目を細めた。
「……ご随意に」
そう言って、離れていった。
私は密かに息を吐いた。
するとまた、いつの間にか隣にルシアンが来ていた。
いつもと同じ、何も映さない目。
でも今日は少しだけ違って私の顔をまっすぐ見ていた。
「顔色が悪い」
「平気です」
「また同じことを言う」
「……本当に平気です」
ルシアンは少し、私を見た。
「あの男と、何を話しましたか」
「……星詠みの会の話です」
「答えは」
「断りました」
正確には保留だが公爵の前ではそう言えた。
そう言いたかった。
ルシアンは何も言わなかった。
ただ、少しの間、私の隣に立っていた。
公の場だ。
婚約者として扱わない、はずの場だ。
でも今夜は、離れなかった。
「……なぜ、そこにいるのですか」
小さく問いかけた。
「たまたまです」
「またその言葉ですか」
「……」
ルシアンは少しだけ、視線を外した。
「あの男が、またあなたに近づくかもしれない」
「それで?」
「それだけです」
それだけ、と言った。
でも今夜のルシアンは会場の奥へ行かなかった。
ずっと少し離れた場所にいた。
近くはない。
でも遠くもない。
守っている、というより見ている。
その距離が、いつもと違った。
帰りの馬車の中で窓の外を見ながら思った。
距離が、変わった気がする。
何かが少しずつ、変わっている。
それがいいことなのか、悪いことなのか。
まだ、わからなかった。




