第十八章 稽古と交差
オズワルドのもとへ、週に一度通い始めた。
最初の稽古は拍子抜けするほど地味だった。
「座れ」
「……はい」
「目を閉じろ」
「……はい」
「息をしろ」
「……それだけですか」
「うるさい。息をしろ」
ただ座って、ただ息をする。
一時間、それだけだった。
帰り際にテオが「どうでしたか」と聞くから「よくわかりませんでした」と正直に答えたら「それが正解だと思います」と笑顔で言われた。
よくわからない。
✦ ✦ ✦
二度目の稽古で、オズワルドが言った。
「お前の力は、感情から生まれる。感情を殺すのではない。感情を、見る。それが制御の始まりだ」
「……感情を、見る?」
「怒っているとき、怒っていると気づけるか。恐れているとき、恐れていると気づけるか。気づければ、溢れる前に止められる。気づかなければ、溢れてから後悔するだけだ」
なるほど、と思った。
廊下での出来事も、夜会での出来事も気づいたときには、もう溢れていた。
「……難しいですね」
「簡単だったら誰でもできる」
オズワルドは相変わらず、ぶっきらぼうだった。
でも言葉は、いつも的を射ていた。
✦ ✦ ✦
稽古の帰り道、テオと並んで馬車に乗った。
「先生、怖くないですか」
「怖くはないです。ただ……独特ですね」
「はは。ルシアンが初めて会ったとき、泣いたらしいですよ」
思わず吹き出しそうになるのを堪えた。
「……公爵が?」
「子供の頃の話ですけど。先生に怒鳴られて、泣いたって。本人は絶対に認めないけど」
ルシアンが泣いた。子供の頃に。
想像できなかった。
あの冷たい目の人間が泣く場面など。
でもテオが笑いながら話すから嘘ではないのだろう。
「……そうですか」
「シャルム嬢は泣かなかったじゃないですか。ルシアンより強いかも」
「怒鳴られていないので」
「それもそうか」
テオはまた笑った。
この人の笑顔は不思議と居心地が悪くない。
ルシアンと正反対で、開いていて、隠していない。
「テオさんは、公爵のことを……よく知っているのですね」
「まあ、長いので。あいつの面倒くさいところも、全部」
面倒くさいところ。
「……たとえば」
「んー、全部話すと長いですけど」
テオは少し考えるような顔をした。
「一番は抱え込むところ、ですかね。誰にも言わずに、ひとりで決めようとする。で、それが正しいと信じたら、絶対に曲げない」
ひとりで決めようとする。絶対に曲げない。
婚約破棄を断ったあの即答が、頭を過った。
「……それは、困りますね」
「困るんですよ、本当に」
テオは苦笑した。でもその目は、どこか温かかった。
「でも、あいつが決めたことには必ず理由がある。それだけは確かです」
必ず理由がある。
私はその言葉を、胸の奥にしまった。
✦ ✦ ✦
学院での、ある昼下がりのことだった。
廊下を歩いていると、前方に人だかりができていた。
何事かと思って視線を向けると笑い声が聞こえた。
明るい、屈託のない笑い声。
人だかりの中心に、二人がいた。
金髪の、青い目の男だった。
背が高くて、顔立ちが整っていて、周囲を引きつける華やかさがある。
その隣に、亜麻色の髪の少女。
翡翠色の瞳が、柔らかく細められていた。
息が、少し止まった。
私は、この二人を知っている。
金髪碧眼の男——アダム。漫画の主人公。
そして隣の少女——レイラ。ヒロイン。
原作では、この二人が中心にいた。
アリスはその周囲で悪役として動いていた。
彼らはこちらを見ていない。
笑いながら仲間たちと話している。
その輪の中に、光があった。
誰もが自然に引き寄せられるような明るい光。
アダムが何か言うと周囲がどっと笑った。
それにつられレイラも笑い翡翠の瞳が細くなった。
……ああ。
漫画の中で見た光景だ、と思った。
こういう場面が原作にはたくさんあった。
温かくて、明るくて、見ているだけで心が和むような場面。
アリスはいつも、その外側にいた。
関わらず、近づかず、ただ遠くから見ているだけの。
今の私も同じだ。
この廊下の端に立って向こうの光を見ている。
アダムがふと、顔を上げた。
視線が、偶然こちらへ来て一瞬だけ目が合った。
彼の顔から笑顔が消えて目が少し鋭くなった。
警戒、だろうか。
それとも、ただの驚きだろうか。
でもすぐに、また笑顔に戻った。
視線が外れて何事もなかったように、また仲間たちと話し始めた。
私は視線を前に戻して、歩き続けた。
関わらない。
向こうには向こうの物語がある。
私には私の物語があるから。
そう思いながらも廊下の角を曲がってから少しだけ立ち止まった。
向こうの笑い声が、まだ聞こえた。
あの光の輪の中にアリスが入ることは原作では一度もなかった。
今も、きっと同じだ。
でも今の私は、原作のアリスじゃない。
……それが、何を意味するのか。
まだ、わからなかった。




