第十七章 師匠
翌日の朝、ヴィヴィアンが手紙を持ってきた。
差出人はルシアン・シルヴェスト。
封を開けると、短い文章が書かれていた。
——明後日の午後、お時間をいただけますか。案内の者を送ります。
それだけだった。
理由も、行き先も、何も書いていない。
「お返事は」
ヴィヴィアンが聞いた。
表情は動かさないが目が少しだけ好奇心の色を帯びていた。
「行くと伝えて」
私は答えた。
ヴィヴィアンは一礼した。
でも部屋を出る前に
「お嬢様」
「何」
「お気をつけて」
それだけ言って出ていった。
何に気をつけるのか聞き返せなかった。
でもヴィヴィアンが心配しているのはわかった。
あの目は、いつも正直だから。
*
明後日の午後、約束の時間に玄関へ出ると馬車が一台止まっていた。
御者台に座っていた人物が、こちらを見て軽く手を上げた。
若い男だった。二十代前半くらいだろうか。
明るい茶色の髪に人懐こそうな目。
静かに立っているだけで周囲を圧するルシアンとは正反対の開けた雰囲気だ。
「アリス・シャルム嬢ですね。お迎えに上がりました、テオと申します。ルシアンに頼まれて」
ルシアンと呼んだ。
公爵でも閣下でもなく。
「……シルヴェスト公爵の、ご友人ですか」
「まあ、そんなところです。昔からの腐れ縁というか」
テオはにこりと笑った。
警戒心を抱かせない笑顔だ。
「怪しい者じゃないですよ。一応」
「一応、というのが少し怪しいですわ」
「はは、手厳しい。ルシアンが言ってた通りだ」
思わず、止まった。
「……何と言っていたのですか」
「さあ、どうでしょう」
テオは笑顔のまま、馬車の扉を開けた。
「さ、どうぞ。遠くはないので」
*
馬車は首都ルナールの外れに向かった。
街の喧騒が薄れて、石畳の道が土の道に変わる頃、小さな家が見えてきた。
古い建物だ。
蔦が壁を覆って、窓が小さくて、まるで長い時間をかけてそこに根を張ってきたような。
「着きました」
テオが馬車を止めた。
「中に、オズワルド先生がいます」
「……どんな方ですか」
「怖くはないです。ちょっと変わってるけど」
ちょっと変わっている、という言葉が少し不安だった。
扉をノックすると、しばらくして開いた。
老人だった。
白髪で、背が少し曲がっている。
でも目だけが若かった。
深くて、鋭くて、何かをずっと見てきたような目。
「来たか」
老人は私を一目見て、そう言った。
「思ったより小さいな」
「……失礼ですわ」
声は平静のまま返した。
目は笑わせない。
アリスとして冷たく、でも礼儀の範囲で。
老人は少しだけ目を細めた。
値踏みするような間があった。
「……面白い目をしているな」
「まあ、入れ」
テオが小さく吹き出した。
私は彼を横目で一瞥してから、中へ入った。
*
部屋の中は、本と植物と、よくわからない道具で溢れていた。
老人、オズワルドは椅子に腰を下ろして私をじっと見た。
「ルシアンから話は聞いた。声織りだそうだな」
「……そう聞いています」
「確信はないのか」
「制御できていないので」
「なるほど」
オズワルドは少し頷いた。
「制御できていないのは、力を恐れているからだ。恐れていると、感情が揺れた瞬間に溢れる。わかるか」
「……わかります」
「では聞くが、お前は自分の力をどう思っている」
怖いと、ずっとそう思っていた。
禁忌で、危険で、制御できなくて怖い力だと。
でも。
「……まだ、わかりません」
正直に言った。
オズワルドは少しの間、私を見た。
それからゆっくりと、口の端を上げた。
笑顔というより認めた、というような顔だった。
「正直だな。嘘をつかなかった」
「嘘をつく理由がありません」
「ある。自分を守るために」
私は少し黙った。
「……怖いのは本当です。でも、わからないことに嘘をつくのは違う気がして」
オズワルドは頷いた。
「よし。教えよう」
「……いいのですか」
「ルシアンが頼んできた。あの子が頭を下げるのは珍しい。それだけのことだ」
ルシアンのことを、あの子と言った。
つまりこの人はルシアンのことを、昔から知っている。
「一つだけ聞かせてください」
「何だ」
「なぜ、ルシアンはあなたを信頼しているのですか」
オズワルドは少しの間、私を見た。
「それはルシアンに聞け」
「……教えてくれないと思うので」
「そうだな」
老人は少しだけ、目を細めた。
「あいつはずっと、一人で抱えてきた。お前のことも含めて」
私のことも、含めて。
その言葉の意味を問い返す前にオズワルドは立ち上がった。
「今日は顔合わせだけにしておこう。次から始める。週に一度、ここへ来い」
「……わかりました」
帰り際、テオが馬車の扉を開けながら言った。
「どうでした、先生」
「……変わった方ですね」
「でしょう。ルシアンが一番懐いてる人なんですよ、実は」
ルシアンが、懐いている。
あの、何も映さない目の人間が。
「……意外ですね」
「そうですか? 俺はそうは思わないけど」
テオは笑顔のまま、馬車を走らせた。
窓の外に、夕暮れが広がっていた。
今日、二人の新しい人間と会った。
オズワルドという老人と、テオという男。
どちらもルシアンと繋がっていて、どちらもルシアンのことを当たり前のように語った。
ルシアンがあの子、と呼ばれていた。
頭を下げた、と言われていた。
私には知らない顔だ、と思った。
私が知っているのは公の場で私を無視する顔と、すれ違いざまに一言だけ残す顔だけだ。
それ以外のルシアンを私はまだ何も知らない。




