第十三章 禁忌の歴史
魔法史の講義は、週に一度だった。
廊下での出来事から数日が経った。
婚約破棄のことは今は考えられない。
それより先に自分の中にあるものを、どうにかしなければならない。
制御できない力を抱えたまま婚約破棄も何もない。
まず、これだ。
受けるかどうか、少し迷った。
リュセルヌのことが、まだ頭に引っかかっていたから。
あの棘が、まだ消えていなかったから。
でも行かない理由もなかった。
教室は小さかった。
窓が多くて、午後の光が柔らかく差し込んでいる。
生徒は十人ほどで、みんな静かに席に着いていた。
私が入るとまた視線が集まったがこの光景にはもう慣れた。
アリスがいるという緊張が走るだけで誰も何も言わない。
私は静かに一番後ろの席に座った。
しばらくして、リュセルヌが入ってきた。
穏やかな笑顔。
柔らかな茶色の髪。
中庭で会ったときと同じ光の中にいるような印象だ。
でも今日は教壇に立っている。
教師として。
「では、始めましょう」
静かな声だった。
「今日は幻惑魔法の歴史について話します」
幻惑魔法
この言葉に心臓の音が大きく跳ねた
偶然だろうか。
いや、偶然にしてはできすぎている。
でも表情は動かさない。
アリスとして静かに前を向く。
「幻惑魔法とは、相手の認識を歪める力です。視覚、聴覚、感情、あらゆるものに作用する。古い記録によれば、かつてこの力を持つ者は〈幻声者〉と呼ばれていました」
リュセルヌは黒板に文字を書いた。
幻声者。
「学術的にはそう記録されています。ただ古い民話や言い伝えでは別の名で呼ばれていました」
彼は少し間を置いた。
「〈声織り〉と」
声織り。
幻声者よりも、柔らかい響きだった。
恐ろしいものというより何か美しいものを呼ぶような。
「〈幻声者〉は稀有な存在でした。百年に一人、あるいはそれ以下。生まれながらに力を持ち、感情と連動して発動する。制御するには、長い時間と強い意志が必要だったとされています」
感情と連動して発動する。
先日廊下で起きたことが、頭を過った。
感情が昂った瞬間、勝手に溢れた。
あれはつまり制御できていない状態だということだ。
「そして〈幻声者〉は、その力ゆえに迫害されました。恐れられ、利用され、あるいは排除された。だから今も魔法は禁忌なのです。持つこと自体が、命に関わる」
教室の中は静かだった。
生徒たちはただの歴史の話としてノートを取っている。
でも私には、ただの話じゃなかった。
これはアリスの話だ。
そしてアリスに転生した私の話だ。
「質問はありますか」
リュセルヌが教室を見渡した。
誰も手を挙げない。
私も挙げない。
でも視線が合った。
リュセルヌが、私を見ていた。
穏やかな笑顔のまま、ほんの一瞬だけ。
それだけで、また棘が刺さった。
偶然じゃないと思った。
この人は知っている。
私が〈幻声者〉だと。
だからこの講義を……でも確証はない。
これは、ただの直感だ。
講義が終わって、生徒たちが出ていった。
早く出なければと思い私も立ち上がった。
「シャルム嬢」
でも、呼ばれてしまった。
振り返るとリュセルヌが微笑んでいた。
「講義はいかがでしたか」
「……興味深かったです」
「それは良かった」
彼は少し間を置いた。
「〈声織り〉の話、何か思うところはありましたか」
また心臓が、跳ねた。
学術用語ではなく民話の呼び名の方を使った。
それは、意図的だろうか。
「いいえ」
「そうですか」
リュセルヌは笑顔を崩さなかった。
「では、またいつでも来てください。扉はいつでも開いています」
私は一礼して、教室を出た。
廊下を歩きながら、手のひらをじっと見た。
感情と連動して発動する。
制御するには長い時間と強い意志が必要。
……どうすれば、制御できるんだろう。
答えはなくて、でも一つだけ確かなことがあった。
あの人には、近づきすぎてはいけない。




