第十二章 効かない
それは、些細なことがきっかけだった。
学院の廊下を歩いていたときのことだ。
角を曲がった瞬間、誰かとぶつかった。
相手は男子生徒でその拍子に男子生徒が持っていた書類が散らばった。
私はとっさに謝ろうとして相手の顔を見て止まった。
睨んでいた。
「……シャルム嬢」
低い声で敵意が滲んでいる。
この学院でアリスを慕う人間はいない。
でもここまで露骨な敵意は初めてだった。
「邪魔だ」
その一言が、何かに触れた。
触れた、というより何かが外れた。
気づいたとき私の口は勝手に動いていた。
「そう。邪魔だと思うなら、よけてくださらない?」
普通の言葉だった。
でも声が違った。
低くて、滑らかで、耳の奥に入り込むようで、自分の声じゃない気がした。
男子生徒の顔が、変わった。
敵意が、すうっと消えた。
目が、とろんと緩む。
まるで夢の中にいるような顔になって
「……すみません、シャルム嬢。失礼しました」
丁寧に頭を下げて、書類を拾って、歩いていった。
私はその場に立ったまま、固まっていた。
……今、何が起きた。
視線を下げると手が震えていた。
確か漫画の中でアリスは禁忌と知りながら、意図的に幻惑魔法を使っていた。
それがアリスが恐れられていた理由のひとつだった
でもそれは物語の中の話で、この体に本当にそんな力があるとは、まだ実感していなかった。
でも今、確かに使った。
意図していなかったのに、感情が昂った瞬間勝手に溢れた。
こんな力が、自分の中にあるのが怖い。
しかも制御できなくて感情次第で簡単に外れる。
「大丈夫ですか」
声がして、振り返った。
ルシアンだった。
なぜここに?と思ってから思い出した。
先週も学院の中庭で会った。
そのとき「なぜここに」と聞けなかったままだった。
「……見ていたのですか」
「たまたま。魔法史の研究室に用があって、この廊下を通りました」
魔法史の研究室はリュセルヌがいる場所だ。
なぜルシアンがそこに、と思った。
でも今はそれより先に——
「アリス嬢、顔色が悪い」
感情のない声だった。
廊下に倒れられても困る、とでも言いたそうな…そういう声。
「平気です」
「平気には見えません」
言い合いにならないうちに私は視線を逸らした。
落ち着け。落ち着かなければ。
「……先ほどの、見ましたか」
「見ました」
「どう思いましたか」
ルシアンは少しの間、私を見た。
「興味深いと思いました」
「……怖くはないのですか」
「怖い?」
彼は静かに首を傾げた。
「なぜ」
なぜ、と言った。
本当に、わからないような顔で。
だから私は彼をまっすぐ見た。
「今のを見て、何も感じなかったのですか。あの生徒は私の声で変わったんです。それが」
「わかっています」
静かな声だった。
「それでも、怖くはない」
どうして。
なぜこの人は怖がらないんだろう。
あの生徒は一瞬で変わったのに、この人は何も変わっていない。
目が緩まなくて、表情が崩れない。
「……なぜ、効かないのですか」
気づいたら、そう言っていた。
「私の声が。あなたには、効いていない」
ルシアンは答えなかった。
ただ、私を見た。
銀灰色の瞳が静かにこちらを捉えている。
その目に、何かがあった。
怖れでも、好奇心でもない。
もっと深くて、もっと静かな何か。
「アリス嬢」
「何ですか」
「それは」
一瞬だけ、間があった。
「いつかお話しします」
それだけ言って、ルシアンは歩いていった。
私はその場に立ったまま、彼の背中を見つめていた。
この人にだけ、効かない。
なぜ?その問いが、胸の中で静かに燃え続けていた。




