第十章 光のような人
茶会から帰った夜、私はまた天井を見ていた。
『なりません』と言ったあの即答が頭から離れない。
驚いた様子もなく、迷った様子もなく
まるで最初からわかっていたように。
でも、おかしい。
漫画の中のルシアンはアリスを嫌っていた。
それははっきりしていた。
なのになぜ婚約破棄を断のだろうか
むしろ好都合なはずだ。
なぜ「なりません」と即答する。
双方の家の合意と言っていたから政略的な何かがあるのかもしれない。
破棄したくても、できない事情が。
でもそれはどんな事情だろう。
漫画には描かれていなかった。
私には、わからない。
……この人は、何を考えているんだろう。
答えは出なかった。
でも諦めるわけにはいかない。
次の手を、考えなければ。
私は目を閉じた。
ルナールの夜は静かだった。
✦ ✦ ✦
翌週、学院での昼休みのことだった。
中庭のベンチに座って、ぼんやりと噴水を眺めていた。
周囲に人はいない。
アリスの傍には、誰も近づかない。
それはもうわかっていた。
「こちらよろしいですか」
声がして、顔を上げた。
男性だった。
穏やかな笑顔。柔らかな茶色の髪。
温かみのある目。
三十代くらいだろうか。
学院の教師にしては少し若い気がするが、生徒でもなさそうだ。
全体的に、光の中にいるような明るい印象の人だった。
「……どなたですか」
「失礼しました。私はリュセルヌといいます。この学院で魔法史の講義を担当しております」
魔法史。
この世界では魔法は禁忌だ。
一般の人間は存在すら知らない。
一部の貴族や権力者だけが知っていて表向きは封印されている。
魔法を持つことが知られれば命取りになる。
それなのに「魔法史」という学問が学院にある。
つまり表向きは「過去の遺物」として歴史の中に押し込めることで、かろうじて語ることが許されているのだろう。
そしてこの人は、その講師だ。
「アリス・シャルム嬢ですね。お噂はかねがね」
私の名前を知っている。
でも講師ならば、担当する学年の生徒の名前を事前に把握していても不思議ではない。
リュセルヌは穏やかに笑った。
嫌みではない。
本当に穏やかな笑顔だった。
「光栄です」
私は答えた。警戒しながら。
「お一人ですか。珍しい」
「……たまには静かにしたい気分なので」
「それは失礼しました。では隣に座るのも迷惑でしょうか」
断るべきだ、と思った。でも
「どうぞ」
なぜか、そう言っていた。
リュセルヌは静かに隣に座った。
噴水を眺める。
急がない。喋らない。ただそこにいる。
不思議と居心地が悪くなかった。
「シャルム嬢は」
しばらくして、リュセルヌが口を開いた。
「魔法に興味はありますか」
心臓が、ひやりとした。
表情は動かさない。
アリスとして静かに彼を見る。
「魔法は禁忌でしょう」
「もちろん。ですから歴史として学ぶのですよ」
リュセルヌは笑った。柔らかい笑顔だった。
「古い時代には、魔法を持つ者がいたとされています。その記録を辿るのが私の研究です。もし興味があれば、いつでも講義を聴きに来てください」
それだけ言って、リュセルヌは立ち上がった。
「お邪魔しました、シャルム嬢。良い午後を」
そのまま、歩いていった。
私はその背中を見送った。
穏やかで、温かくて、光のような人だった。
でも胸の奥に小さな棘が刺さった気がした。
何かが、引っかかる。
何が、とはわからない。
ただ、あの笑顔のどこかに見えない何かがある気がして。
気のせいかもしれない。
でも私は、その棘をしばらく忘れられなかった。




