後編2
ユウはなりふり構わず、研究室を飛び出した。使い古したセダンのハンドルを握る手は、自分の鼓動が伝わるほどに強く強張っている。アクセルを踏み込む足に力を込め、彼女は半ばパニック状態で叔父の家へと車を滑り込ませた。あわよくば、その移動動物園の正体を科学的な光で照らし出し、願わくば、失われたはずの貴重な遺伝資源を現代に繋ぎ止めるための、最後の手がかりを掴み取りたい。そんな功名心と焦燥が、彼女を突き動かしていた。タイヤが砂利を噛む音と共に車を止め、息を切らせて車外へ飛び出す。しかし、玄関先でアカリが楽しそうに連れていた「犬」を見た瞬間、ユウの思考は凍りつき、その場に縫い付けられたように足が止まった。
「あっ、お姉ちゃん、いらっしゃい!移動動物園、本当に面白かったんだよ。見て見て、この子すごくお利口なの。わたしはこれから、このワンコを散歩に連れて行ってあげなきゃいけないんだ」
アカリは屈託のない笑顔を浮かべ、足元にいる妙な姿の犬の頭を撫でていた。ユウは喉の渇きを感じながら、絞り出すような震える声で尋ねた。
「……ねえ、アカリ。その子、一体なんて種類の犬なの?普通のテリア犬とは、耳の形も足の長さも、何もかもが違うように見えるけれど」
問いかけられたアカリは、首をかしげて不思議そうに、しかし事も無げに答えた。
「ええと、ペットショップの人が言ってたよ。イリオっていう種類の、ハワイのワンコなんだって!昔は神様のお使いだったんだってさ。ほら、行くよー」
アカリはそれだけ言い残すと、弾んだ足取りで、犬に引かれるようにして路地の向こうへと走り去ってしまった。ハワイアン・ポイ・ドッグ。かつてハワイ諸島で神聖な動物として愛され、食文化や宗教儀式とも深く結びつきながら、19世紀末に外来種との交配や環境の変化で絶滅したはずの、伝説の犬種。現在、世界中の愛好家が似た外観の犬を交配させてその姿を再現しようというプロジェクトを懸命に進めているが、目の前を駆けていったあの個体が放つ、野生と温もりが混じり合った本物の気配は、到底そんな不完全な試作個体には見えなかった。ユウはめまいに襲われ、ふらつく足取りで叔父の家の庭へと視線を向けた。
そこには、世界中の植物学者が目にすれば、驚愕のあまり悲鳴を上げるような光景が、夕暮れの穏やかな光の中に広がっていた。玄関脇の小さな鉢植えに、まるで道端のパンジーでも飾るかのようにさりげなく植えられているのは、日本の植物レッドデータブックで絶滅が危惧されているはずのハツシマランだ。その気高い紫の斑点が、西日に透けて美しく、そして残酷に輝いている。そして庭の隅からは、バサバサと容赦なく、無造作に草を刈り取る規則的な音が聞こえてくる。ユウは崩れそうな体を引きずり、生垣の向こう側を覗き込んだ。
「叔父さん、その……家の庭にある鉢植え、それにその足元の花……」
「おう、ユウじゃないか。久しぶりだな、研究は進んでいるか?この季節は雨が多いせいか、どうも草がよく伸びて困るんだ。放っておくと庭がジャングルになっちまうからなあ」
叔父は額の汗を拭い、人懐っこい笑顔を浮かべながら、手にした鎌の先で足元を指し示した。そこには、乱雑に束ねられ、打ち捨てられたムジナノカミソリの無残な姿が転がっていた。野生種はほぼ絶滅状態にあり、学術的にも極めて貴重なはずのその橙色の花々が、ここでは文字通り、美しさを誇る間もなく雑草として処理されているのだ。
ユウの視界が、熱に浮かされたようにぐにゃりと歪んだ。自分がこれまでの半生をかけて積み上げてきた専門知識、必死に守ろうとしてきたレッドリストの数字、そして生命という存在の厳格な定義。それらすべてが、この庭のありふれた、穏やかな日常の営みによって、音もなく踏みつぶされていく。
「あ……ああ……」
脳が情報の過負荷に耐えきれず、目の前が白く明滅する。ユウの意識は、花の香りと土の匂いが混ざり合う中で、すとんと断絶し、深い闇へと暗転した。
数時間後、古びたソファの上で目を覚ましたユウは、傍らに座って心配そうに覗き込んでいたアカリに、掠れた、力のない声で移動動物園のその後を尋ねた。
「あの、動物園……一体、どこへ行ったの?あんなにたくさんの、信じられない生き物たちを連れて……」
「お隣のオバチャンが言うにはね、あの動物園はときどき、忘れた頃にふらっとやってくるんだって。でも、前がどこにいたのか、次の行き先がどこなのかを知ってる人は、この街には誰もいないみたい。不思議なオッチャンたちだよね、本当に」
アカリのその、なんの疑いも持たない無垢な言葉を聞いて、ユウの心には妙な、そして静かな納得感が染み渡っていった。もし、あの移動動物園という存在が、この世界の堅苦しい物理法則や、人類が勝手に決めた時間の流れに従っていないとしたら。
誰にも行き先を告げず、人々の記憶の隙間にひっそりと現れては消えていく。それは単なる娯楽のための巡回公演などではない。人類の傲慢や不条理によって、絶滅という名の残酷な終止符を打たれた生命たちを、ひっそりとその懐に保護し、密かに次の時代、あるいは別の平穏な場所へと運び続ける、時空を漂う方舟そのものだったのではないか。
あの、赤い髪を持ったネアンデルタール人の園長は、ホモ・サピエンスによって居場所を奪われ、歴史の表舞台から消し去られた種たちの、孤独で慈悲深い最後の守り人なのかもしれない。
ユウは重い体を引き起こし、窓の外をぼんやりと眺めた。そこには、絶滅したはずの犬が庭を駆け回り、絶滅したはずの植物が、夕暮れの風に吹かれて当たり前のように共存している、どこまでも静かな光景があった。
「科学が、この世界のすべてを解き明かせると思っていたけれど……」
ユウは自嘲気味に、しかしどこか晴れやかな気持ちで力なく笑った。世界は、生物学の分厚い教科書が冷徹に記述しているよりも、ずっと広くて、ずっと優しい秘密を隠し持っている。そしてその秘密は、大人の凝り固まった理論ではなく、アカリのような、目の前の奇跡をそのままに受け入れる無垢な瞳にだけ、そっとその真実の姿を現すのかもしれない。彼女はもう、カメラを構えようとはしなかった。ただ、その優しい秘密の一部になったような、心地よい静寂に身を委ねていた。




