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方舟の休日  作者: 渡瀬ユウ
3/4

後編1

「どこ、って移動動物園から帰ってきたんだよ。今、家の玄関先。お土産にオッチャンから不思議な羽をもらったから、今度会う時にあげるね」


スマートフォンの画面に躍り出たアカリの返答は、あまりにも拍子抜けするほど日常的な響きを湛えていた。窓の外では夕暮れのチャイムが遠くで鳴り、研究室の廊下からは学生たちの談笑する声が聞こえてくる。そんな穏やかな現実の裂け目から、ユウが感じている世界の均衡が音を立てて崩れていくような戦慄など、画面の向こう側の彼女には一欠片も伝わっていないようだった。アカリはただ、週末のイベントを楽しんだ一人の少女として、無邪気に言葉を重ねてくる。


「ほら、普通のハトも居るし。メキシコ湾原産とか書いてある胸が赤いやつ。この子、すごく大人しくて、手を出すと指をつついてくるんだよ」


次に送られてきたのは、安っぽい木製の鳥籠の中で静かに麦の粒を啄む、一見すればどこにでもいそうな鳩の写真だった。しかし、ユウは息を呑んだ。画面を拡大する指が、かすかに震えている。その、夕焼けを溶かし込んだような赤みがかった胸元のグラデーションと、楔形に鋭く伸びた特有の尾羽の形。それを見た瞬間、ユウの心臓は、本来鳴るはずのない嫌な音を立てて拍動を早めた。


「リョコウバト(Ectopistes migratorius)……」


かつて北米大陸を空が暗くなるほどの群れで埋め尽くし、その羽ばたきは嵐のような音を立てたと伝えられる、史上最も個体数の多かった鳥。それが人間の無制限な乱獲によって、1914年、シンシナティ動物園の冷たい檻の中で最後の一羽となったマーサが息を引き取ったことで、完全に絶滅したはずの種だ。ユウは歴史の重みに押し潰されそうになりながら、その写真の中に、生きた鳥だけが持つ瞳の輝きを見出していた。


ペコン、という気の抜けた通知音が、深い混乱の淵に沈みかけていたユウの思考を、無慈悲に、そして強制的に現代へと引き戻す。


「こっちはただの本州原産の茶色いカワウソみたいだね。水遊びが大好きみたいで、ずっとバシャバシャやってて、わたしの服まで濡れちゃった。オッチャンは天然記念物だから内緒な、って言ってたから、内緒にしてね!」


写真は、大きなプラスチック製の水桶の中で気持ちよさそうに身をよじらせる、愛嬌のある顔立ちのカワウソだった。濡れて艶を帯びた茶色の毛並み、短く太い四肢、そして好奇心に満ちた丸い瞳。ユウはその特徴を脳内のデータベースと照らし合わせ、即座に結論を導き出した。間違いない。1979年に高知県で最後の目撃例を残して姿を消し、2012年に環境省が苦渋の決断をもって絶滅を宣言した、ニホンカワウソ(Lutra lutra nippon)だ。


もはや、精巧なロボティクスだの、アカリによる悪質な画像加工だのといった、自らの正気を守るための常識的な言い訳は、何一つ通用しない。そこには、歴史の闇に永遠に消えたはずの生命の鼓動が、確かに、そしてあまりにも安価に、移動動物園の出し物として存在している。ユウはめまいに襲われ、デスクの端を強く握りしめた。


「動物園の番犬は普通だよね?やたらとスマートな茶色い柴犬。なんか表札に『オオカミです餌を与えないで』って書いてあるけど、すごく人懐っこくて、ずっと尻尾を振ってるんだもん」


ユウは充血した目で画面を凝視した。そこに写っていたのは、柴犬にしては明らかに脚が長く、耳が短く、そして特有の、先が丸まった尾の形状を持つイヌだった。1905年に奈良県で捕獲された若い個体を最後に、絶滅したとされるニホンオオカミ(Canis lupus hodophilax)。その野生の誇りと孤独を煮詰めたような立ち姿の生物が、アカリの横で従順に座っている。


そして、その写真の端に、ユウの理性の残滓を粉砕するトドメとなるものが写り込んでいた。


犬の隣で、誇らしげに腕を組んでいるがっしりとした体格の男性。彼は白い肌を持ち、まるで燃えるような鮮やかな赤い髪を無造作に伸ばしていた。その頭骨は前後に長く、眼窩の上には現生人類には見られない太い眉弓、眼窩上隆起が重々しく突き出している。そして、冷たい外気を効率よく温めるための、大きく逞しい鼻。


現生人類ホモ・サピエンスとは明らかに異なる、あまりにも原始的で、それでいて力強い骨格的特徴。


「ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)……」


およそ40万年前に現れ、氷河期の過酷な環境を生き抜きながらも、約4万年前に我々の先祖との生存競争、あるいは気候変動の波に敗れて消えたはずの、もうひとつの人類。彼が着ている古びた飼育員用のツナギが、その存在の不条理さをより一層際立たせていた。


ユウの口から、乾いた、それでいて狂気を孕んだ笑いが漏れた。彼女がこれまでの人生を賭して追い求めてきた生命の神秘も、緻密に積み上げられた分類学の体系も、この移動動物園という圧倒的な異常事態の前では、塵ほどの価値も持たない。教科書の記述はすべて嘘だったのか、あるいは彼女の立っている足場そのものが幻なのか。


「アカリ……。それは確かに、ある意味ではUMA(未確認生物)で間違いないわね。現代の教科書には、どこにも載っていないんだから。あなたの言う通りだわ、本当に、珍しくもなんともないのかもしれない」


ユウは震える手で、もはや狂気すら感じるその移動動物園のチラシが、写真の背景に写り込んでいないか、狂ったように画面の拡大と縮小を繰り返した。爪がスマートフォンのガラス面を引っ掻く、耳障りな音が静かな室内に響く。彼女の瞳には、かつて見たこともないほどの焦燥と、ある種の恍惚が混じり合っていた。


この世界が、自分の知っている、論理と証拠に基づいた世界と同じ地平にあるのかすら、ユウにはもう確信が持てなかった。彼女はふらふらとした足取りで立ち上がると、研究室の棚に並んだ分厚い専門書を一瞥した。それらは今や、存在しない世界の古い地図のように見えた。

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