前編2
あの奇妙な騒動から、数ヶ月の月日が流れた。季節は巡り、研究室の窓から見える並木道は、鮮やかな緑からどこか物悲しい褐色へと装いを変えていた。ユウは、あの日目撃したタスマニアタイガーの画像を、自身の記憶の最奥にある、現実味のない引き出しへとしまい込んでいた。結局、アカリが教えてくれた住所に「オバチャンの家」を見つけることはできなかったのだ。地図を片手に歩き回った住宅街は、どこにでもある静かな景色のままで、不気味な動物の気配など微塵もなかった。彼女はそれを「高度なディープフェイクに騙されただけ」という、科学者として最も手離れのいい結論で片付けることにした。最近、研究にかかりきりで連絡を疎かにしていた自分に対し、アカリなりの、少し手の込んだ「構ってほしい」というアピールだったのだろう。そう考えることで、ユウは辛うじて自らの世界の境界線を修復していた。
午後の気怠い陽光が、埃の積もった専門書の背表紙を照らす中、再びデスクの上でスマートフォンが震えた。規則的な振動が、机の硬い表面を叩く音が響く。ユウは溜まっていたメールの返信を打つ手を止め、深い溜息と共に画面を覗き込んだ。
「さわれる移動動物園に行ってきたよ。ダチョウって、思ったよりでっかいね。体高3メートルだって。連れてきたオッチャンによると、シギダチョウの仲間だけど、種類はわかんないらしい」
ユウは肺の中の空気をすべて吐き出すように大きく息を吐き、冷静さを取り戻そうと、努めて無機質に指を動かした。また始まったか、という諦念に近い感情が、彼女の眉間に深い皺を刻む。アカリの言う「オッチャン」の話は、いつもどこか現実離れしている。彼女は自身の知識を総動員し、混乱した情報の糸を解きほぐすように返信を打ち込んだ。
「ダチョウは確かに非常に大きな鳥で、体高は2メートル以上、中には3メートル近くになる個体も報告されているわね。数字としてはあり得ないわけじゃないわ」
専門家として、まずは認められるべき事実を整理して述べる。そして、アカリが送ってきた「シギダチョウの仲間」という、生物学者から見ればあまりに奇妙で、しかし妙に具体的な、しかし分類学的には矛盾した言葉に、明確な訂正を入れることにした。
「でも、アカリ、ダチョウはシギダチョウの仲間ではないわよ。ダチョウは古顎類という飛べない大きな鳥のグループ。対してシギダチョウは主に南米に住む飛べる鳥で、大きさもずっと小さいの。ダチョウの種類は基本的には一種だけだし、その動物園のオッチャンは、客を喜ばせるために話を盛りすぎたんじゃないかしら?」
スマートフォンをデスクに置き、彼女は背もたれに体を預けた。これで納得するだろう。そう思っていたが、直後に届いた返信は、ユウの予想を遥かに超える、具体的な「根拠」を伴っていた。
「オッチャンに、シギダチョウはもっと小さいらしいよって教えたら、何度もDNA鑑定したけど、シギダチョウ近縁種の雑種ではない何かって出てるから間違い無いんだって。鑑定書もあったよ。この茶色いの、なんていう鳥か種類を教えて!」
そのメッセージの末尾に添付された写真を開いた瞬間、ユウは心臓を冷たい手で掴まれたような感覚に襲われた。あまりの衝撃に、座っていた椅子が大きな音を立てて後退し、彼女は崩れ落ちそうになる膝を必死に抑えた。画面の中、快晴の空の下で、アカリの頭を優に超える高さに背中がある巨大な鳥が立っていた。それはダチョウのような長い首を持っていたが、決定的な違和感があった。翼が、退化した形跡すらなく、完全に消失しているのだ。その巨体は、重厚な茶色の羽毛に覆われ、恐竜を彷彿とさせる太い脚が地面を踏みしめている。アカリはその脚にまとわりつく剛毛のような羽毛を、まるで見慣れた犬の毛でも撫でるかのように、無造作に触っていた。
「……モア。嘘でしょ……」
ユウの唇から、震える声が漏れた。モア。かつてニュージーランドの生態系の頂点に君臨し、14世紀頃にマオリ族の狩猟などによって絶滅したはずの伝説の巨鳥。しかし、それ以上にユウを戦慄させたのは、その鑑定書の話だった。近年の分子生物学におけるDNA解析の定説では、モアに最も近い現生種は、驚くべきことにダチョウではなくシギダチョウであるとされている。アカリの言う「移動動物園の主」は、一般人が知り得るはずのないその学術的事実を、あろうことか鑑定書付きで証明しているというのだ。
「隣のちっちゃい子がモア!って言ってるし、そうなのかもね」
画面の中のアカリは、自分の肩に乗らんばかりの鳥の大きさに微塵も臆することなく、のほほんとした顔でメッセージを送ってくる。ユウはあまりの情報の密度に、軽い眩暈を覚えた。これは世界的な大発見どころの騒ぎではない。生物学の歴史が、根底から書き換わる事態だ。だが、常識の壁はまだ彼女の中で踏みとどまっていた。場末の、行き先も不明な移動動物園に、そんな太古の遺産がいるはずがない。きっと、最新の技術を駆使して作られた、精巧なアニマトロニクスか何かに違いない。そう、あれは機械なのだ。自分に言い聞かせるように、必死で合理的な解釈を脳に叩き込むユウに、追い打ちをかけるような追撃が届く。
「移動動物園、ウサギもかわいいね。でもなんか形が変。耳は短いし、後ろ足もシッポも長い。体も50センチあるし。オッチャンの話によると、爺さんがオーストラリア南東の業者から買った時にウサギだって聞いたから間違いないらしいよ。見た目ワラビーなのにね」
耳の奥で脈打つ鼓動を抑え込み、ユウは麻痺したような指先で、事務的な、あまりに事務的な返信を打った。
「その身体的特徴を聞く限り、それは間違いなくワラビーの仲間ね。悪質な業者の詐欺か、あるいは単に見た目が似ているからという理由で、ワラビーをウサギとして販売した可能性があるわ。騙されないように注意して」
そうだ、世の中には利益のために手段を選ばない悪い人間もいる。珍しい動物に希少な名前をつけて高く売りつけることなど、枚挙にいとまがない。しかし、直後に届いた一枚の画像が、ユウの心に残っていた僅かな、そして最後の希望を無残に粉砕した。
「買った時の領収書見せてもらったら、確かにウサギワラビー(Lagorchestes leporides)って書いてあったよ!これ、やっぱりワラビーだったね」
そこには、柔らかな灰色の毛並みを持ち、確かにワラビーのような逞しい後ろ脚と、どことなくウサギを思わせる愛嬌のある顔立ちをした小動物が写っていた。それはアカリの腕の中で、完全にリラックスし、デロンと脱力した状態で抱きかかえられている。そのあまりに無防備な生命の温もりが、画面越しに伝わってくるようだった。
ユウの周りの空気が、一瞬にして氷点下まで凍りついた。視界が白く霞み、呼吸が浅くなる。ウサギワラビー。それは、19世紀末に最後の個体が確認されて以来、地球上のあらゆるフィールドワークから姿を消し、絶滅したと結論付けられたはずの有袋類だ。
剥製や古いセピア色のスケッチ、あるいは博物館の静かな展示室でしか存在を許されないはずの生き物たちが、アカリの行く先々で「ちょっと変わったペット」や「移動動物園の珍客」として、あまりにも当たり前に息づいている。この不条理を、一体どう説明すればいいのか。
ユウは震える手で、逃げるようにスマートフォンの電源を切った。暗転した漆黒の画面には、驚愕と恐怖で青ざめた、自分の顔が凝視するように映り込んでいた。窓の外では、先ほどまでと変わらない、退屈で穏やかな秋の午後の景色が広がっている。しかし、その景色さえもが、今や自分を欺いているのではないかという疑念が、彼女の心に黒いシミのように広がっていった。
「……アカリ、あなた、一体どこにいるの?」
その問いかけは、静かな研究室の中に虚しく響き、答える者は誰もいなかった。ユウは白衣の袖を強く握りしめ、自分を取り囲む「日常」という名の壁が、音を立てて崩れていくのを、ただじっと見つめていることしかできなかった。




