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方舟の休日  作者: 渡瀬ユウ
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前編1

午後の陽光が、埃の舞う研究室に斜めの線を引いていた。ひんやりとした静寂の中で、微かに聞こえるのは遠い廊下を歩く誰かの足音と、古いインキュベーターが吐き出す低く単調な稼働音だけだ。双海ユウは、使い古された研究室のデスクで背を丸め、接眼レンズの向こう側にある微視的な世界に没入していた。スライドガラスの上で固定された細胞の断片は、彼女にとっての唯一の現実であり、秩序そのものだった。しかし、その静謐を破るように、手元に置かれたスマートフォンが短く、鋭い通知音を響かせた。ユウは集中を削がれたことにわずかな溜息をつき、ピンを合わせたばかりの顕微鏡から目を離した。青白い液晶画面に浮かび上がっていたのは、遠方に住む姪のアカリからの、いつものように脈絡のないメッセージだった。


「UMAが出たというので、見に行ったらただのエクウス・フェルス・フェルス。UMAじゃなくてウマじゃん。珍しくもないね?」


ユウは乾いた唇の端を少しだけ上げ、自嘲気味な苦笑を漏らした。キーボードを叩こうとしていた指先を止め、強張った肩をゆっくりと回す。姪の言葉遊びは相変わらずで、その天真爛漫な勘違いに、学究的な日常に凝り固まった脳がわずかに解きほぐされるのを感じた。彼女は画面を指でなぞり、専門家としての、あるいは叔母としての慈しみを含んだ返信を打ち込んだ。


「エクウス……は、学名で馬のことよね。UMA(未確認生物)を期待して見に行ったのに、ただの馬だったとなると、がっかりしたんじゃない?」


UMAという未知への憧憬と、どこにでもいる「ウマ」という現実。そのあまりにも安直で、しかし微笑ましいダジャレのような状況を想像し、ユウは窓の外に広がる退屈なキャンパスの景色に目をやった。彼女は内心で、そんな期待外れな休日を過ごした姪に対して、災難だったわね、という小さな同情を付け加えた。しかし、数秒後に画面を震わせた返信の内容は、彼女の専門家としての理性を、真冬の氷水に浸したかのように一瞬でフリーズさせた。


「だよねー、Equus ferus ferus、通称ターパンなんて競馬場に行けばいっぱい走ってるもんね!」


ユウの視線が、文字通り釘付けになった。瞬きを忘れた瞳が、スマートフォンの画面を何度も往復する。自分の読み間違いであってほしいという願いは、鮮明なフォントによって無慈悲に打ち砕かれた。彼女は震える喉から、掠れた独り言を漏らした。


「ちょっと待ちなさい」


彼女の指先は、先ほどまでの穏やかさを失い、猛烈な勢いでスマートフォンのガラス面を叩き始めた。脳裏には、大学の講義で教えた教科書の記述が、鮮明な図表と共に浮かび上がっていた。ターパン。それはかつてユーラシア大陸の広大な草原を自由奔放に駆けていた、野生の馬の原種に近い亜種である。しかし、執拗な乱獲と生息地の急速な喪失という悲劇的な歴史を辿り、19世紀末から20世紀初頭にかけて、この地上から完全に絶滅したはずの存在だった。人類が最後にその姿を確認したのは、もう100年以上も前の話なのだ。ユウは額に滲む冷や汗を拭うこともせず、必死に訂正の文案を練り上げた。


「アカリ、競馬場を走っているのは正確にはカバルス(Equus ferus caballus)であって、フェルス・フェルス(ターパン)ではありません。ターパンは100年以上前に絶滅しているから、現代の自然界には存在しないはずよ」


打ち込みながら、ユウは自分の論理を必死に守ろうとしていた。どこかの興行主が客寄せのために嘘の学名を掲げたのか、あるいはアカリが単純に、家畜馬の学名の一部を記憶違いしているだけなのだろう。生物学者としての積み上げてきた常識が、ありえない可能性を即座に排除し、世界を元の形に押し戻そうとする。しかし、アカリから返ってきた返信は、ユウの構築した防壁をあまりにもあっけなく踏み越える、拍子抜けするほど軽快なものだった。


「なんだ、そんなことか。じゃあ、お隣の家で飼ってるお腹に子育ての袋がついてる、腰に縞模様があるワンコも、たぶん柴犬か何かの雑種だね」


その文字列を目にした瞬間、ユウの背筋に、針でなぞられたような冷たい戦慄が走った。心臓の鼓動が急激に速まり、耳の奥でドクドクという拍動がうるさく鳴り響く。


「飼い主のオバチャンはティラキヌス・キノケファルス(Thylacinus cynocephalus)って珍しい犬種だって言ってたけど」


文字に続いて、通知音が跳ねた。一枚の画像がダウンロードされ、画面いっぱいに表示される。それを見た瞬間、ユウは支えを失ったかのように椅子から転げ落ちそうになった。膝が震え、デスクに手をついて辛うじて姿勢を保つ。液晶に映し出されていたのは、彼女が長年の研究生活で幾度となく文献や剥製で確認してきた、あの奇妙で美しい生物の姿だった。


学名、ティラキヌス・キノケファルス。別名、タスマニアタイガー。


1936年、ホバート動物園で最後の一頭が孤独に死を迎え、地球上からその系統が永久に途絶えたことが確定したはずの、悲運の有袋類。画面の中に写り込んでいたのは、合成写真の不自然さなど微塵も感じさせない、紛れもない生命の重みを持った個体だった。黄褐色の毛並みの背に並ぶ、漆黒の独特な縞模様。そして柴犬とは根本から骨格が異なる、耳まで届くほど大きく裂けた不気味な口元。その生き物は、どこにでもある民家の軒先で、退屈そうに目を細めていた。


「……嘘でしょ、そんなこと」


ユウは震えが止まらない指を動かし、その「雑種犬」が映った写真を最大まで拡大した。毛の一本一本、湿った鼻先の質感、そして地面に落とされた影の角度まで、彼女の鋭い観察眼が真実性を求めて精査を繰り返す。もし、もしこれが偽物でないとするならば、生物学がこれまで積み上げてきた全ての歴史が、いや、彼女が立脚している世界の前提そのものが根底からひっくり返ってしまう。混乱の中で、彼女を動かしたのは純粋な知的好奇心と、それを上回るほどの、ある種の危機感だった。


「アカリ、今すぐそこへ行くわ。その『お隣のオバチャン』に、お茶菓子を持って挨拶に行かなきゃならないから」


ユウは震える手でスマートフォンの電源をポケットにねじ込むと、椅子の背にかけられていた白衣をひっ掴むようにして手に取った。ボタンを留めることさえ忘れ、研究室の重い扉を蹴破らんばかりの勢いで飛び出した。廊下を走る彼女の頭の中では、絶滅したはずの、図鑑の向こう側に封じ込められた動物たちが、まるで近所の野良猫のように当たり前に、そして穏やかに存在する光景が、現実味を帯びて回り始めていた。



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