第一話 アカリ
灰色の森は、朝になっても明るくならなかった。
夜の底がそのまま薄く伸びて、木々のあいだに貼りついているようだった。頭上を覆う枝葉は陽光を細かく刻んで散らし、地面に届く頃には、光は色を失った灰の筋に変わっている。湿り気を帯びた冷気が肌をなで、その奥にごくかすかなざらつきが混じっていた。それがこの土地に満ちる魔素の、ほとんど感覚にひっかからないかすかな痕跡だった。
小さな焚き火の跡が、地面に黒い輪を描いている。灰を崩すと、まだほの温かさが残っていた。アカリはしゃがみこみ、両手で湿った土を掬っては灰にかぶせてゆく。灰と土を混ぜ、靴底でしっかり踏み固める。
火の始末は、どの世界でも怠ってはいけないことだ――と、彼女は前の世界を思い出しかけてから、すぐにその思考を振り払った。
立ち上がると、そばに置いていた書物に左腕を差し入れた。大きな革表紙の書だ。両腕で抱えなければ安定しないほどの大きさで、厚みもある。装丁には金糸の文様が走り、背には古い文字が刻まれている。見た目は立派だが、魔導師にとってはごく標準的な魔導書の一つにすぎないという。
それでも、重さは紛れもなく彼女の腕を沈ませた。
魔導書はただの記録ではない。術式を刻んだ頁に自分の魔素を流し込み、身体から書へ、書から術式へと回路を繋ぐための器官の一部でもある。魔法を行使するには、術式が目に入り、なおかつ身体のどこかがこの書に触れていなければならない。手でも、腕でも、肩でもいい。だが触れていないと、魔素は書へと流れ込まない。
アカリは革表紙にそっと指先を当てた。そこから、ごく微かな違和感が伝わってくる。冷たいような、温かいような、どちらともつかない感触。
(……やっぱり、ちょっと変な気がする)
同じ形の魔導書を、他の魔導師も抱えているはずだ。それなのに、自分のだけがどこか異物めいて感じられる。その理由を、アカリはうまく言葉にできなかった。
気配に気づいて顔を上げると、木々のあいだから影が現れた。
「起きてたか」
灰色の毛並みを持つ猫獣人が、音もなく近づいてくる。ロイだ。長い耳がわずかに動き、金色の瞳が焚き火跡とアカリを順に見やる。
「火の始末は?」
「ちゃんとやったよ。埋めたし、踏んだし」
アカリが答えると、ロイは焚き火跡に視線を落とし、短く顎を引いた。合格、という無言の印だった。
アカリは右手を伸ばし、地面に立てかけてあった杖を取った。自分の背に近い長さの木杖で、樹皮の名残がところどころに残っている。飾りらしい飾りはないが、魔素を通すための加工だけは施されている。初心者の魔導師がよく使う、最も素朴な杖だ。旅のあいだの歩みを支える棒としても役に立つ。
熟練した魔導師の中には、手のひらに収まる細工杖や、指輪ほどの小さな魔導具で魔法を放つ者もいると聞いている。だが、小さくなるほど制御が難しく、魔素の流れも繊細になるらしい。アカリには、まだとても手が届きそうにない世界の話だ。
「杖、先の方、昨日ぶつけてただろう」
ロイが杖の先を顎で示す。
「あ……うん。転んだ拍子に石に当てちゃって。でも、ちょっと欠けたぐらいだから。魔法は……出る、はず」
「“はず”って言葉は好きじゃないな」
ロイは鼻を鳴らした。
「魔導師の杖は命の次ぐらいに大事にしろ。木にぶつけて折れるようなら、森で命を落とす」
「気をつけてるつもりなんだけどさ、この長さ、どうしても枝とか根っことかに引っかかるんだよ」
「それが今のお前の腕前ってことだ」
彼はそれ以上は言わず、森の方へ顔を向けた。灰色の毛の尾が小さく揺れる。
「行くぞ。森が動き始める前にな」
「うん」
左腕に魔導書、右手に杖。アカリは肩にかかる重みを感じながら、ロイの後を追った。
森の境界に近づくほど、空気の匂いが変わっていく。湿り気の濃さが増し、土と腐葉土の匂いの奥から、さらに別の何かが立ちのぼってくる。それは煙でも霧でもない、目には見えない粒子の気配――魔素の匂いだと、この世界で学んだ。
一歩、境界を跨ぐ。
途端に、肺に入る空気がわずかに重くなった。皮膚の表面を細い針で撫でられたような感覚が走り、すぐに消える。
「浅部とはいえ、油断するなよ」
ロイが言った。
「わかってるって。ロイ、十回ぐらい言ってる」
「十回言って足りない奴に言ってる」
「それ私のこと?」
「他に誰がいる」
アカリは苦笑して、杖の先で足元を探りながら進んだ。落ち葉に隠れた根や石に躓けば、そのまま怪我になりかねない。左腕の魔導書の重さが、体のバランスを微妙に崩しもする。
森の中は外よりさらに薄暗かった。幹はまっすぐに伸びきらず、どこかねじれている。枝の茂り方も偏っており、片側だけ異様に葉が集中していたり、反対側はほとんど裸同然だったりする。生きてはいるが、全体の均衡がどこかで歪んでいる。
魔素の濃い場所では、木々も獣も少しずつ形を変えていくという。魔物が生まれるのも、その一端にすぎない。
「……魔素って、やっぱり変な感じだよね」
アカリがぽつりと言うと、前を行くロイの片耳がこちらを向いた。
「慣れないうちはあまり深く吸い込むな。人間は特に、酔ったみたいになる」
「うん」
浅く息を整えながら、アカリは左腕に抱えた魔導書へと意識を向けた。表紙に触れている皮膚の上を、ごく微かな流れが撫でていくような感覚がある。
魔法を使うとき、自分の内にある魔素を、身体から魔導書へと通し、術式へと導く。その流れがうまく繋がれば、杖の先から魔力が形を取って現れる。理屈だけなら、魔導書に刻まれた図と文字が教えてくれる通りだ。
けれど、実際にやろうとすると、どこかで引っかかる。
(今日こそ……)
胸の内で呟いた言葉は、自分自身の鼓舞に近かった。魔法がある世界なのだから、魔法を使えるようになりたい。それは憧れでもあり、生きるための術でもある。ここでは、魔法はおとぎ話ではないのだから。
しばらく進むと、樹々の間隔がわずかに広くなった。頭上の葉の幕が薄くなり、光が細い筋になって地上に落ちている。苔と低い草が地面を覆い、どこかで水が滴る音も聞こえた。
「この辺りだな」
ロイが足を止め、周囲を見回した。
「灰露草は、こういう場所が好きだ。湿っていて、少しだけ光が差す所だ」
「灰露草……細長い葉で、縁が白っぽくて、朝露がつきやすくて――だよね」
「覚えがいいじゃないか。間違えて毒草を折るなよ」
「それはやだな……」
アカリは腰を落とし、目の高さを地面に近づけた。緑の葉の群れの中に、形の違うものが紛れていないか目を凝らす。しばらくすると、他の草よりも少し細身で、葉の縁がかすかに白く光を返すものを見つけた。
「あ、あった。たぶん、これ」
指先でそっと葉を挟み、根を残すように折り取る。折れた部分から冷たい水分が指に伝わってきた。掌に乗せると、たしかに朝露のように光を帯びている。
ひと束集めれば、銀貨に換わる。銀貨は宿代にも食事にも変わる。アカリにとって、それはすこし先の安全な夜と、温かい食べ物の姿そのものだった。
そのとき、耳の奥を刺すような音がした。
ぱき、と乾いた枝の折れる音。
森の奥では珍しくない音だ。だが今のは、近すぎた。
アカリは自然と顔を上げた。音のした方に視線を向け――息を呑む。
低い茂みの陰で、目が光っていた。
ウサギに似た体つき。だが、黒く濁った瞳の縁に赤みが差し、額からは歪んだ一本角が生えている。毛並みはところどころ逆立ち、痩せているのに筋肉の筋だけが不自然に浮き上がっている。
魔素の濃い土地で、獣が変じたもの――小型の魔獣。
「アカリ」
背後からロイの声が落ちた。鋭く、短く。
アカリは返事をする間もなく、ウサギ型の魔獣が跳んだ。
湿った草が跳ね上がる。距離は一息。目にも留まらぬ、というほど大げさではないが、見てから避けるには足りない速さだった。
アカリの身体は、ほとんど反射で動いていた。左腕の魔導書を胸元へ引き寄せ、右手の杖を前に構える。書の革表紙が腕の内側に触れた。
親指で留め金を外し、わずかな隙間から術式の刻まれた頁を覗き見る。そこには、簡易の防御術が記されている。流れを邪魔し、衝撃を逸らす、単純な術だ。
(繋げ――)
アカリは自身の内にある魔素を意識し、それを腕から魔導書へと流し込もうとした。身体から書へ、書から術式へ、そこから杖へ――頭の中では、何度も練習した通りの筋道をなぞる。
魔導書の頁が淡く光を帯びかける。杖の先にも微かな明かりが宿る。
そこで、流れが止まった。
何か硬いものにぶつかったように、魔素の流れがそこでよじれた。頁の光が濁り、術式の線が軋む。回路が閉じない。魔素が書へ入ることを拒まれている――そんな感覚が一瞬だけ走り、そのまま霧が晴れるように消えていった。
「え――」
声にならない声が喉に貼りついた。杖の先は沈黙し、魔法は形にならない。
歯を剥き出しにして迫る魔獣の目が大きく見開かれ、その瞳の中に自分の姿が小さく映る。
その視界の前に、灰色の影が滑り込んだ。
ロイの体が、地を蹴って飛び出した。猫獣人特有の低い姿勢で、無駄のない動き。片腕が自然に腰へ伸び、短剣が鞘から抜かれる。金属が空気を裂くような音が、一瞬だけ耳に触れた。
一太刀。
刃が走り、魔獣の喉元から赤いものが噴き出す。勢いのまま地面に転がった体が、土と落ち葉を巻き上げ、すぐに動かなくなった。
ロイは息を荒げることもなく、血に濡れた刃を草で拭い、そのまま短剣を鞘に戻した。動作の一つひとつが、寒々しいほど簡潔だった。
「怪我は」
振り返った彼の瞳が、アカリを射抜く。アカリは、まだ中腰で、灰露草の葉を握りしめたまま固まっていた。
「……だ、大丈夫。たぶん」
「たぶんじゃ足りない」
ロイは一歩近づき、視線で彼女の腕と脚をなぞる。噛み跡も、引っかき傷も見えない。そこでようやく、彼の肩からわずかな力が抜けた。
「魔導書には触れていたな」
「う、うん。腕、当たってたし。杖もちゃんと持ってた……」
「術式も見えていた」
「見えてた。条件は……全部、揃ってるはずだったのに」
「なのに、流れなかった」
ロイは短く言った。その声には責める色はなかった。ただ事実を確認しているだけの響きだった。
「魔素の流れが曲がる奴はいる。身体の癖ってやつだ。だが、今のは……」
言いかけて、彼は口をつぐむ。視線だけが一瞬、アカリの左腕に抱かれた魔導書へと落ちた。
「本の方に、何か癖があるのかもしれん」
「本に、癖?」
アカリは思わず聞き返した。
魔導書の革表紙を指でなぞる。触れた瞬間、ほんのわずかに、何かが指先から逆流してくるような感覚があった。ずっと前から感じていたものだ。それをずっと「気のせいだ」と心の隅に追いやっていた。
(……気のせい、じゃないのかな)
胸の奥が、落ち着かない。
「今は考えるな」
ロイが言った。
「生き残った。それでいい。術の話は森を出てからだ。ここで立ち止まるのは良くない」
「……うん」
アカリは深く息を吸い込み、震えかけた膝に力を込めて立ち上がった。握りしめていた灰露草を拾い直し、乱れた呼吸を整える。
魔獣の死体は、ロイが片足で軽く転がして傷の入り方を確かめていた。
「痩せてるな。食い物が足りなくて、浅いところまで出てきたんだろう」
独り言のように呟き、彼は周囲を一度見渡す。
「この辺りも、あまり長居はしない方がいい。さっさと必要な分だけ採って戻るぞ」
「うん」
アカリは小さく頷き、再び地面に視線を落として灰露草を探し始めた。さっきまでの手つきよりも硬く、慎重になっている。指先には、さっき魔導書を通ろうとして通らなかった魔素の感触が、まだ薄く残っていた。
(怖かった。でも――)
左腕に抱く魔導書の革を、親指でそっと擦る。
(それでも、魔法はちゃんと使えるようになりたい。
この世界に魔法があって、私がここで生きていくなら……避けて通れない)
必要な束を集め終える頃には、東の空の光が少しずつ強くなり始めていた。森の中ではまだそれを実感しづらいが、空気の温度がわずかに変わっている。
「このくらいで十分だろう」
ロイが言った。
「陽が高くなる前に森を出る」
「了解。今日の宿代ぐらいにはなるかな」
「贅沢をしなければな」
「贅沢なんて怖くてできないよ。まだ」
アカリは灰露草を布袋に入れ、口を固く縛った。袋の重みは、銀貨数枚分の重さに変わる。冒険者にとって、それは何日か先の安全と同義だ。
森を抜ける道を戻りながら、アカリはぽつりと言った。
「……魔法、ちゃんと使えるようになりたいな」
「さっきも言ってたな」
「だって、せっかく魔法がある世界なんだよ? 使えないまま終わるの、もったいないじゃん。
それに、使えたら……もうちょっと自分に自信持てる気がするし」
言ってから、自分でも少し子どもじみていると思った。それでも、口から出た言葉は本心だった。
ロイは前を向いたまま答える。
「剣もそうだし、弓もそうだ。使えるなら使えた方がいい。それだけの話だ」
「ロイはなんか、なんでもできそうに見えるからずるい」
「買いかぶるな」
短く切り捨てる声。その奥に、かすかな陰のようなものが潜むのをアカリは感じたが、踏み込まなかった。
ロイがどこから来たのか、どんな過去を持つのか。アカリはほとんど知らない。聞いたこともない。ロイもまた、アカリがこの世界に来る前にどんな場所で生きていたのかを問おうとしない。
互いに、自分から話さないことは聞かない。
言葉にしないその取り決めが、二人のあいだの距離を静かに保っていた。
木々の間隔が広がり、頭上の葉の幕が薄くなっていく。外の光が、筋ではなく面になって降り始める。灰色に沈んでいた森の色が、わずかに薄らいだ。
そのときだった。
森の奥から、低いうなりのような音が響いた。風の音とも、遠雷ともつかない。地中のどこかがゆっくりと軋んだような、鈍い響き。
アカリは気づかない。森の出口に見える光に目を細め、肩の荷を少しだけ持ち上げ直した。
ロイだけが、その音に足を止めた。耳がぴんと立ち、尾がわずかに揺れる。金色の瞳が一度だけ、森の奥の闇を振り返った。
何かがいる――そう感じた。だが、それが何なのかを言葉にするには、まだあまりにも遠く、曖昧だ。
「どうかした?」
アカリが振り向いて問うと、ロイはすぐに視線を戻した。
「いや。行くぞ」
「うん!」
アカリは笑って頷き、森の外へ歩み出る。左腕の魔導書が重く、右手の杖が土を突くたび、小さな音が続いた。
灰色の森は、静かにその背中を見送っていた。
森の奥深くで蠢くものと、この世界の魔素の流れが、二人の行く末に何をもたらすのか。まだ誰も知る由はない。
それでも、この日、灰色の森の外れから、小さな物語が確かに動き始めていた。




