3-2
第十八層「お花畑エリア」の中央部は、まさに絶景だった。
数万株の高山植物が咲き誇り、風が吹くたびに七色の波が押し寄せてくる。
ハクサンフウロの紅紫、ミヤマキンバイの黄金色、タカネナデシコの鮮やかなピンク、イワカガミの淡いピンク、ミヤマリンドウの深い青——
俺、橘蒼太はカメラのファインダーを覗きながら、この奇跡のような景色を何枚も撮っていた。
「蒼太さん、たくさん撮ってますね」
陽菜さんが微笑む。
彼女の髪には、ウインドブロッサムが飾ってくれた花々が揺れている。
風に髪がなびくたびに、花の香りが漂ってくる。
「ええ。こんな景色、二度と見られないかもしれないから」
俺は正直に答えた。
「それに——陽菜さんに、後で写真を『感じて』もらいたいんです」
「嬉しいです」
陽菜さんが頬を染める。
その表情を撮ろうとした瞬間——
彼女の表情が変わった。
「……蒼太さん」
声のトーンが低くなる。
「はい?」
「誰かいます。五人——いえ、六人」
俺の背筋が凍った。
「え?」
「風の流れが不自然です。あちらの大きな岩陰に、息を潜めている人がいます」
陽菜さんが小声で言う。
俺は慌てて指示された方向を見た。
確かに、人の背丈ほどの岩が点在している。
でも——誰の姿も見えない。
「気のせいじゃ……」
「いいえ。確実にいます」
陽菜さんが真剣な表情で言う。
「金属の擦れる音も聞こえます。武器を持ってる——」
その瞬間——
岩陰から五人の人影が飛び出した。
「動くな!」
低く威圧的な声が響いた。
◇◇◇
五人の男たちが、俺たちを囲むように立ちはだかった。
全員が探索者の装備を身につけているが——その目つきは完全に獲物を狙う獣のそれだった。
中央に立つのは、筋骨隆々の大男。
身長は190センチを超え、拳にはメリケンサックのような武器が光っている。
「装備を全部置いていけ」
男——鉄拳のグレンが冷たく言い放った。
「そうすれば、命は助けてやる」
俺の心臓が激しく鼓動する。
盗賊——
南竜山荘で聞いた噂が、現実になった。
「お、おい、待ってくれ——」
俺は必死に言葉を探す。
「話し合えば——」
「話し合い?」
グレンが嘲笑う。
「ここには俺たちしかいない。パトロールも来ない」
「お前らは運が悪かったんだよ」
別の男——痩せた体に鋭い目つきの男が、陽菜さんに近づいた。
「特にこの女——目が見えないんだろ?」
男がニヤリと笑う。
「抵抗もできねえだろうし、ラッキーだな」
俺の中で何かが切れた。
「陽菜さんから離れろ!」
俺は剣を抜いて飛び出した。
でも——
グレンの拳が、俺の剣を弾き飛ばした。
ガキン!
信じられない力。
剣が俺の手から離れ、花畑の中に転がっていく。
「おとなしくしてろ、Dランクが」
グレンが冷たく見下ろす。
「お前じゃ俺には勝てない」
痩せた男が陽菜さんの背後に回り込んだ。
そして——
ナイフを、彼女の首筋に突きつけた。
「動くな。動いたらこの女を殺すぞ」
陽菜さんの顔が青ざめる。
俺は絶望した。
(くそ……俺じゃ、こいつらには勝てない……)
(どうする……どうすれば……)
グレンが冷酷な笑みを浮かべる。
「10秒やる。装備を全部置け」
「1……2……3……」
その時——
空から、黒い影が降ってきた。
◇◇◇
それは、まるで演劇の舞台に降り立つ主役のような——圧倒的な存在感だった。
黒いロングマントが風になびき、白い仮面が陽光に輝く。
そして——
完璧な決めポーズ。
片手を天に掲げ、もう片手を横に広げる。マントが大きく翻り、まるで翼のように見える。
「闇より来たりて悪を断つ者——影のヒーロー、アストラル参上!」
その声は、芝居がかっていて——でも、確かな力強さがあった。
盗賊たちが一瞬、動きを止めた。
俺も呆然と見上げていた。
(……なんだ、この人)
グレンが最初に我に返る。
「何者だ、お前は!」
「悪を許さぬ正義の使者——それが俺だ!」
アストラルが堂々と宣言する。
でも次の瞬間——
彼が何もない空間に向かって話しかけた。
「ククル、お前は陽菜さんの近くで守ってろ」
俺は思わず首を傾げた。
(……誰に話してるんだ?)
指差した方向を見るが、何もない。
(独り言……?)
アストラルが焦ったように咳払いをする。
「い、いや! これは戦闘前の自己暗示というか……」
「気合いを入れるための儀式というか……」
俺の心の中で、小さな疑問が芽生えた。
(……この人、大丈夫か?)
でも——
盗賊たちが動いた。
「ふざけるな! 変なコスプレ野郎が!」
グレンが拳を振り上げる。
「5対1だぞ! 調子に乗るな!」
アストラルが不敵に笑う。
「数で勝って何になる! 正義は常に一人だ!」
そして——
戦いが始まった。
◇◇◇
アストラルの動きは、予想を遥かに超えていた。
グレンの拳が迫る——
でも彼は軽々と避ける。まるで風のように、攻撃の軌道を読んでいるかのように。
「遅いな」
アストラルが冷静に言う。
「【漆黒の審判】!」
彼の手から、黒い弾丸が放たれた。
闇の塊が盗賊の一人——斧を持った大男の腹部に直撃する。
ドガン!
男が吹き飛ばされ、花畑に倒れ込んだ。
「な、何だこいつ……!」
別の盗賊——弓使いの男が矢を放つ。
でも——
アストラルが手を掲げた瞬間、眩い光が爆発した。
「【神々の光眼】!」
弓使いがうめき声を上げて目を覆う。
「目が……! 何も見えねえ!」
その隙に、アストラルは素早く弓を引く構えを取った。
いや、弓ではない。
光の弓が、彼の手に現れた。
「【神の裁きの矢】!」
眩い光の矢が次々と放たれ、盗賊たちの武器と衣服を正確に貫いていく。
矢は地面に深く突き刺さり、盗賊たちの服を地面に縫い付けて動けなくする。
「な、何だこれ!?」
「体が……動かねえ!」
盗賊たちは無傷だが、完全に行動の自由を奪われた。
俺は言葉を失った。
(すごい……本物だ……)
(この人、本当にヒーローなんだ……)
◇◇◇
でも——不思議なことが起きていた。
陽菜さんを人質に取っていた痩せた男が、突然転んだ。
「うわっ!」
まるで何かに足を引っかけられたかのように。
でも——花畑には何もない。
(……何が起きた?)
別の盗賊——短剣使いの男が陽菜さんに向かって走り出した。
俺は叫ぼうとして——
でも、その男の剣が突然、手から離れて宙を舞った。
「な、何だ!?」
男が驚愕する。
まるで見えない何かが、剣を奪ったかのように——
アストラルが何もない空間に向かって親指を立てた。
「ナイス、ククル!」
(……やっぱり、誰かいるのか?)
俺は混乱していた。
でも——今はそれどころじゃない。
グレンが怒りで顔を真っ赤にしている。
「くそっ! なめやがって!」
彼が全力で拳を振るう。
その拳には、赤い魔力が纏わりついている。必殺技——
でも——
アストラルは冷静だった。
「【終焉棺】!」
グレンの周囲に、突然黒い棺が出現した。
まるで地獄から召喚されたかのような、禍々しい棺。
それがグレンを完全に包み込み——
内側から、無数の杭が打ち込まれる。
「ぐあああああっ!」
グレンの悲鳴が響く。
棺が消えると、彼は花畑に倒れ伏していた。
意識はあるが——もう戦う力は残っていない。
◇◇◇
五人の盗賊は、全員が無力化された。
戦闘時間——わずか三分。
圧倒的な力の差だった。
アストラルがマントを翻して、俺たちの方を向く。
「大丈夫か? 怪我はないか?」
「あ、はい……ありがとうございます」
俺は慌てて礼を言った。
陽菜さんも、少し震えながら頷く。
「助けていただいて……本当にありがとうございます」
「当然のことをしたまでだ」
アストラルが格好つけて言う。
でも——
陽菜さんが不思議そうに首を傾げた。
「……あの」
「はい?」
「アストラルさんの隣に、誰かいませんか?」
その言葉に、アストラルが明らかに驚いた。
「え!? 見えるんですか!?」
「見えはしません。でも……」
陽菜さんが何もない空間を見つめる。
その視線は、確かに「何か」を捉えているかのように——
「風の流れが不自然なんです。そこに誰かいるような……」
「それに——」
陽菜さんが微笑む。
「優しい気配を感じます。女の子……かな」
俺は驚愕した。
(本当に、誰かいるのか……?)
アストラルが感動したように言う。
「すごい……本当に感じ取れるんですね」
「はい。ワイヤーフレームには映らないけれど——確かに、そこにいます」
陽菜さんが何もない空間に向かって、丁寧にお辞儀をした。
「その子も、私たちを守ってくれたんですね」
「ありがとう」
その瞬間——
俺には見えなかったけれど——
確かに、何かが起きた。
風が優しく吹き、花びらが一斉に舞い上がる。
まるで——
見えない誰かが、喜んで飛び跳ねているかのように。
アストラルが小声で呟いた。
「ククル……泣くなよ……」
そして——彼が空中を見つめて、優しく微笑んだ。
「良かったな。陽菜さんに、ちゃんと感謝してもらえて」
俺は——
確信した。
この人は、本当に誰かと一緒にいるんだ。
俺には見えない、でも確かに存在する誰かと——
◇◇◇
アストラルが腰に下げていた小さな鈴を取り出した。
それを強く振ると——甲高い音が響いた。
「パトロール探索者への緊急召喚だ。すぐに来る」
「あの……本当にありがとうございました」
俺は改めて頭を下げた。
「俺じゃ、全然歯が立たなくて……」
「気にするな」
アストラルが肩を叩く。
「お前は、陽菜さんを守ろうとした。それだけで十分だ」
「でも——」
「勇気は、強さじゃない」
彼が真剣な表情で言う。
「大切な人を守ろうとする心——それが本当の強さだ」
その言葉に、俺の胸が熱くなった。
陽菜さんが小さく呟く。
「アストラルさん……本当にヒーローなんですね」
「ふっ、まあな」
アストラルが照れたように笑う。
その姿は——
中二病のコスプレをした変な人じゃなかった。
本物の、正義のヒーローだった。
◇◇◇
数分後、パトロール探索者が二人駆けつけてきた。
「何があった!?」
Cランクのバッジをつけた男性探索者が、倒れている盗賊たちを見て驚愕する。
「盗賊です。この五人が、俺たちを襲いました」
俺が説明する。
「それを、アストラルさんが助けてくれて——」
パトロール探索者がアストラルを見て、目を見開いた。
「あ、あなたは……影のヒーロー!?」
「ああ」
アストラルが頷く。
「この五人は『鉄拳のグレン』一味だな?」
「え、ご存知なんですか?」
「ああ。東京のダンジョンでも悪事を働いていた連中だ」
アストラルが冷たく言う。
「ついに白山まで来たか……厄介な奴らだ」
パトロール探索者が感謝の言葉を述べる。
「助かりました。この一週間、ずっと追っていたんです」
「でも広いエリアで、なかなか捕まえられなくて……」
「今日は俺がたまたま近くにいただけだ」
アストラルがマントを翻す。
そして——俺たちの方を向いた。
「じゃあな、二人とも」
「あ、待ってください!」
俺は慌てて呼び止めた。
「名前を……お名前を教えてください」
アストラルが少し考えてから——
「不気味な魔術師、アストラル」
「それ以上は、秘密だ」
そう言って、彼はマントを翻して——
花畑の向こうへと消えていった。
風が吹き、花びらが舞う。
その中を——
黒いマントが翻りながら、遠ざかっていく。
「……カッコよかったですね」
陽菜さんが微笑む。
「ええ。本物のヒーローでした」
俺も頷いた。
そして——
心の中で思った。
(いつか、俺もあんな風に——)
(誰かを守れる、強い人間になりたい)
◇◇◇
パトロール探索者に事情を説明し終えた後、俺たちは再び歩き始めようとした。
盗賊たちは拘束され、別のパトロール隊が引き取りに来るという。
「じゃあな、二人とも。気をつけて」
アストラルがマントを翻して去ろうとした——その時。
突然、彼が何もない空間に向かって呆れたような声を出した。
「え? ちょ、ククル、何言って——」
俺と陽菜さんは顔を見合わせた。
アストラルが空中の「誰か」と口論しているように見える。
「いや、でも俺たちには用事が——」
「……」
「だって、また盗賊が出るかもって……それは確かにそうだけど」
「……」
「面白そうって……お前なあ」
彼が深くため息をついた。
そして——俺たちの方を向いた。
「あの……二人とも」
「はい?」
「もしよければ、だが——」
アストラルが少し照れくさそうに言う。
「山頂まで……いや、第二十五層くらいまで、護衛させてもらえないか?」
俺は驚いた。
「え? でも、アストラルさんにはお忙しいんじゃ……」
「いや、その……」
彼が何もない空間を一瞬見て、それから続けた。
「また盗賊が出るかもしれない。さっきみたいな危険が、この先にもあるかもしれないんだ」
「それに——」
アストラルが真剣な表情になる。
「俺は影のヒーローだ。困っている人を最後まで見届けるのが、俺の役目だからな」
陽菜さんが少し遠慮がちに言う。
「でも……私たちのペースは遅いですし、ご迷惑では……」
「迷惑なんかじゃない」
アストラルがきっぱりと言った。
「むしろ——」
彼が少し声のトーンを変えて、優しく続ける。
「二人の旅を、最後まで見届けたくなったんだ」
その言葉に、俺の胸が熱くなった。
「……ありがとうございます」
俺は深く頭を下げた。
「本当に、心強いです」
「じゃあ、決まりだな」
アストラルがマントを翻す。
そして——何もない空間に向かって小声で呟いた。
「ほら、ククル。お前の言う通りになったぞ」
風が優しく吹き、花びらが舞い上がった。
まるで——
見えない誰かが、嬉しそうに飛び跳ねているかのように。
「じゃあ、行くか。山頂を目指して」
アストラルが前を歩き出す。
俺と陽菜さんは顔を見合わせて——微笑み合った。
こうして——
俺たちの旅は、三人……いや、四人になった。
影のヒーローと、見えない少女と共に——
白山の頂を目指す旅が、新たな局面を迎えようとしていた。




