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第三章 ――盗賊との遭遇と影のヒーロー――

 第十五層に足を踏み入れた瞬間、世界が変わった。



 森が消えた。


 それまで俺たち、橘蒼太と桜庭陽菜を包んでいた針葉樹の林は姿を消し、代わりに——



 一面の、花の海が広がっていた。



「わあ……」


 俺は思わず声を上げた。


 目の前に広がるのは、まさに天国の光景だった。



 ニッコウキスゲの鮮やかな黄色が、波のように地平線まで続いている。

 その中に点在する白いハクサンイチゲ。

 紫黒のクロユリが、まるで夜空の星のようにアクセントを添えている。


 淡いピンクのハクサンコザクラが風に揺れ、

 チングルマの白い花びらが、まるで雪のように舞っている。



 標高は二千五百メートルを超えている。


 空気は澄み切っていて、吸い込むたびに肺が冷たく清められる感覚がある。

 そして風——高山特有の強い風が、無数の花々を揺らし続けている。


 まるで花の海原が、生きているかのように——



「すごい……こんな景色……」


 俺は言葉を失っていた。


 カメラマンを目指していた頃、色々な景色を撮ってきた。

 でもこれほどまでに美しく、圧倒的な光景は——見たことがなかった。



「蒼太さん」


 陽菜さんが横で微笑んでいた。


 彼女はワイヤーフレームで周囲を「見て」いるはずだが——


 その表情は、まるで本当に花の海を見ているかのように穏やかで、幸せそうだった。



「今、どんな景色ですか?」


 彼女が尋ねる。


 俺は必死に言葉を探した。



「えっと……一面に花が咲いてて」


「黄色と、白と、紫と……ピンクも」


「すごく、綺麗で……」



 でも——ダメだ。


 「綺麗」「美しい」という陳腐な言葉しか出てこない。


 この圧倒的な光景を、どう表現すればいいのか——



「すみません、俺、語彙力がなくて……」


 俺は情けなくなった。


 カメラマンを目指していた頃は、写真で表現できた。

 でも言葉では——



 陽菜さんがクスッと笑った。


「大丈夫ですよ」


「え?」


「私には見えてますから」


 その言葉に、俺は驚いて彼女を見た。



 陽菜さんは目を閉じて、風に顔を向けていた。



 ◇◇◇



「この香り……」


 陽菜さんがゆっくりと深呼吸をする。


 目を閉じて、まるで記憶を辿るように——



「ニッコウキスゲの、レモンのような爽やかさ」


 彼女が静かに呟く。



「祖母が『夏の太陽の匂い』って呼んでた香り」


「ハクサンコザクラの、ほんのり甘い香りも混ざってる」


「祖母が『春の名残』って呼んでた香り」


 陽菜さんの声が、少し震える。



「この二つが混ざると——」

「夏と春が、一緒に咲いてる感じがします」


 彼女が微笑む。



「祖母と見たあの日の、お花畑の香りと同じです」


「失明する前の、最後の夏に」


 陽菜さんが目を閉じたまま続ける。



「ニッコウキスゲは黄色。鮮やかな、夏の太陽のような黄色」


「ハクサンコザクラは淡いピンク。祖母が大好きだった色」


「クロユリは紫黒。神秘的で、少し寂しげな色」


「ハクサンイチゲは純白。雪のような、清らかな白」


 彼女の声が、まるで詩を詠むように美しい。



「どうして……」


 俺は思わず尋ねた。


「どうして、色が分かるんですか?」


 陽菜さんが微笑んで答える。



「失明する前に、たくさん見たから」


「この香りはこの色、この触感はこの花って、全部覚えてるんです」



「それに——」


 彼女が俺の方を向く。


 焦点の合わない灰色の瞳が、でも確かに俺を見つめているような——



「心で見れば、色なんて関係ないんです」


「花は、香りでも、触感でも、音でも——『美しさ』を教えてくれますから」



 その言葉に、俺の胸が熱くなった。


 彼女は「見えない」のではない。


 「違う方法で見ている」のだ。



 香りで記憶を辿り、過去と現在を繋ぎながら——


 そして、その見方は俺よりもずっと深く、美しいのかもしれない。



 ◇◇◇



「蒼太さん」


「はい?」


「私、この場所が大好きなんです」


 陽菜さんが嬉しそうに言う。



「祖母と一緒に来た時、ここで写真をたくさん撮ったんです」


「失明する前の、最後の夏に」


 彼女の声が少し震える。


「その時の記憶が、今でも鮮明に残ってるんです」



「黄色い花の海。青い空。白い雲」


「祖母の笑顔も」


 陽菜さんが目を閉じる。



「だから——今でも『見えて』るんです」


「心の中に、あの景色が焼き付いてるから」



 俺は何も言えなかった。


 ただ——彼女の横顔を見つめていた。


 風に髪がなびいている。


 花々が彼女の周りで揺れている。



 その姿があまりにも美しくて——


 俺は思わずカメラに手を伸ばした。


 でも——やめた。


(今は、写真じゃない)



 この瞬間を、心に焼き付けよう。


 陽菜さんが教えてくれた。


 本当に大切なものは、目で見るものじゃない。


 心で感じるものなんだ——と。



 ◇◇◇



 突然、周囲が淡く光り始めた。


 緑がかった透明な光が、花々の間から浮かび上がってくる。


「……何ですか、これ」


 俺は驚いて立ち止まった。


 光はどんどん増えていく。


 数十、数百の淡い光が、花の海を舞い始めた。



「ウインドブロッサムですね」


 陽菜さんが嬉しそうに言う。


「花の精霊です。この層の白いモンスターで、とても友好的なんですよ」


 光が近づいてくると、その正体が見えた。



 人間の手のひらほどの大きさの、透明な妖精たち。


 花びらのような翅を持ち、体は淡い緑色に光っている。

 顔は花のつぼみのような形で、小さな目がキラキラと輝いている。


 ウインドブロッサムたちが、陽菜さんの周りをクルクルと飛び回り始めた。



「わあ……」


 陽菜さんが両手を広げる。


 花の精霊たちが彼女の手のひらに降り立ち、小さな手で陽菜さんの指に触れた。



「この子たち、私の歌が好きみたいです」


「歌……?」


 陽菜さんが小さく頷いて——


 歌い始めた。


 ◇◇◇



 それは、子守唄のような優しい歌だった。


 歌詞はなく、ただ「ラララ~」というハミングだけ。


 でも——


 その歌声は、風に乗って花の海に広がっていく。



 ウインドブロッサムたちが、歌に合わせて踊り始めた。


 クルクルと回転し、上下に飛び跳ね、まるでバレエのように優雅に舞う。



 そして——


 花々も揺れ始めた。


 風が、陽菜さんの歌声に合わせて強弱をつけて吹いている。


 ニッコウキスゲが左右に揺れ、ハクサンイチゲが小さく頷き、クロユリが静かに揺れる。


 まるで——


 花の海全体が、陽菜さんの歌を聴いているかのように。



「すごい……」


 俺は息を呑んだ。



 この光景は——


 言葉にできない。


 写真にも収められない。


 ただ——心で感じるしかない、奇跡のような瞬間。



 陽菜さんの歌声が、ゆっくりと高まっていく。


 ウインドブロッサムたちの踊りも激しくなり、光が強くなる。



 そして——


 歌が終わった。


 静寂。


 風だけが、優しく花を撫でている。



 ウインドブロッサムたちが、陽菜さんの周りに集まって——


 小さな花を、彼女の髪に飾り始めた。


 黄色いニッコウキスゲ、白いハクサンイチゲ、ピンクのハクサンコザクラ——


 まるで花の冠を作るように、丁寧に編み込んでいく。



「ありがとう」


 陽菜さんが微笑む。



 その姿が——


 あまりにも美しくて——


 俺は思わずカメラのシャッターを切っていた。



 ◇◇◇



 カシャン——


 シャッター音が、静かな花の海に響いた。



「蒼太さん、写真を撮りましたか?」


 陽菜さんが首を傾げる。



「あ、はい……すみません、また勝手に」


 俺は慌てて謝った。


「いえ、嬉しいです」


 陽菜さんが微笑む。



「後で、どんな写真か教えてくださいね」


「……はい」


 俺は頷いた。



 そして——カメラの液晶画面を見た。


 そこには、奇跡のような一枚が写っていた。



 陽菜さんの横顔。


 髪に飾られた色とりどりの花々。


 周囲を舞うウインドブロッサムの淡い光。



 そして——


 彼女の微笑み。


 目が見えないのに、こんなにも美しく笑える彼女。


 心で世界を見ている彼女。



 この写真は——


 俺が今まで撮った中で、最高の一枚かもしれない。



「陽菜さん」


「はい?」


「この写真……俺の宝物にします」


 俺は真剣に言った。



 陽菜さんが少し照れたように頬を染める。


「大げさですよ……」


「いえ、本当です」


 俺はカメラを見つめる。



「陽菜さんが教えてくれたんです」


「写真は、見るためだけのものじゃないって」


「心で感じるものを、形にするものだって」


 陽菜さんの目が潤んだ。


「……蒼太さん」



「俺、もう一度カメラマンに挑戦してみようと思います」


 俺は心から言った。



「今度は『見せる』ためじゃなくて、『感じてもらう』ための写真を」


「陽菜さんみたいに、心で見る人にも伝わる写真を」


 陽菜さんが涙を浮かべて微笑んだ。



「私も、蒼太さんの写真を『感じたい』です」


「いつか、写真展を開いたら教えてください」


「香りや音で、蒼太さんの写真を感じに行きますから」


 その言葉に、俺の胸が熱くなった。


 ◇◇◇



 ウインドブロッサムたちは、しばらく俺たちと一緒にいた。


 陽菜さんの周りを飛び回り、時々彼女の手に降り立っては、小さな花をプレゼントしていく。


 俺の手にも、一輪の黄色いニッコウキスゲを置いていった。



「ありがとう」


 俺は小さな花を大切に手に包んだ。


 ウインドブロッサムが嬉しそうに光を強める。



 そして——


 風が強く吹いた瞬間、彼らは一斉に舞い上がって——


 花の海の向こうへと消えていった。



「……行っちゃいましたね」


 陽菜さんが少し寂しそうに言う。



「でも、素敵な出会いでした」


「ええ」


 俺も頷いた。



 そして——


 俺たちは再び歩き始めた。


 花の海の中を、ゆっくりと進んでいく。



 陽菜さんの髪には、ウインドブロッサムが飾ってくれた花が揺れている。


 俺の手には、小さな黄色い花。


 そして——カメラには、忘れられない一枚の写真。



 ◇◇◇



 しばらく歩いていると、陽菜さんが立ち止まった。


「蒼太さん」


「はい?」



「……誰かに見られてるような気がします」


 その言葉に、俺の背筋が凍った。


「え?」



「風が、不自然に止まってる場所があるんです」


 陽菜さんが真剣な表情で言う。


「誰かが隠れて、息を潜めてる——そんな感じがします」



 俺は周囲を見回した。


 でも——


 花の海が広がっているだけで、誰の姿も見えない。



「気のせいじゃないですか?」


「……そうかもしれません」


 陽菜さんが少し不安そうに頷く。



「でも、気をつけましょう」


「はい」


 俺も警戒しながら、歩き始めた。



 南竜山荘で聞いた、盗賊の噂——


 まさか、本当に狙われてるのか?



 俺は拳を握りしめた。


 もし何かあったら——


 絶対に、陽菜さんを守る。


 どんなことがあっても——



 ◇◇◇



 実は——


 花の海の向こう、大きな岩陰に——


 五人の人影が隠れていた。



「おい、あの女……目が見えないんじゃねえか?」


 筋骨隆々の男が小声で言う。


「ラッキーだな。装備も良さそうだし」


 別の男がニヤリと笑う。



「でも、男の方が邪魔だな」


「Dランクみたいだし、大したことないだろ」



 リーダー格の男——鉄拳のグレンが冷静に指示する。


「まだだ。もう少し奥に誘い込む」


「第十八層の『迷いの花園』なら、パトロールも来ない」


「そこで一気に襲う」



 五人が静かに頷いた。


 そして——


 花の海に消えていく二人の背中を、じっと見つめていた——



 ◇◇◇



 俺、橘蒼太と桜庭陽菜は、何も知らずに歩き続けていた。


 美しい花の海の中を——



 でも——


 この平和な時間は、もうすぐ終わりを告げようとしていた。


 危険が、確実に近づいている。



 そして——


 その時——


 黒いマントの「影のヒーロー」が動き出す——


 でも、それはもう少し先の話。



 今は——


 ただ、二人の時間が続いていた。


 花の海の中で、お互いを想いながら——


 次の層へと、足を踏み出していく。

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