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夕食も中盤に差し掛かった頃、ヤマブキが湯呑みを持って各テーブルを回ってきた。
「お茶をどうぞ」
彼女が淹れてくれたお茶は、ほのかに花の香りがした。
「これは……?」
「白山の高山植物から作ったお茶ですよ。ハクサンコザクラとチングルマの花びらを乾燥させたものです」
ヤマブキが優しく微笑む。
陽菜さんが香りを楽しそうに嗅いでいる。
「良い香りですね……」
「ところで」
ヤマブキが俺たちのテーブルに腰を下ろした。
「白山は特殊なダンジョンなんですよ」
「特殊……ですか?」
俺が尋ねる。
「ええ。夏の二ヶ月間、黒いモンスターのボスたちは深い眠りにつくのです」
ヤマブキが静かに説明する。
「なぜかは分かりませんが……おそらく、白山という『神域』の力でしょう」
「その間、この山は本来の美しい姿を取り戻します」
陽菜さんが興味深そうに聞く。
「では、秋から春は危険なんですね?」
「ええ。黒く染まった黒いモンスターたちが跋扈します」
ヤマブキの表情が少し曇る。
「特に冬は……雪と黒いモンスターの二重の脅威で、Bランクでも命の保証はありません」
その言葉に、食堂の空気が一瞬重くなった。
「だからこそ、夏の二ヶ月間は特別なのです」
ヤマブキが少し寂しそうに微笑む。
「多くの人が、花を楽しむためだけに登る。戦いではなく、癒しのために」
「これが本来のダンジョンの姿であれば良いのですが……」
俺は改めて、白山という山の特殊性を実感した。
夏のこの平和な時期だからこそ、俺たちは安全に登れている——
ヤマブキが席を立った後、隣のテーブルから声が聞こえてきた。
「俺たちは秋まで待つぜ。その方が稼げるからな」
筋骨隆々の男性探索者が、仲間と話している。
Bランクのバッジが胸に光っていた。
「でも危険だぞ? 去年の冬、十人死んだって聞いたぜ」
別の男が心配そうに言う。
「だから報酬が高いんだろ。一日二十万だぜ? 夏の二十倍だ」
「お前ら、金のことしか考えてないのか……」
ベテラン登山者のおじさんが呆れた声で言う。
「俺は夏の白山が好きなんだよ。花が綺麗だし、平和だし」
「まあ、最近は盗賊が出るがな……」
その言葉に、俺は思わず身を固くした。
若い女性探索者が不安そうに言う。
「私、九月に初めて白山の黒いモンスター討伐に参加するんです……怖いな」
「Cランクあるなら大丈夫だよ。パーティー組めば何とかなる」
「でも、一日二十万って……そんなに危険なんですね」
「ああ。夏とは別世界だ。雪山装備が必須だし、黒いモンスターは容赦ないからな」
陽菜さんが小さく呟く。
「……秋から春は、本当に危険なんですね」
「ええ」
俺も頷いた。
(やっぱり、夏で良かった……)
俺は改めて安堵した。
もし秋や冬にここに来ていたら——
俺たちは、確実に生きて帰れなかっただろう。
◇◇◇
夕食後、俺は一人で外に出た。
翠明館の前には小さな池——御手洗池があり、透き通った水が静かに湧き出ている。
夜空には星が輝き、霧も晴れて美しい月が浮かんでいた。
「綺麗だな……」
俺は思わず呟いた。
この景色を、陽菜さんにどう伝えよう——
そう考えていると、背後から声がした。
「蒼太さん」
振り返ると、陽菜さんが立っていた。
「陽菜さん、一人で大丈夫でしたか?」
「はい。ヤマブキさんに教えてもらった通りに歩いてきました」
彼女が微笑む。
「今、どんな景色ですか?」
俺は少し考えてから答えた。
「月が出ています。満月に近い、丸い月」
「池の水面に、月が映ってる」
「星も見えます。たくさんの星が、夜空に散らばってる」
陽菜さんが目を閉じて、風に顔を向ける。
「……見えます」
「え?」
「月の光。温かくて、優しい光」
「星の瞬き。静かで、でも確かにそこにある輝き」
彼女が微笑む。
「それに——」
陽菜さんが俺の方を向く。
「蒼太さんの声が、とても穏やかです」
「この景色を見て、心が安らいでいるんですね」
俺は驚いた。
彼女は目が見えないのに——俺の心まで「見えて」いる。
「蒼太さん」
「はい?」
「さっき、従兄弟さんの話になった時……少し、声が沈んでましたね」
陽菜さんが静かに言う。
俺は驚いて彼女を見た。
「……分かるんですか」
「声のトーンで。それに、箸を置く音も少し強かったです」
彼女が微笑む。
「話したくなければ、無理には聞きません。でも——」
陽菜さんが俺の方を向く。
「もし話したくなったら、いつでも聞きますよ」
「……ありがとうございます」
その優しさに、俺の胸が温かくなった。
「……陽菜さん」
「はい?」
「今日、食堂で——みんなが陽菜さんのこと尊敬してるって知って、俺も嬉しかったです」
俺は正直に言った。
「陽菜さんは、すごく強い人です」
「でも——」
陽菜さんの表情が少し曇る。
「私、本当は弱いんです」
「え?」
「毎日、不安なんです。『本当にこのまま山に登り続けられるのか』『またどこかで失敗するんじゃないか』って」
彼女の声が震える。
「今日だって、蒼太さんがいなかったら——きっと、途中で諦めてました」
「陽菜さん……」
「祖母が亡くなった時、私は何もできなかった」
陽菜さんが涙声になる。
「失明して、ただベッドで泣いてるだけで」
「祖母は最期まで心配してたんです。『陽菜はもう山に登れないんだね』って」
「その言葉が、ずっと胸に刺さってて——」
彼女の涙が頬を伝う。
俺は思わず、陽菜さんの肩に手を置いた。
「陽菜さん」
「……はい」
「俺は思うんです」
俺は真剣に言った。
「陽菜さんのお祖母さんは、心配してたんじゃない」
「え?」
「信じてたんです。『陽菜ならきっと、また山に登れる』って」
陽菜さんが顔を上げる。
「だって、陽菜さんはこんなに山を愛してる」
「こんなに強くて、優しくて、諦めない心を持ってる」
「お祖母さんは、それを知ってたんですよ」
俺は彼女の手を握った。
「だから——山頂で、報告しましょう」
「『おばあちゃん、私、ちゃんと登れたよ』って」
陽菜さんが涙を浮かべて微笑んだ。
「……はい」
「一緒に行きましょう。山頂まで」
「……ありがとうございます、蒼太さん」
二人で静かに夜空を見上げる。
陽菜さんは目が見えないけれど——
きっと、心で星を見ていた。
そして——
俺たちの絆も、確かに見えていた。
◇◇◇
翌朝。
出発前に、ヤマブキが二人に小さな巾着袋を渡してくれた。
「これは白山の花の種です」
「種……?」
「はい。山頂から戻られたら、どこかに植えてあげてください」
ヤマブキが優しく微笑む。
「花は『見る』だけが全てではありません」
「育てること、香りを楽しむこと、触れること……たくさんの楽しみ方があります」
陽菜さんが涙ぐむ。
「……ありがとうございます」
「陽菜さん」
ヤマブキが彼女の手を取る。
「あなたが山を愛する心は、どんな目よりも美しく花を見ているのですよ」
「忘れないでくださいね」
陽菜さんが頷く。
俺も深く頭を下げた。
「お世話になりました」
「お気をつけて。そして——」
ヤマブキが真剣な表情で言う。
「この先、危険な道もあります」
「でも、二人なら大丈夫」
「お互いを信じて、支え合ってください」
その言葉に、俺と陽菜さんは顔を見合わせた。
「はい」
二人で声を揃えて答える。
こうして——
俺たちは翠明館を後にした。
心に温かいものを抱いて。
そして——
これから先の道のりへの、新たな覚悟を胸に。
◇◇◇
翠明館を出ると、朝日が森を照らしていた。
第十三層への道は、少しずつ険しくなっていく。
でも——
俺たちの足取りは、昨日よりも確かだった。
「蒼太さん」
「はい?」
「私、決めました」
陽菜さんが真剣な表情で言う。
「どんなことがあっても、山頂まで行きます」
「祖母に報告するために」
「それに——」
彼女が俺の方を向く。
「蒼太さんと一緒なら、どこまでも行けそうな気がするんです」
その言葉に、俺の胸が熱くなった。
「俺も、陽菜さんと一緒に山頂まで行きます」
「必ず——」
二人で手を取り合う。
そして——
次の層へと、足を踏み出した。
この時、俺たちはまだ知らなかった。
美しいお花畑で本当の試練が待っていることを。
そして——
黒いマントの「影のヒーロー」との、運命的な出会いを。
でも今は——
ただ前を向いて、一歩ずつ進むだけだった。
二人で、支え合いながら。
山頂という、共通の目標に向かって——




