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2-4

 夕食も中盤に差し掛かった頃、ヤマブキが湯呑みを持って各テーブルを回ってきた。


「お茶をどうぞ」



 彼女が淹れてくれたお茶は、ほのかに花の香りがした。


「これは……?」


「白山の高山植物から作ったお茶ですよ。ハクサンコザクラとチングルマの花びらを乾燥させたものです」


 ヤマブキが優しく微笑む。



 陽菜さんが香りを楽しそうに嗅いでいる。


「良い香りですね……」



「ところで」


 ヤマブキが俺たちのテーブルに腰を下ろした。


「白山は特殊なダンジョンなんですよ」


「特殊……ですか?」


 俺が尋ねる。



「ええ。夏の二ヶ月間、黒いモンスターのボスたちは深い眠りにつくのです」


 ヤマブキが静かに説明する。


「なぜかは分かりませんが……おそらく、白山という『神域』の力でしょう」


「その間、この山は本来の美しい姿を取り戻します」


 陽菜さんが興味深そうに聞く。



「では、秋から春は危険なんですね?」


「ええ。黒く染まった黒いモンスターたちが跋扈します」


 ヤマブキの表情が少し曇る。


「特に冬は……雪と黒いモンスターの二重の脅威で、Bランクでも命の保証はありません」


 その言葉に、食堂の空気が一瞬重くなった。



「だからこそ、夏の二ヶ月間は特別なのです」


 ヤマブキが少し寂しそうに微笑む。


「多くの人が、花を楽しむためだけに登る。戦いではなく、癒しのために」


「これが本来のダンジョンの姿であれば良いのですが……」



 俺は改めて、白山という山の特殊性を実感した。


 夏のこの平和な時期だからこそ、俺たちは安全に登れている——


 ヤマブキが席を立った後、隣のテーブルから声が聞こえてきた。



「俺たちは秋まで待つぜ。その方が稼げるからな」


 筋骨隆々の男性探索者が、仲間と話している。


 Bランクのバッジが胸に光っていた。



「でも危険だぞ? 去年の冬、十人死んだって聞いたぜ」


 別の男が心配そうに言う。


「だから報酬が高いんだろ。一日二十万だぜ? 夏の二十倍だ」


「お前ら、金のことしか考えてないのか……」


 ベテラン登山者のおじさんが呆れた声で言う。



「俺は夏の白山が好きなんだよ。花が綺麗だし、平和だし」


「まあ、最近は盗賊が出るがな……」


 その言葉に、俺は思わず身を固くした。



 若い女性探索者が不安そうに言う。


「私、九月に初めて白山の黒いモンスター討伐に参加するんです……怖いな」


「Cランクあるなら大丈夫だよ。パーティー組めば何とかなる」


「でも、一日二十万って……そんなに危険なんですね」


「ああ。夏とは別世界だ。雪山装備が必須だし、黒いモンスターは容赦ないからな」


 陽菜さんが小さく呟く。



「……秋から春は、本当に危険なんですね」


「ええ」


 俺も頷いた。


(やっぱり、夏で良かった……)


 俺は改めて安堵した。



 もし秋や冬にここに来ていたら——


 俺たちは、確実に生きて帰れなかっただろう。



 ◇◇◇



 夕食後、俺は一人で外に出た。


 翠明館の前には小さな池——御手洗池があり、透き通った水が静かに湧き出ている。


 夜空には星が輝き、霧も晴れて美しい月が浮かんでいた。



「綺麗だな……」


 俺は思わず呟いた。


 この景色を、陽菜さんにどう伝えよう——


 そう考えていると、背後から声がした。



「蒼太さん」


 振り返ると、陽菜さんが立っていた。


「陽菜さん、一人で大丈夫でしたか?」


「はい。ヤマブキさんに教えてもらった通りに歩いてきました」


 彼女が微笑む。



「今、どんな景色ですか?」


 俺は少し考えてから答えた。



「月が出ています。満月に近い、丸い月」


「池の水面に、月が映ってる」


「星も見えます。たくさんの星が、夜空に散らばってる」


 陽菜さんが目を閉じて、風に顔を向ける。



「……見えます」


「え?」


「月の光。温かくて、優しい光」


「星の瞬き。静かで、でも確かにそこにある輝き」


 彼女が微笑む。



「それに——」


 陽菜さんが俺の方を向く。


「蒼太さんの声が、とても穏やかです」


「この景色を見て、心が安らいでいるんですね」


 俺は驚いた。


 彼女は目が見えないのに——俺の心まで「見えて」いる。



「蒼太さん」


「はい?」



「さっき、従兄弟さんの話になった時……少し、声が沈んでましたね」


 陽菜さんが静かに言う。


 俺は驚いて彼女を見た。


「……分かるんですか」


「声のトーンで。それに、箸を置く音も少し強かったです」


 彼女が微笑む。



「話したくなければ、無理には聞きません。でも——」


 陽菜さんが俺の方を向く。


「もし話したくなったら、いつでも聞きますよ」


「……ありがとうございます」


 その優しさに、俺の胸が温かくなった。



「……陽菜さん」


「はい?」


「今日、食堂で——みんなが陽菜さんのこと尊敬してるって知って、俺も嬉しかったです」


 俺は正直に言った。


「陽菜さんは、すごく強い人です」


「でも——」


 陽菜さんの表情が少し曇る。



「私、本当は弱いんです」


「え?」


「毎日、不安なんです。『本当にこのまま山に登り続けられるのか』『またどこかで失敗するんじゃないか』って」


 彼女の声が震える。


「今日だって、蒼太さんがいなかったら——きっと、途中で諦めてました」


「陽菜さん……」



「祖母が亡くなった時、私は何もできなかった」


 陽菜さんが涙声になる。


「失明して、ただベッドで泣いてるだけで」


「祖母は最期まで心配してたんです。『陽菜はもう山に登れないんだね』って」


「その言葉が、ずっと胸に刺さってて——」


 彼女の涙が頬を伝う。


 俺は思わず、陽菜さんの肩に手を置いた。



「陽菜さん」


「……はい」


「俺は思うんです」


 俺は真剣に言った。



「陽菜さんのお祖母さんは、心配してたんじゃない」


「え?」



「信じてたんです。『陽菜ならきっと、また山に登れる』って」


 陽菜さんが顔を上げる。


「だって、陽菜さんはこんなに山を愛してる」


「こんなに強くて、優しくて、諦めない心を持ってる」


「お祖母さんは、それを知ってたんですよ」


 俺は彼女の手を握った。



「だから——山頂で、報告しましょう」


「『おばあちゃん、私、ちゃんと登れたよ』って」


 陽菜さんが涙を浮かべて微笑んだ。


「……はい」



「一緒に行きましょう。山頂まで」


「……ありがとうございます、蒼太さん」


 二人で静かに夜空を見上げる。


 陽菜さんは目が見えないけれど——


 きっと、心で星を見ていた。


 そして——


 俺たちの絆も、確かに見えていた。



 ◇◇◇



 翌朝。


 出発前に、ヤマブキが二人に小さな巾着袋を渡してくれた。


「これは白山の花の種です」


「種……?」


「はい。山頂から戻られたら、どこかに植えてあげてください」


 ヤマブキが優しく微笑む。



「花は『見る』だけが全てではありません」


「育てること、香りを楽しむこと、触れること……たくさんの楽しみ方があります」


 陽菜さんが涙ぐむ。


「……ありがとうございます」



「陽菜さん」


 ヤマブキが彼女の手を取る。


「あなたが山を愛する心は、どんな目よりも美しく花を見ているのですよ」


「忘れないでくださいね」


 陽菜さんが頷く。


 俺も深く頭を下げた。



「お世話になりました」


「お気をつけて。そして——」


 ヤマブキが真剣な表情で言う。



「この先、危険な道もあります」


「でも、二人なら大丈夫」


「お互いを信じて、支え合ってください」


 その言葉に、俺と陽菜さんは顔を見合わせた。


「はい」


 二人で声を揃えて答える。



 こうして——


 俺たちは翠明館を後にした。


 心に温かいものを抱いて。


 そして——


 これから先の道のりへの、新たな覚悟を胸に。



 ◇◇◇



 翠明館を出ると、朝日が森を照らしていた。


 第十三層への道は、少しずつ険しくなっていく。


 でも——


 俺たちの足取りは、昨日よりも確かだった。



「蒼太さん」


「はい?」


「私、決めました」


 陽菜さんが真剣な表情で言う。


「どんなことがあっても、山頂まで行きます」


「祖母に報告するために」



「それに——」


 彼女が俺の方を向く。


「蒼太さんと一緒なら、どこまでも行けそうな気がするんです」


 その言葉に、俺の胸が熱くなった。


「俺も、陽菜さんと一緒に山頂まで行きます」


「必ず——」



 二人で手を取り合う。


 そして——


 次の層へと、足を踏み出した。



 この時、俺たちはまだ知らなかった。


 美しいお花畑で本当の試練が待っていることを。


 そして——


 黒いマントの「影のヒーロー」との、運命的な出会いを。



 でも今は——


 ただ前を向いて、一歩ずつ進むだけだった。


 二人で、支え合いながら。


 山頂という、共通の目標に向かって——

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