2-3
翠明館の中は、木の温もりに満ち溢れていた。
玄関ホールに足を踏み入れた瞬間、俺、橘蒼太は思わず息を呑んだ。
太い梁が天井を支え、磨き上げられた床板が柔らかな光を反射している。
壁には白山信仰の歴史を伝える古い絵や写真が飾られ、中央には小さな祠が設けられていた。
そして——
空気が、違う。
白檀のような落ち着いた香りと、ほのかな花の香り。
暖炉から漂う薪の温もり。
どこか懐かしい、心が安らぐ空間だった。
「わあ……」
陽菜さんが小さく声を上げた。
彼女は目を閉じて、深く息を吸い込んでいる。
「この香り……白檀と、山桜の木。それに、お香も焚いてますね」
「よくお分かりですね」
老婆——ヤマブキが優しく微笑んだ。
「陽菜さん、あなたは本当に『見えて』いる」
「え……?」
陽菜さんが戸惑ったように首を傾げる。
ヤマブキが彼女の手を取った。
「目で見るだけが『見る』ことではありません」
「心で感じ、香りで知り、音で理解する——それもまた、立派な『見方』なのです」
その言葉に、俺の胸が熱くなった。
まさに——俺が陽菜さんと過ごして気づいたこと。
彼女は「見えない」のではない。「違う方法で見ている」のだ。
◇◇◇
ヤマブキが陽菜さんを館内に案内する。
「さあ、陽菜さん。この建物の作りを教えますね」
彼女が陽菜さんの手を優しく導く。
「床の木目は、全て入口から奥に向かって流れています」
ヤマブキがゆっくりと説明する。
「迷ったら、足裏の感触で確認してください。木目に沿って進めば、必ず奥の休憩室に辿り着きます」
「それに——」
彼女が陽菜さんの手を壁に導く。
「壁の木の節が、五歩ごとに配置されています。これを数えれば、今どこにいるか分かりますよ」
陽菜さんが驚いたように顔を上げる。
「そんな……こんなに細かく配慮されてるなんて」
「お風呂場は右側です。少し温かい空気が流れているのが分かりますか?」
陽菜さんが集中して、頷く。
「はい……確かに、右側の方が暖かいです」
「食堂は左側。料理の香りがする方向ですね」
「山菜と、味噌の香り……」
陽菜さんが嬉しそうに微笑む。
ヤマブキが満足そうに頷いた。
「これで迷うことはありません。この館は、目が見えない方でも自由に歩き回れるよう、八百年前から工夫されているのです」
俺は感動した。
こんなに細やかな配慮——
視覚障がい者への理解が、これほど深く建物の設計に組み込まれているなんて。
「ありがとうございます……」
陽菜さんの目が潤んでいた。
「こんなに分かりやすく案内していただいたのは、初めてです」
「当然のことですよ」
ヤマブキが優しく微笑む。
「白山は、全ての人を受け入れる山なのですから」
◇◇◇
ヤマブキに案内されて、俺たちは二階へ向かった。
「男性の方はこちら、女性の方はこちらですよ」
階段を上がると、左右に分かれた大広間が見えてくる。
「陽菜さん、大丈夫ですか?」
「はい。さっき教えていただいた通りに歩けば迷いません」
陽菜さんが自信を持って答える。
「では、夕食の時間にまた食堂で」
「はい。後でお会いしましょう」
俺たちは一旦別れて、それぞれの部屋に入った。
◇◇◇
男性用の大広間には、すでに十名ほどの探索者が休んでいた。
ベテランのおじさんや、筋骨隆々のプロ探索者たち。みんな疲れた様子で横になっている。
俺も荷物を降ろして、少し体を休めた。
(陽菜さん、一人で大丈夫かな……)
少し心配になったが——
彼女なら大丈夫だろう。
ヤマブキの案内も完璧だったし、何より陽菜さんは強い。
そう自分に言い聞かせて、俺も目を閉じた。
◇◇◇
一時間ほど休んでから、俺は一階の食堂へ向かった。
すでに何人かの探索者が席についている。
そして——
「蒼太さん」
陽菜さんが窓際の席で手を振っていた。
彼女は一人で食堂まで来て、ちゃんと席を確保していた。
「陽菜さん、迷いませんでしたか?」
「はい。ヤマブキさんの教え通りに歩いたら、すぐに着きました」
彼女が嬉しそうに微笑む。
俺は安堵して、彼女の向かいに座った。
そして——
温かい夕食の時間が始まった。
食堂には長い木のテーブルが並び、窓からは霧に包まれた森が見渡せる。
すでに二十名ほどの探索者たちが席についていて、夕食の準備が進んでいた。
「お、新しい客だ」
ベテラン風の登山者のおじさんが声をかけてきた。
六十代くらいの男性で、日焼けした顔に深い皺が刻まれている。
でもその瞳は優しく、温かい笑顔を浮かべていた。
「よく来たな。どこから?」
「東京からです」
俺が答える。
「ほお、遠いところから。初めての白山か?」
「はい」
「いい山だぞ。特に今の季節は花が綺麗でな」
おじさんが嬉しそうに語る。
その時、彼が陽菜さんに気づいた。
「お嬢さん……もしかして、目が?」
「はい」
陽菜さんが穏やかに答える。
「珍しいな。目が不自由なのに山登りなんて」
少し無神経な発言だが、悪気はない。純粋な驚きだった。
「でも、偉いねえ。俺なんか目が見えてても道に迷うのに」
周囲の探索者たちが笑う。
温かい雰囲気。
「山が好きなので」
陽菜さんが微笑んで答える。
「ほんとに偉いよ。その心意気、素晴らしい」
おじさんが感心したように頷いた。
◇◇◇
夕食は、ヤマブキの手作り料理だった。
山菜の天ぷら、味噌汁、炊き込みご飯、そして白山で採れた山菜の和え物。
シンプルだけど、どれも丁寧に作られていて——
「いただきます」
俺と陽菜さんは箸を取った。
陽菜さんが山菜の和え物を一口食べて——
「美味しい……」
感動したように呟く。
「この山菜……ワラビと、ゼンマイと、コシアブラですね」
その言葉に、近くのテーブルの探索者たちが驚いて顔を上げた。
「よくお分かりですね」
ヤマブキが微笑む。
「今朝、この山で採ってきたものですよ」
「香りで分かりました。それに、この味付け……白味噌と、少しの砂糖」
「素晴らしい」
ヤマブキが感心したように頷く。
「陽菜さんは、料理もお好きなのですか?」
「はい。目が見えなくなってから、味と香りで料理を覚えるようになりました」
陽菜さんが嬉しそうに話す。
「いつか、山で採った山菜で料理を作りたいんです」
「それは素敵ですね」
ヤマブキが優しく微笑んだ。
その会話を聞いていた若い女性探索者が、席を立って近づいてきた。
「あの……もしかして、桜庭陽菜さんですか?」
陽菜さんが驚いたように顔を上げる。
「え? はい、そうですけど……」
「やっぱり! 私、陽菜さんのこと知ってます!」
若い女性が興奮気味に言う。
「【ワイヤービジョン】で白山登ってるって、探索者仲間で話題になってました!」
「ええ? 私が?」
陽菜さんが戸惑っている。
「はい! 『障がいがあっても諦めない探索者』として、勇気をもらってる人たくさんいますよ!」
若い女性が嬉しそうに続ける。
「私も、ランクが下がった時に挫けそうになったんです。でも、陽菜さんの話を聞いて——『諦めちゃダメだ』って思えました」
陽菜さんの目が潤んでいた。
「……そんな、私なんて」
「いえ、本当です! 陽菜さんは私たちのヒーローなんですよ!」
周囲の探索者たちも頷いている。
ベテランのおじさんが言う。
「俺も聞いたことあるぞ。元Cランクで、失明してもFランクから這い上がってきたって」
「それって、本当に凄いことだよ」
別の探索者が付け加える。
陽菜さんが照れたように頬を染めた。
俺は横で見ていて——胸が熱くなった。
彼女は知らなかったんだ。
自分がどれだけ多くの人に希望を与えているのか。
自分の頑張りが、どれだけ多くの人を励ましているのか。
◇◇◇
陽菜さんへの話題が一段落すると、ベテラン登山者のおじさんが俺の方を向いた。
「ところで、お兄さん」
「はい?」
「橘さん、っていうと……探索者界隈で有名な橘慧って記者と関係ある?」
その名前を聞いた瞬間、俺の箸が止まった。
「……従兄弟です」
俺は小さく答える。
「マジか! あの記者、すげえよな!」
おじさんが目を輝かせる。
「東京タワーダンジョンのMPK事件、あいつが暴いたんだろ?」
「ええ、まあ……」
俺はさらに小さく答えた。
「いいなあ、有名人が親戚で」
若い探索者が羨ましそうに言う。
「あの記事、俺も読んだよ。めちゃくちゃ鋭い取材で、業界に激震が走ったよな」
「橘慧の記事は、いつも核心を突いてる」
別のテーブルからも声が上がる。
「お兄さんも記者なの?」
若い女性探索者が尋ねる。
「いえ……俺はただの探索者です」
俺は首を横に振った。
「そうなんだ。でも、あんな有名人が親戚だと心強いよね」
彼女が無邪気に笑う。
俺は曖昧に笑って、話題を変えようとした。
でも——
隣に座る陽菜さんが、静かに俺の方を向いていた。
彼女は何も言わなかったけれど——
俺の声のトーンの変化を、確実に感じ取っていた。
(……何か、複雑な想いがあるのかな)
陽菜さんの心の声が、まるで聞こえてくるようだった。




