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2-2

 第九層を抜けると、世界が一変した。


 まるで天国の入口に辿り着いたかのような——そんな錯覚を覚える光景が広がっていた。



 第十層は、深い霧に包まれた亜高山帯だった。


 シラビソとコメツガの針葉樹林はさらに密度を増し、その合間にシャクナゲやツツジの低木が点在している。

 ピンクや白、紅紫の花々が霧の中で淡く浮かび上がり、まるで水彩画のような幻想的な風景を作り出していた。



 でも——


 俺、橘蒼太は完全に方向を見失っていた。


「……陽菜さん」


「はい?」


「正直に言います。俺、どっちに進めばいいのか全く分かりません」


 俺は地図を見つめたまま固まっていた。



 霧が濃すぎる。


 視界は十メートル程度。

 遠くの木々はぼんやりとした影にしか見えない。

 地図に書かれた目印の岩も、分岐点の標識も——何も見えない。



「地図を見ても、今どこにいるのか……」


 陽菜さんがクスッと笑った。


「蒼太さん、また地図を逆さまに見てませんか?」


「え? いや、今回はちゃんと……あ」


 俺は慌てて地図を回転させた。



 陽菜さんが優しく微笑む。


「大丈夫ですよ。ここからは私が道案内します」


「でも……霧で何も見えないのに」


「見えなくても、分かるんです」


 彼女が自信を持って言う。



 ◇◇◇



 陽菜さんは目を閉じて、風に顔を向けた。


 長い黒髪が霧に濡れて、頬に張り付いている。

 でもその表情は穏やかで、まるで瞑想しているかのように静かだった。


「……風の流れが見えます」


「風の……流れ?」


「はい。風は山の形に沿って流れるんです」


 陽菜さんがゆっくりと説明する。



「今、風は右から左に流れてる。ということは、右側に尾根があって、左側に谷がある」


「それに——」


 彼女がトレッキングポールで地面を軽く叩く。



「音の反響が教えてくれます。右側は音が跳ね返ってくる。木が密集してるんです」


「左側は音が吸い込まれる。開けた場所がある」


 俺は驚愕した。


 彼女は霧で何も見えないはずなのに——いや、むしろ霧があるからこそ——周囲を完璧に把握している。


「すごい……」



「それから、湿度の変化も重要です」


 陽菜さんが続ける。


「霧が濃い場所と薄い場所がある。風の流れで分かるんです」


「道は人が通るから、周囲より少し乾燥してる。それに、踏み固められた土の硬さも違う」


 彼女が一歩前に進む。



「こっちです。間違いありません」


 俺は何も言えなかった。


 ただ——彼女の背中を見つめながら、深い感動が胸に広がっていった。



 ◇◇◇



 陽菜さんの案内で、俺たちは霧の森を進んでいった。


 彼女は時々立ち止まっては、風の音を聞き、地面の傾斜を感じ取る。

 トレッキングポールで岩の位置を確認し、足元の感触で道を見極める。


 その動作は流れるように自然で、まるで山そのものと一体化しているかのようだった。



「蒼太さん、三メートル先に木の根があります。気をつけてください」


「え? どうして……」


 俺が疑問に思った瞬間、本当に木の根が現れた。


 危うくつまずくところだった。



「すごい……本当に分かるんですね」


「音の反響で分かりました。地面の起伏が変わると、音も変わるんです」


 陽菜さんが微笑む。



 俺は——ようやく理解した。


 陽菜さんは「見えない」のではない。

 「違う方法で見ている」のだ。


 音で地形を読み、風で距離を測り、香りで花を識別する。


 それは——視覚とは全く別の、でも確かな「見方」なんだ。



 ◇◇◇



 霧の森を進んでいると、突然周囲が淡く光り始めた。


 青白い光が霧の中を漂い、まるで小さな星が舞っているかのように——


「……何ですか、これ」


 俺は思わず立ち止まった。


 光はどんどん増えていく。数十、数百の青白い光が、俺たちの周りをゆっくりと回り始めた。



「ミストフェアリーですね」


 陽菜さんが嬉しそうに言う。


「霧の妖精です。この層の白いモンスターで、友好的なんですよ」


 光が近づいてくると、その正体が見えた。


 手のひらサイズの小さな妖精たち。


 透き通った翅を持ち、霧のように半透明な体。

 青白く光る瞳が可愛らしい。



 ミストフェアリーたちが陽菜さんの周りをクルクルと飛び回る。


「わあ……」


 陽菜さんが両手を広げる。


 ミストフェアリーが彼女の手のひらに降り立ち、小さな手で陽菜さんの指に触れた。



「この子たち、友好的ですよ。私の香水が好きみたいです」


「香水?」


「はい。白檀と柚子の香りなんです。植物系のモンスターは、自然の香りを好むんですよ」


 陽菜さんが優しく微笑む。



 ミストフェアリーたちは彼女の髪の中を飛び回り、小さな花を髪に飾り始めた。


 紅紫のツツジ、淡いピンクのシャクナゲ——霧の森に咲く花々を、陽菜さんの黒髪に丁寧に編み込んでいく。


 その光景があまりにも美しくて——


 俺は思わずカメラに手を伸ばした。



 ◇◇◇



 半年以上、触れていなかったカメラ。


 埃を被っていたこのカメラを、今朝慌ててザックに詰め込んだ。


 なぜ持ってきたのか、自分でも分からなかった。


 でも——



 今、この瞬間を撮りたい。


 俺の手が震えた。


 ファインダーを覗く。


 陽菜さんの横顔。


 霧に濡れた黒髪。


 髪に飾られた花々。


 周囲を舞うミストフェアリーの青白い光。



 そして——


 彼女の微笑み。



 目が見えないのに、こんなにも美しく笑える彼女。


 心で世界を見ている彼女。


 シャッターを切った。



 カシャン——



 半年ぶりの、シャッター音。


 その音が、俺の胸に深く響いた。



「……蒼太さん?」


 陽菜さんが首を傾げる。


「今、写真を撮りましたか?」


「あ、はい……すみません、勝手に」


 俺は慌てて謝った。



「いえ、全然。でも——」


 陽菜さんが少し照れたように頬を染める。


「どんな写真ですか?」



 俺は言葉に詰まった。


 どう伝えればいいのか——


「えっと……その……」


 俺は必死に言葉を探す。



「陽菜さんが……すごく、綺麗で」


「ミストフェアリーが花を髪に飾ってて」


「霧の中で、光に包まれてて」


「それで……えっと……」


 語彙力のない自分が情けなかった。


 でも陽菜さんは優しく微笑んだ。



「ありがとうございます。嬉しいです」


「後で、もっと詳しく教えてくださいね」


「……はい」


 俺は頷いた。



 そして心の中で思った。


 いつか——


 この写真を、彼女に「見せて」あげたい。


 言葉で、音で、触感で——


 彼女が「心で見える」方法で、この美しさを伝えたい。



 ◇◇◇



 ミストフェアリーたちは陽菜さんの周りで楽しそうに舞い続けた。


 彼女は小さく笑いながら、妖精たちに話しかけている。


「ありがとう。とても綺麗よ」


 ミストフェアリーたちが嬉しそうに光を強める。


 俺も思わず笑顔になった。



 この光景——


 目で見る美しさだけじゃない。


 陽菜さんと妖精たちの心の交流。


 それが、何よりも美しい。



「蒼太さんも、触ってみますか?」


 陽菜さんが俺に手を差し出す。


 彼女の手のひらには、一匹のミストフェアリーが座っていた。


「いいんですか?」


「はい。この子たち、優しいですから」



 俺は恐る恐る指を伸ばす。


 ミストフェアリーが俺の指先に降り立った。


 ふわり——


 まるで霧に触れているような、不思議な感触。


 温かくて、柔らかくて、でも確かに「そこにいる」感覚。



「……すごい」


 俺は感動した。


 ミストフェアリーが俺の指先で小さくクルクルと回る。



 そして——俺の手のひらに、小さな白い花を置いていった。


「これ……」


「ハクサンイチゲです。白山を代表する花の一つ」


 陽菜さんが教えてくれる。


「この子、蒼太さんにプレゼントしたんですね」


 俺は小さな花を大切に手に包んだ。


 こんな些細なことで、こんなにも心が温かくなるなんて——



 ◇◇◇



 ミストフェアリーたちと別れて、俺たちは再び霧の森を進んだ。


 陽菜さんの髪には、妖精たちが飾ってくれた花が揺れている。


 俺の手には、小さな白い花。


 そして——カメラには、忘れられない一枚の写真。



「蒼太さん」


「はい?」


「今日、写真を撮ってくれて本当に嬉しかったです」


 陽菜さんが微笑む。



「俺こそ……半年ぶりにシャッターを切りました」


「半年も?」


「はい。カメラマンの夢を諦めてから、写真を撮る気になれなくて」


 俺は正直に打ち明けた。



「でも今日——陽菜さんを見て、久しぶりに『撮りたい』って思ったんです」


「……それは、どうしてですか?」


 陽菜さんが首を傾げる。


 俺は少し考えてから答えた。



「陽菜さんが教えてくれたからです」


「え?」


「写真は、見るためだけのものじゃないって」


 俺はカメラを見つめる。



「心で感じるものを、形にするもの」


「美しさは、目で見るものだけじゃない」


「風の音も、花の香りも、人の優しさも——全部、写真に込められるんだって」



 陽菜さんの目が潤んだ。


「……蒼太さん」


「陽菜さんと出会えて良かった」


 俺は心から言った。



「俺、カメラマンになれなかったことをずっと後悔してたんです」


「でも今——もう一度、写真に挑戦してみたいって思えました」


「今度は『見せる』ためじゃなくて、『感じてもらう』ための写真を」



 陽菜さんが涙を浮かべて微笑んだ。


「私も、蒼太さんと出会えて良かったです」


「一人で山に登るのは不安でしたけど……蒼太さんがいてくれるから、楽しいんです」



 二人で見つめ合う。


 霧の中で——


 でも、お互いの心は鮮明に見えていた。



 ◇◇◇



 霧の森を抜けると、視界が少しずつ開けてきた。


 前方に、大きな建物のシルエットが見えてくる。


「……あれが翠明館ですね」


「第十二層の休憩所です。そろそろお昼時ですし、ゆっくり休憩しましょう」


 陽菜さんが嬉しそうに言う。


 俺も安堵した。


 霧の森は美しかったけど、正直かなり緊張していた。陽菜さんがいなければ、確実に迷子になっていただろう。



「翠明館は……有名な休憩所なんですか?」


「はい。八百年以上前からあるって言われてます」


「八百年!?」


「白山は古くから信仰の山ですから。その歴史が、ダンジョンにも反映されてるんです」


 陽菜さんが説明してくれる。



 建物が近づいてくると、その壮大さが分かってきた。


 白い漆喰の壁に、濃い茶色の木材。切妻屋根に雪止めの金具。玄関には大きな石灯籠が立ち、周囲を石垣で囲まれている。


 まるで神社のような——いや、神域そのものだった。


「すごい……」


 俺は思わず呟いた。



 そして——


 玄関から、一人の老婆が姿を現した。


 小柄な体に、白髪を後ろで一つに結んでいる。深緑の着物に白いエプロン。


 でも——その瞳には、何か深い知恵が宿っているような——



「いらっしゃいませ」


 老婆が優しく微笑んだ。


「遠くからよく来てくださいました」


 その声に、不思議な温かさがあった。


 陽菜さんが礼儀正しくお辞儀をする。



「お邪魔します」


「ふふ……陽菜さん、ですね」


 老婆が陽菜さんの名前を呼んだ。


 俺たちは驚いて顔を見合わせた。


「え? どうして名前を……」


「この山の花たちが教えてくれました」


 老婆が穏やかに微笑む。



「『心で花を見る人間が来た』と」


 陽菜さんの目が見開かれる。


 俺も息を呑んだ。


 この老婆は——何者なんだ?



「さあ、中へどうぞ。ゆっくり休んでいってくださいな」


 老婆が手招きする。


 俺たちは顔を見合わせてから——


 翠明館の扉をくぐった。


 そこには——


 俺たちの想像を超える、特別な場所が待っていた。

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