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第九層を抜けると、世界が一変した。
まるで天国の入口に辿り着いたかのような——そんな錯覚を覚える光景が広がっていた。
第十層は、深い霧に包まれた亜高山帯だった。
シラビソとコメツガの針葉樹林はさらに密度を増し、その合間にシャクナゲやツツジの低木が点在している。
ピンクや白、紅紫の花々が霧の中で淡く浮かび上がり、まるで水彩画のような幻想的な風景を作り出していた。
でも——
俺、橘蒼太は完全に方向を見失っていた。
「……陽菜さん」
「はい?」
「正直に言います。俺、どっちに進めばいいのか全く分かりません」
俺は地図を見つめたまま固まっていた。
霧が濃すぎる。
視界は十メートル程度。
遠くの木々はぼんやりとした影にしか見えない。
地図に書かれた目印の岩も、分岐点の標識も——何も見えない。
「地図を見ても、今どこにいるのか……」
陽菜さんがクスッと笑った。
「蒼太さん、また地図を逆さまに見てませんか?」
「え? いや、今回はちゃんと……あ」
俺は慌てて地図を回転させた。
陽菜さんが優しく微笑む。
「大丈夫ですよ。ここからは私が道案内します」
「でも……霧で何も見えないのに」
「見えなくても、分かるんです」
彼女が自信を持って言う。
◇◇◇
陽菜さんは目を閉じて、風に顔を向けた。
長い黒髪が霧に濡れて、頬に張り付いている。
でもその表情は穏やかで、まるで瞑想しているかのように静かだった。
「……風の流れが見えます」
「風の……流れ?」
「はい。風は山の形に沿って流れるんです」
陽菜さんがゆっくりと説明する。
「今、風は右から左に流れてる。ということは、右側に尾根があって、左側に谷がある」
「それに——」
彼女がトレッキングポールで地面を軽く叩く。
「音の反響が教えてくれます。右側は音が跳ね返ってくる。木が密集してるんです」
「左側は音が吸い込まれる。開けた場所がある」
俺は驚愕した。
彼女は霧で何も見えないはずなのに——いや、むしろ霧があるからこそ——周囲を完璧に把握している。
「すごい……」
「それから、湿度の変化も重要です」
陽菜さんが続ける。
「霧が濃い場所と薄い場所がある。風の流れで分かるんです」
「道は人が通るから、周囲より少し乾燥してる。それに、踏み固められた土の硬さも違う」
彼女が一歩前に進む。
「こっちです。間違いありません」
俺は何も言えなかった。
ただ——彼女の背中を見つめながら、深い感動が胸に広がっていった。
◇◇◇
陽菜さんの案内で、俺たちは霧の森を進んでいった。
彼女は時々立ち止まっては、風の音を聞き、地面の傾斜を感じ取る。
トレッキングポールで岩の位置を確認し、足元の感触で道を見極める。
その動作は流れるように自然で、まるで山そのものと一体化しているかのようだった。
「蒼太さん、三メートル先に木の根があります。気をつけてください」
「え? どうして……」
俺が疑問に思った瞬間、本当に木の根が現れた。
危うくつまずくところだった。
「すごい……本当に分かるんですね」
「音の反響で分かりました。地面の起伏が変わると、音も変わるんです」
陽菜さんが微笑む。
俺は——ようやく理解した。
陽菜さんは「見えない」のではない。
「違う方法で見ている」のだ。
音で地形を読み、風で距離を測り、香りで花を識別する。
それは——視覚とは全く別の、でも確かな「見方」なんだ。
◇◇◇
霧の森を進んでいると、突然周囲が淡く光り始めた。
青白い光が霧の中を漂い、まるで小さな星が舞っているかのように——
「……何ですか、これ」
俺は思わず立ち止まった。
光はどんどん増えていく。数十、数百の青白い光が、俺たちの周りをゆっくりと回り始めた。
「ミストフェアリーですね」
陽菜さんが嬉しそうに言う。
「霧の妖精です。この層の白いモンスターで、友好的なんですよ」
光が近づいてくると、その正体が見えた。
手のひらサイズの小さな妖精たち。
透き通った翅を持ち、霧のように半透明な体。
青白く光る瞳が可愛らしい。
ミストフェアリーたちが陽菜さんの周りをクルクルと飛び回る。
「わあ……」
陽菜さんが両手を広げる。
ミストフェアリーが彼女の手のひらに降り立ち、小さな手で陽菜さんの指に触れた。
「この子たち、友好的ですよ。私の香水が好きみたいです」
「香水?」
「はい。白檀と柚子の香りなんです。植物系のモンスターは、自然の香りを好むんですよ」
陽菜さんが優しく微笑む。
ミストフェアリーたちは彼女の髪の中を飛び回り、小さな花を髪に飾り始めた。
紅紫のツツジ、淡いピンクのシャクナゲ——霧の森に咲く花々を、陽菜さんの黒髪に丁寧に編み込んでいく。
その光景があまりにも美しくて——
俺は思わずカメラに手を伸ばした。
◇◇◇
半年以上、触れていなかったカメラ。
埃を被っていたこのカメラを、今朝慌ててザックに詰め込んだ。
なぜ持ってきたのか、自分でも分からなかった。
でも——
今、この瞬間を撮りたい。
俺の手が震えた。
ファインダーを覗く。
陽菜さんの横顔。
霧に濡れた黒髪。
髪に飾られた花々。
周囲を舞うミストフェアリーの青白い光。
そして——
彼女の微笑み。
目が見えないのに、こんなにも美しく笑える彼女。
心で世界を見ている彼女。
シャッターを切った。
カシャン——
半年ぶりの、シャッター音。
その音が、俺の胸に深く響いた。
「……蒼太さん?」
陽菜さんが首を傾げる。
「今、写真を撮りましたか?」
「あ、はい……すみません、勝手に」
俺は慌てて謝った。
「いえ、全然。でも——」
陽菜さんが少し照れたように頬を染める。
「どんな写真ですか?」
俺は言葉に詰まった。
どう伝えればいいのか——
「えっと……その……」
俺は必死に言葉を探す。
「陽菜さんが……すごく、綺麗で」
「ミストフェアリーが花を髪に飾ってて」
「霧の中で、光に包まれてて」
「それで……えっと……」
語彙力のない自分が情けなかった。
でも陽菜さんは優しく微笑んだ。
「ありがとうございます。嬉しいです」
「後で、もっと詳しく教えてくださいね」
「……はい」
俺は頷いた。
そして心の中で思った。
いつか——
この写真を、彼女に「見せて」あげたい。
言葉で、音で、触感で——
彼女が「心で見える」方法で、この美しさを伝えたい。
◇◇◇
ミストフェアリーたちは陽菜さんの周りで楽しそうに舞い続けた。
彼女は小さく笑いながら、妖精たちに話しかけている。
「ありがとう。とても綺麗よ」
ミストフェアリーたちが嬉しそうに光を強める。
俺も思わず笑顔になった。
この光景——
目で見る美しさだけじゃない。
陽菜さんと妖精たちの心の交流。
それが、何よりも美しい。
「蒼太さんも、触ってみますか?」
陽菜さんが俺に手を差し出す。
彼女の手のひらには、一匹のミストフェアリーが座っていた。
「いいんですか?」
「はい。この子たち、優しいですから」
俺は恐る恐る指を伸ばす。
ミストフェアリーが俺の指先に降り立った。
ふわり——
まるで霧に触れているような、不思議な感触。
温かくて、柔らかくて、でも確かに「そこにいる」感覚。
「……すごい」
俺は感動した。
ミストフェアリーが俺の指先で小さくクルクルと回る。
そして——俺の手のひらに、小さな白い花を置いていった。
「これ……」
「ハクサンイチゲです。白山を代表する花の一つ」
陽菜さんが教えてくれる。
「この子、蒼太さんにプレゼントしたんですね」
俺は小さな花を大切に手に包んだ。
こんな些細なことで、こんなにも心が温かくなるなんて——
◇◇◇
ミストフェアリーたちと別れて、俺たちは再び霧の森を進んだ。
陽菜さんの髪には、妖精たちが飾ってくれた花が揺れている。
俺の手には、小さな白い花。
そして——カメラには、忘れられない一枚の写真。
「蒼太さん」
「はい?」
「今日、写真を撮ってくれて本当に嬉しかったです」
陽菜さんが微笑む。
「俺こそ……半年ぶりにシャッターを切りました」
「半年も?」
「はい。カメラマンの夢を諦めてから、写真を撮る気になれなくて」
俺は正直に打ち明けた。
「でも今日——陽菜さんを見て、久しぶりに『撮りたい』って思ったんです」
「……それは、どうしてですか?」
陽菜さんが首を傾げる。
俺は少し考えてから答えた。
「陽菜さんが教えてくれたからです」
「え?」
「写真は、見るためだけのものじゃないって」
俺はカメラを見つめる。
「心で感じるものを、形にするもの」
「美しさは、目で見るものだけじゃない」
「風の音も、花の香りも、人の優しさも——全部、写真に込められるんだって」
陽菜さんの目が潤んだ。
「……蒼太さん」
「陽菜さんと出会えて良かった」
俺は心から言った。
「俺、カメラマンになれなかったことをずっと後悔してたんです」
「でも今——もう一度、写真に挑戦してみたいって思えました」
「今度は『見せる』ためじゃなくて、『感じてもらう』ための写真を」
陽菜さんが涙を浮かべて微笑んだ。
「私も、蒼太さんと出会えて良かったです」
「一人で山に登るのは不安でしたけど……蒼太さんがいてくれるから、楽しいんです」
二人で見つめ合う。
霧の中で——
でも、お互いの心は鮮明に見えていた。
◇◇◇
霧の森を抜けると、視界が少しずつ開けてきた。
前方に、大きな建物のシルエットが見えてくる。
「……あれが翠明館ですね」
「第十二層の休憩所です。そろそろお昼時ですし、ゆっくり休憩しましょう」
陽菜さんが嬉しそうに言う。
俺も安堵した。
霧の森は美しかったけど、正直かなり緊張していた。陽菜さんがいなければ、確実に迷子になっていただろう。
「翠明館は……有名な休憩所なんですか?」
「はい。八百年以上前からあるって言われてます」
「八百年!?」
「白山は古くから信仰の山ですから。その歴史が、ダンジョンにも反映されてるんです」
陽菜さんが説明してくれる。
建物が近づいてくると、その壮大さが分かってきた。
白い漆喰の壁に、濃い茶色の木材。切妻屋根に雪止めの金具。玄関には大きな石灯籠が立ち、周囲を石垣で囲まれている。
まるで神社のような——いや、神域そのものだった。
「すごい……」
俺は思わず呟いた。
そして——
玄関から、一人の老婆が姿を現した。
小柄な体に、白髪を後ろで一つに結んでいる。深緑の着物に白いエプロン。
でも——その瞳には、何か深い知恵が宿っているような——
「いらっしゃいませ」
老婆が優しく微笑んだ。
「遠くからよく来てくださいました」
その声に、不思議な温かさがあった。
陽菜さんが礼儀正しくお辞儀をする。
「お邪魔します」
「ふふ……陽菜さん、ですね」
老婆が陽菜さんの名前を呼んだ。
俺たちは驚いて顔を見合わせた。
「え? どうして名前を……」
「この山の花たちが教えてくれました」
老婆が穏やかに微笑む。
「『心で花を見る人間が来た』と」
陽菜さんの目が見開かれる。
俺も息を呑んだ。
この老婆は——何者なんだ?
「さあ、中へどうぞ。ゆっくり休んでいってくださいな」
老婆が手招きする。
俺たちは顔を見合わせてから——
翠明館の扉をくぐった。
そこには——
俺たちの想像を超える、特別な場所が待っていた。




