表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

3/16

第二章 ――「見る」ことの本当の意味――

 第六層に入ると、景色が少しずつ変わり始めた。


 ブナやミズナラの広葉樹林は徐々に姿を消し、代わりにシラビソやコメツガの針葉樹が増えてくる。

 空気が一段と冷たくなり、肺に吸い込むたびにひんやりとした清涼感が広がった。


 標高は二千メートルを超えている。



 俺、橘蒼太は軽く息を整えながら、横を歩く陽菜さんの様子を確認した。


 彼女は少し疲れているようだったが、表情は明るい。

 トレッキングポールを使って、リズミカルに足を進めている。



「大丈夫ですか?」


「はい。この空気、気持ちいいですね」


 陽菜さんが微笑む。


 彼女はワイヤーフレームで周囲を見ているはずだが、時々目を閉じて風を感じている。

 まるで景色を心で読み取っているかのように——



「この香り……針葉樹の森ですね」


「ええ、シラビソとコメツガの林です」


「樹脂の香りが濃くて、少し甘い。それに……」


 陽菜さんが立ち止まり、深呼吸をする。



「霧が出始めてます。湿度が上がってきました」


 俺は周囲を見回した。


 確かに、薄く白い霧が森の奥から漂ってきている。

 視界が少しずつ狭くなっていく——



「すごいですね。俺には全然分からなかった」


「慣れですよ。失明してから、湿度の変化に敏感になったんです」


 陽菜さんが少し照れたように笑う。


 その仕草が、妙に可愛らしかった。



 ◇◇◇



 霧はどんどん濃くなっていった。


 十メートル先がぼんやりと霞み、森全体が白いベールに包まれていく。

 幻想的な光景だが——同時に不安も募る。



「陽菜さん、大丈夫ですか? 霧で道が……」


「大丈夫です。むしろ、今の方が分かりやすいくらいで」


「え?」


 陽菜さんが目を閉じて、風に顔を向ける。



「霧の中だと、音の反響が変わるんです。木の配置、岩の位置、道の傾斜——全部、音が教えてくれます」


 彼女がトレッキングポールで地面を軽く叩く。


「それに、足元の感触も。土の湿り具合、石の配置。踏み固められた道は、他と違う硬さがあるんです」


 俺は驚愕した。


 彼女は目が見えないのに——いや、目が見えないからこそ——俺よりもずっと正確に周囲を把握している。



「じゃあ、陽菜さんが先導してくれますか?」


「はい。蒼太さん、私の後ろをついてきてください」


 彼女が自信を持って言う。


 その姿が、とても頼もしく見えた。



 ◇◇◇



 陽菜さんの指示通りに進むと、霧の森を迷うことなく抜けられた。


 彼女は時々立ち止まっては、風の音を聞き、地面の傾斜を確かめる。

 まるで山そのものと対話しているかのように——



「あの……陽菜さん」


「はい?」


「すごいですね。俺、完全に迷子になるところでした」


 俺は正直に白状した。


「霧で何も見えなくて、地図も役に立たなくて」


 陽菜さんがクスッと笑う。



「蒼太さん、地図また逆さまに見てませんでしたか?」


「……なんで分かるんですか」


「だって、さっき『こっちが北だから』って言いながら、南を指してましたよ」


「あ……」


 俺は顔を赤らめた。


 陽菜さんが優しく笑う。



「でも、蒼太さんがいてくれて良かったです。一人だったら、きっと不安で立ち止まってました」


「いや、俺の方こそ……陽菜さんがいなかったら、今頃霧の中で遭難してました」


 二人で笑い合う。



 気づけば、出会ってからまだ数時間しか経っていないのに——もう何年も一緒にいるような、不思議な親近感があった。



 ◇◇◇



 第七層を抜けると、霧が晴れて視界が開けた。


 目の前には、小さな山小屋が見えてくる。



「……あれが南竜山荘ですね」


「はい。休憩所があるはずです」



 陽菜さんが少しホッとした表情を見せる。


 俺も安堵した。正直、かなり疲れていた。



 山小屋に近づくと、玄関から若い女性が顔を出した。


「いらっしゃい! お疲れ様です!」


 明るく元気な声。


 二十代半ばくらいの女性で、ショートカットの髪に探索者のバッジが光っている。Cランクの証だ。



「ようこそ南竜山荘へ! 軽食と休憩、どうぞごゆっくり!」


 彼女が笑顔で迎えてくれる。


 山小屋の中は、木の温もりに溢れていた。



 ◇◇◇



 軽食堂には長いテーブルが並び、窓からは白山の森が見渡せる。


 俺たちは窓際の席に座り、注文したうどんを待った。


「ふう……やっと座れましたね」


 陽菜さんがトレッキングポールを横に置く。



「疲れましたか?」


「少しだけ。でも、楽しいです」


 彼女が微笑む。


 その笑顔を見ていると、俺の心も温かくなった。



 管理人の女性がうどんを運んできてくれる。


「はい、お待たせしました! 山菜うどん二つです!」


「ありがとうございます」



 湯気が立ち上る熱々のうどん。

 山菜の香りが食欲をそそる。


「いただきます」


 二人で箸を取る。



 陽菜さんは少し慎重に箸を動かしながら、器の位置を確かめている。

 俺が何か手伝おうとすると——


「大丈夫です。一人で食べられますから」


 彼女が優しく言う。


 俺は黙って見守ることにした。



 陽菜さんは器を持ち、箸で麺を探り、ゆっくりと口に運ぶ。

 何も問題ない。

 むしろ、とても上品な食べ方だった。


「……美味しいです」


 陽菜さんが微笑む。


「本当ですね。出汁が効いてて」


 二人で静かに食事を楽しむ。



 窓の外では、森の木々が風に揺れている。

 鳥のさえずりが聞こえる。


 平和な時間——


 そう思っていた。



 ◇◇◇



 食事を終えた頃、管理人の女性が心配そうな表情で近づいてきた。


「あの……お二人とも、これから上の層に向かわれるんですよね?」


「はい」


 俺が答える。


 彼女が少し声を落とした。



「……実は、最近ちょっと問題が起きてまして」


「問題?」


 陽菜さんが首を傾げる。



 管理人が申し訳なさそうに続ける。


「盗賊が出てるんです」


 その言葉に、俺の背筋が凍った。



「盗賊……ですか?」


「はい。特に第十五層から二十層あたりの『お花畑エリア』で被害が増えてて」

 彼女が深刻な表情で説明する。



「あの辺りは観光目的の探索者が多くて、戦闘力が低い人ばかり狙われてるんです」


「初心者グループや、女性の単独行、それに――」

 彼女が申し訳なさそうに陽菜さんをチラリと見る。


「身体に障がいのある方も、狙われやすいと……」



 俺は思わず拳を握りしめた。


(卑怯な……弱い者ばかり狙うなんて)


 管理人が続ける。



「装備を奪われたり、ワープアイテムを強奪されたり」


「幸い死者は出ていませんが、怪我人は何人も」


「パトロール探索者も巡回してるんですけど、広いエリアだから追いつかなくて……」


 陽菜さんの表情が少し曇る。


 俺は思わず彼女の肩に手を置いた。



「大丈夫です。俺が絶対に守りますから」


「蒼太さん……」


「それに――」


 俺は力強く言った。


「陽菜さんは弱くない。一緒に乗り越えましょう」


 彼女が思い出したように付け加える。



「そういえば、『アストラル』って影のヒーローが最近話題になってるんですよ」


「アストラル?」


 俺が聞き返す。


「東京のダンジョンで悪党を退治してる正義の味方らしいです。黒いマントに白い仮面で——」


 管理人が少し夢見るような表情で。


「こっちにも来てくれたらいいのに……」


 俺は苦笑した。



「ヒーローか……でも、ここは平和な花の山でしょ?」


「それが……」


 管理人の表情が再び曇る。



「夏の観光シーズンだからこそ、人が多くて盗賊も活発になるんです」


「秋から春の戦闘シーズンは、プロの探索者ばかりだから盗賊も手を出せない」


「でも夏は……初心者や観光客ばかりだから、格好の標的なんです」



 俺は歯噛みした。


 確かに、俺たちは狙われやすい。


 Dランクの平凡な探索者と、Fランクの視覚障がい者——



「……蒼太さん」


 陽菜さんが小さく呼びかける。


「はい」


「もしかして、私が足手まといになってますか?」



 その言葉に、俺は慌てて首を横に振った。


「違います! 全然そんなことない!」


「でも……」


「陽菜さんがいなかったら、俺はとっくに迷子になってます」


 俺は真剣に言った。


「それに、一緒に山頂まで行くって約束したじゃないですか」


「……蒼太さん」


 陽菜さんの目が潤む。



 管理人が優しく微笑む。


「お二人、仲がいいんですね」


「え、あ、いや……」


 俺は慌てて否定しようとして——やめた。


 確かに、仲良くなっている。


 出会ってまだ半日も経っていないのに。



「油断は禁物ですよ」


 管理人が真剣な表情に戻る。


「特に陽菜さんは……その、目が不自由だから狙われやすいかも」


 陽菜さんが少し俯く。



 俺は彼女の肩に手を置いた。


「大丈夫です。俺が絶対に守りますから」


「蒼太さん……」


「それに、陽菜さんは強いじゃないですか。霧の中だって、迷わず道を見つけた」


 陽菜さんが微笑む。


 その笑顔が、少し不安げだけど——それでも前を向こうとしている強さを感じた。



 ◇◇◇



 食堂の隣のテーブルに、包帯を巻いた若い男性探索者のグループが座っていた。


 三人組で、全員が疲れ果てた表情をしている。



「……大丈夫か、君たち」


 ベテラン風の探索者のおじさんが心配そうに声をかける。


「はい……なんとか」


 若い男性が力なく答える。


「ひどい怪我じゃないか。何があった?」



「……第十六層で、盗賊に襲われたんです」


 その言葉に、食堂全体がざわめいた。


 俺と陽菜さんも思わず聞き耳を立てる。



「五人組でした。リーダーは『鉄拳のグレン』って名乗ってて……」


 若い探索者が悔しそうに拳を握る。


「『Dランクのガキ三人なら楽勝だ』って、笑いながら……」


 彼の声が悔しさで震える。


「モンスターじゃなくて、人間に襲われるなんて思ってなくて……」



「装備は全部奪われました。ワープアイテムも取られて……」


 彼の声が震える。


「歩いてここまで来るのがやっとで……」



 ベテラン探索者が深刻な表情で頷く。


「そうか……災難だったな」


 管理人の女性が彼らに温かいスープを運んでいく。


「治療はしっかりしますから。ゆっくり休んでください」


「ありがとうございます……」


 若い探索者が涙目で礼を言う。



 俺は拳を握りしめた。


 盗賊——


 こんな平和な山で、人間が人間を襲う。


 信じられない。許せない。



「蒼太さん」


 陽菜さんが不安そうに呼びかける。


「はい」


「……やっぱり、私は足手まといですよね」


「違います」


 俺は即座に否定した。



「陽菜さんがいてくれるから、俺も頑張れるんです」


「でも……」


「大丈夫。俺が絶対に守ります」


 俺は彼女の手を握った。


 細くて、少し冷たい手。


 でも——その手を、絶対に離さない。



 ◇◇◇



 南竜山荘を出発する前に、管理人の女性が小さな鈴を二つ取り出した。


「これ、持っていってください」


「これは……?」


「緊急召喚の鈴です。強く振れば、近くのパトロール探索者に信号が届きます」


 彼女が真剣な表情で言う。



「それと……もし万が一の時は」


 彼女が俺たちをじっと見つめる。


「戦わずに逃げてください。命より大切なものはありません」


 陽菜さんが頷く。


「……分かりました」


 俺も鈴を受け取る。


 でも——心の中で思った。



(逃げる……?)


(陽菜さんは走って逃げるのも難しい)


(もし本当に襲われたら……)


(俺が盾になるしかない)



 俺は拳を握りしめた。


 絶対に、陽菜さんを守る。


 どんなことがあっても——


「蒼太さん、行きましょう」


 陽菜さんが微笑む。



 その笑顔には、不安もあるけれど——それでも前を向こうとする強さがあった。


「はい。山頂まで、一緒に」


 俺は彼女と並んで歩き出した。


 管理人の女性が玄関で手を振っている。


「気をつけて! お二人とも、無事に山頂まで!」


「ありがとうございます!」


 俺たちは南竜山荘を後にした。



 ◇◇◇



 第八層を抜けて、第九層への道を進む。


 周囲の森は少しずつ変化していく。

 針葉樹の密度が増し、空気がさらに冷たくなっていく。


 でも——


 俺の心には、妙な不安が残っていた。



 盗賊。


 『鉄拳のグレン』。


 五人組。


 もし本当に襲われたら——



「蒼太さん、大丈夫ですか?」


 陽菜さんが心配そうに声をかける。


「え?」


「息が荒いです。緊張してますか?」


 俺は驚いた。


 彼女は目が見えないのに、俺の呼吸の変化まで感じ取っている。


「……少し」


 俺は正直に答えた。



「盗賊のことが気になって」


「私もです」


 陽菜さんが小さく笑う。



「でも、蒼太さんがいてくれるから大丈夫です」


「……本当ですか?」


「はい。蒼太さんは、優しくて頼りになる人です」


 彼女が真剣に言う。


「それに——」


 陽菜さんが俺の方を向く。


 焦点の合わない灰色の瞳が、でも確かに俺を見つめているような——



「私も、蒼太さんを守りたいんです」


 その言葉に、俺の胸が熱くなった。


「……ありがとうございます」


「こちらこそ」


 二人で微笑み合う。


 そして——


 俺たちは、次の層へと足を踏み入れた。



 ◇◇◇



 第九層の入口で、俺は足を止めた。


 遠くから——何か、不穏な気配を感じた気がした。


「蒼太さん?」


「いや……気のせいかも」


 俺は首を横に振る。



 でも——


 心のどこかで、警戒心が芽生え始めていた。


 これから先の道のりは、もしかしたら平和ではないかもしれない——


 そんな予感が、俺の胸をざわつかせていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ