第二章 ――「見る」ことの本当の意味――
第六層に入ると、景色が少しずつ変わり始めた。
ブナやミズナラの広葉樹林は徐々に姿を消し、代わりにシラビソやコメツガの針葉樹が増えてくる。
空気が一段と冷たくなり、肺に吸い込むたびにひんやりとした清涼感が広がった。
標高は二千メートルを超えている。
俺、橘蒼太は軽く息を整えながら、横を歩く陽菜さんの様子を確認した。
彼女は少し疲れているようだったが、表情は明るい。
トレッキングポールを使って、リズミカルに足を進めている。
「大丈夫ですか?」
「はい。この空気、気持ちいいですね」
陽菜さんが微笑む。
彼女はワイヤーフレームで周囲を見ているはずだが、時々目を閉じて風を感じている。
まるで景色を心で読み取っているかのように——
「この香り……針葉樹の森ですね」
「ええ、シラビソとコメツガの林です」
「樹脂の香りが濃くて、少し甘い。それに……」
陽菜さんが立ち止まり、深呼吸をする。
「霧が出始めてます。湿度が上がってきました」
俺は周囲を見回した。
確かに、薄く白い霧が森の奥から漂ってきている。
視界が少しずつ狭くなっていく——
「すごいですね。俺には全然分からなかった」
「慣れですよ。失明してから、湿度の変化に敏感になったんです」
陽菜さんが少し照れたように笑う。
その仕草が、妙に可愛らしかった。
◇◇◇
霧はどんどん濃くなっていった。
十メートル先がぼんやりと霞み、森全体が白いベールに包まれていく。
幻想的な光景だが——同時に不安も募る。
「陽菜さん、大丈夫ですか? 霧で道が……」
「大丈夫です。むしろ、今の方が分かりやすいくらいで」
「え?」
陽菜さんが目を閉じて、風に顔を向ける。
「霧の中だと、音の反響が変わるんです。木の配置、岩の位置、道の傾斜——全部、音が教えてくれます」
彼女がトレッキングポールで地面を軽く叩く。
「それに、足元の感触も。土の湿り具合、石の配置。踏み固められた道は、他と違う硬さがあるんです」
俺は驚愕した。
彼女は目が見えないのに——いや、目が見えないからこそ——俺よりもずっと正確に周囲を把握している。
「じゃあ、陽菜さんが先導してくれますか?」
「はい。蒼太さん、私の後ろをついてきてください」
彼女が自信を持って言う。
その姿が、とても頼もしく見えた。
◇◇◇
陽菜さんの指示通りに進むと、霧の森を迷うことなく抜けられた。
彼女は時々立ち止まっては、風の音を聞き、地面の傾斜を確かめる。
まるで山そのものと対話しているかのように——
「あの……陽菜さん」
「はい?」
「すごいですね。俺、完全に迷子になるところでした」
俺は正直に白状した。
「霧で何も見えなくて、地図も役に立たなくて」
陽菜さんがクスッと笑う。
「蒼太さん、地図また逆さまに見てませんでしたか?」
「……なんで分かるんですか」
「だって、さっき『こっちが北だから』って言いながら、南を指してましたよ」
「あ……」
俺は顔を赤らめた。
陽菜さんが優しく笑う。
「でも、蒼太さんがいてくれて良かったです。一人だったら、きっと不安で立ち止まってました」
「いや、俺の方こそ……陽菜さんがいなかったら、今頃霧の中で遭難してました」
二人で笑い合う。
気づけば、出会ってからまだ数時間しか経っていないのに——もう何年も一緒にいるような、不思議な親近感があった。
◇◇◇
第七層を抜けると、霧が晴れて視界が開けた。
目の前には、小さな山小屋が見えてくる。
「……あれが南竜山荘ですね」
「はい。休憩所があるはずです」
陽菜さんが少しホッとした表情を見せる。
俺も安堵した。正直、かなり疲れていた。
山小屋に近づくと、玄関から若い女性が顔を出した。
「いらっしゃい! お疲れ様です!」
明るく元気な声。
二十代半ばくらいの女性で、ショートカットの髪に探索者のバッジが光っている。Cランクの証だ。
「ようこそ南竜山荘へ! 軽食と休憩、どうぞごゆっくり!」
彼女が笑顔で迎えてくれる。
山小屋の中は、木の温もりに溢れていた。
◇◇◇
軽食堂には長いテーブルが並び、窓からは白山の森が見渡せる。
俺たちは窓際の席に座り、注文したうどんを待った。
「ふう……やっと座れましたね」
陽菜さんがトレッキングポールを横に置く。
「疲れましたか?」
「少しだけ。でも、楽しいです」
彼女が微笑む。
その笑顔を見ていると、俺の心も温かくなった。
管理人の女性がうどんを運んできてくれる。
「はい、お待たせしました! 山菜うどん二つです!」
「ありがとうございます」
湯気が立ち上る熱々のうどん。
山菜の香りが食欲をそそる。
「いただきます」
二人で箸を取る。
陽菜さんは少し慎重に箸を動かしながら、器の位置を確かめている。
俺が何か手伝おうとすると——
「大丈夫です。一人で食べられますから」
彼女が優しく言う。
俺は黙って見守ることにした。
陽菜さんは器を持ち、箸で麺を探り、ゆっくりと口に運ぶ。
何も問題ない。
むしろ、とても上品な食べ方だった。
「……美味しいです」
陽菜さんが微笑む。
「本当ですね。出汁が効いてて」
二人で静かに食事を楽しむ。
窓の外では、森の木々が風に揺れている。
鳥のさえずりが聞こえる。
平和な時間——
そう思っていた。
◇◇◇
食事を終えた頃、管理人の女性が心配そうな表情で近づいてきた。
「あの……お二人とも、これから上の層に向かわれるんですよね?」
「はい」
俺が答える。
彼女が少し声を落とした。
「……実は、最近ちょっと問題が起きてまして」
「問題?」
陽菜さんが首を傾げる。
管理人が申し訳なさそうに続ける。
「盗賊が出てるんです」
その言葉に、俺の背筋が凍った。
「盗賊……ですか?」
「はい。特に第十五層から二十層あたりの『お花畑エリア』で被害が増えてて」
彼女が深刻な表情で説明する。
「あの辺りは観光目的の探索者が多くて、戦闘力が低い人ばかり狙われてるんです」
「初心者グループや、女性の単独行、それに――」
彼女が申し訳なさそうに陽菜さんをチラリと見る。
「身体に障がいのある方も、狙われやすいと……」
俺は思わず拳を握りしめた。
(卑怯な……弱い者ばかり狙うなんて)
管理人が続ける。
「装備を奪われたり、ワープアイテムを強奪されたり」
「幸い死者は出ていませんが、怪我人は何人も」
「パトロール探索者も巡回してるんですけど、広いエリアだから追いつかなくて……」
陽菜さんの表情が少し曇る。
俺は思わず彼女の肩に手を置いた。
「大丈夫です。俺が絶対に守りますから」
「蒼太さん……」
「それに――」
俺は力強く言った。
「陽菜さんは弱くない。一緒に乗り越えましょう」
彼女が思い出したように付け加える。
「そういえば、『アストラル』って影のヒーローが最近話題になってるんですよ」
「アストラル?」
俺が聞き返す。
「東京のダンジョンで悪党を退治してる正義の味方らしいです。黒いマントに白い仮面で——」
管理人が少し夢見るような表情で。
「こっちにも来てくれたらいいのに……」
俺は苦笑した。
「ヒーローか……でも、ここは平和な花の山でしょ?」
「それが……」
管理人の表情が再び曇る。
「夏の観光シーズンだからこそ、人が多くて盗賊も活発になるんです」
「秋から春の戦闘シーズンは、プロの探索者ばかりだから盗賊も手を出せない」
「でも夏は……初心者や観光客ばかりだから、格好の標的なんです」
俺は歯噛みした。
確かに、俺たちは狙われやすい。
Dランクの平凡な探索者と、Fランクの視覚障がい者——
「……蒼太さん」
陽菜さんが小さく呼びかける。
「はい」
「もしかして、私が足手まといになってますか?」
その言葉に、俺は慌てて首を横に振った。
「違います! 全然そんなことない!」
「でも……」
「陽菜さんがいなかったら、俺はとっくに迷子になってます」
俺は真剣に言った。
「それに、一緒に山頂まで行くって約束したじゃないですか」
「……蒼太さん」
陽菜さんの目が潤む。
管理人が優しく微笑む。
「お二人、仲がいいんですね」
「え、あ、いや……」
俺は慌てて否定しようとして——やめた。
確かに、仲良くなっている。
出会ってまだ半日も経っていないのに。
「油断は禁物ですよ」
管理人が真剣な表情に戻る。
「特に陽菜さんは……その、目が不自由だから狙われやすいかも」
陽菜さんが少し俯く。
俺は彼女の肩に手を置いた。
「大丈夫です。俺が絶対に守りますから」
「蒼太さん……」
「それに、陽菜さんは強いじゃないですか。霧の中だって、迷わず道を見つけた」
陽菜さんが微笑む。
その笑顔が、少し不安げだけど——それでも前を向こうとしている強さを感じた。
◇◇◇
食堂の隣のテーブルに、包帯を巻いた若い男性探索者のグループが座っていた。
三人組で、全員が疲れ果てた表情をしている。
「……大丈夫か、君たち」
ベテラン風の探索者のおじさんが心配そうに声をかける。
「はい……なんとか」
若い男性が力なく答える。
「ひどい怪我じゃないか。何があった?」
「……第十六層で、盗賊に襲われたんです」
その言葉に、食堂全体がざわめいた。
俺と陽菜さんも思わず聞き耳を立てる。
「五人組でした。リーダーは『鉄拳のグレン』って名乗ってて……」
若い探索者が悔しそうに拳を握る。
「『Dランクのガキ三人なら楽勝だ』って、笑いながら……」
彼の声が悔しさで震える。
「モンスターじゃなくて、人間に襲われるなんて思ってなくて……」
「装備は全部奪われました。ワープアイテムも取られて……」
彼の声が震える。
「歩いてここまで来るのがやっとで……」
ベテラン探索者が深刻な表情で頷く。
「そうか……災難だったな」
管理人の女性が彼らに温かいスープを運んでいく。
「治療はしっかりしますから。ゆっくり休んでください」
「ありがとうございます……」
若い探索者が涙目で礼を言う。
俺は拳を握りしめた。
盗賊——
こんな平和な山で、人間が人間を襲う。
信じられない。許せない。
「蒼太さん」
陽菜さんが不安そうに呼びかける。
「はい」
「……やっぱり、私は足手まといですよね」
「違います」
俺は即座に否定した。
「陽菜さんがいてくれるから、俺も頑張れるんです」
「でも……」
「大丈夫。俺が絶対に守ります」
俺は彼女の手を握った。
細くて、少し冷たい手。
でも——その手を、絶対に離さない。
◇◇◇
南竜山荘を出発する前に、管理人の女性が小さな鈴を二つ取り出した。
「これ、持っていってください」
「これは……?」
「緊急召喚の鈴です。強く振れば、近くのパトロール探索者に信号が届きます」
彼女が真剣な表情で言う。
「それと……もし万が一の時は」
彼女が俺たちをじっと見つめる。
「戦わずに逃げてください。命より大切なものはありません」
陽菜さんが頷く。
「……分かりました」
俺も鈴を受け取る。
でも——心の中で思った。
(逃げる……?)
(陽菜さんは走って逃げるのも難しい)
(もし本当に襲われたら……)
(俺が盾になるしかない)
俺は拳を握りしめた。
絶対に、陽菜さんを守る。
どんなことがあっても——
「蒼太さん、行きましょう」
陽菜さんが微笑む。
その笑顔には、不安もあるけれど——それでも前を向こうとする強さがあった。
「はい。山頂まで、一緒に」
俺は彼女と並んで歩き出した。
管理人の女性が玄関で手を振っている。
「気をつけて! お二人とも、無事に山頂まで!」
「ありがとうございます!」
俺たちは南竜山荘を後にした。
◇◇◇
第八層を抜けて、第九層への道を進む。
周囲の森は少しずつ変化していく。
針葉樹の密度が増し、空気がさらに冷たくなっていく。
でも——
俺の心には、妙な不安が残っていた。
盗賊。
『鉄拳のグレン』。
五人組。
もし本当に襲われたら——
「蒼太さん、大丈夫ですか?」
陽菜さんが心配そうに声をかける。
「え?」
「息が荒いです。緊張してますか?」
俺は驚いた。
彼女は目が見えないのに、俺の呼吸の変化まで感じ取っている。
「……少し」
俺は正直に答えた。
「盗賊のことが気になって」
「私もです」
陽菜さんが小さく笑う。
「でも、蒼太さんがいてくれるから大丈夫です」
「……本当ですか?」
「はい。蒼太さんは、優しくて頼りになる人です」
彼女が真剣に言う。
「それに——」
陽菜さんが俺の方を向く。
焦点の合わない灰色の瞳が、でも確かに俺を見つめているような——
「私も、蒼太さんを守りたいんです」
その言葉に、俺の胸が熱くなった。
「……ありがとうございます」
「こちらこそ」
二人で微笑み合う。
そして——
俺たちは、次の層へと足を踏み入れた。
◇◇◇
第九層の入口で、俺は足を止めた。
遠くから——何か、不穏な気配を感じた気がした。
「蒼太さん?」
「いや……気のせいかも」
俺は首を横に振る。
でも——
心のどこかで、警戒心が芽生え始めていた。
これから先の道のりは、もしかしたら平和ではないかもしれない——
そんな予感が、俺の胸をざわつかせていた。




