エピローグ
下山の道は、登りよりもずっと楽だった。
俺、橘蒼太と桜庭陽菜は、手を取り合いながらゆっくりと山を下りていく。
標高が下がるにつれて、空気が濃くなっていく。
呼吸が楽になり、体も軽くなっていく。
でも——
心の中には、山頂での時間がしっかりと刻まれていた。
「蒼太さん」
陽菜さんが嬉しそうに言う。
「私たち、本当に登り切ったんですね」
「ええ」
俺も微笑む。
「陽菜さんと一緒に」
彼女の手を、もう一度ぎゅっと握りしめた。
細くて、温かい手。
もう二度と、離したくない。
◇◇◇
第十五層まで下りてくると、あの美しいお花畑が再び広がっていた。
ニッコウキスゲの黄色い海。
でも——登りの時とは、何かが違う。
同じ景色なのに——
もっと美しく見える。
もっと温かく感じる。
それは——
陽菜さんと一緒だから。
彼女と想いを確かめ合えたから。
「蒼太さん、写真を撮らないんですか?」
陽菜さんが不思議そうに尋ねる。
「あ、そうだ」
俺は慌ててカメラを取り出した。
でも——
ファインダーを覗いた瞬間、俺は気づいた。
撮りたいのは——
花の海じゃない。
俺の隣で微笑む、陽菜さんの姿だ。
「陽菜さん、こっち向いてください」
「え? でも、私——」
「いいんです。そのままで」
陽菜さんが少し照れたように頬を染める。
風が彼女の髪をなびかせ、ニッコウキスゲの花びらが舞い上がる。
その瞬間——
カシャン。
俺は、この旅で一番大切な一枚を撮った。
◇◇◇
翠明館に立ち寄ると、ヤマブキが温かく迎えてくれた。
「おかえりなさい」
彼女が優しく微笑む。
「山頂まで——行けましたか?」
「はい!」
陽菜さんが嬉しそうに答える。
「翠ヶ池も、花も、全部——心で見てきました」
ヤマブキが満足そうに頷く。
「それは良かった」
そして——彼女が俺たちの繋いだ手を見て、少しいたずらっぽく微笑んだ。
「ふふ……それに、大切なものも見つけたようですね」
俺と陽菜さんは、同時に顔を赤らめた。
「あ、いや、その……」
「素敵なことです」
ヤマブキが優しく言う。
「山は——ただ登るだけの場所ではありません」
「自分と向き合い、誰かと出会い、心を通わせる場所」
「二人は——白山の祝福を受けたのですよ」
その言葉に——
俺たちは顔を見合わせて、微笑み合った。
◇◇◇
白山の麓に着いたのは、夕方近くだった。
オレンジ色の夕日が、山を照らしている。
駐車場には、観光客や探索者たちが何人も休んでいた。
でも——
俺たちは、もう少しだけ寄り道をすることにした。
「陽菜さん、お祖母さんのお墓——近くですか?」
「いえ、お墓は東京なんです」
陽菜さんが少し考えてから言う。
「でも——祖母が好きだった場所があるんです」
「白山比咩神社の境内」
「そこで——お礼を言いたいんです」
俺は頷いた。
「行きましょう」
◇◇◇
白山比咩神社は、白山ダンジョン入口から山を下った麓にあった。
古い石段を登ると、静かな境内が広がっている。
陽菜さんと俺は、本殿の前で手を合わせた。
夕日が、俺たちを優しく照らしていた。
「蒼太さん」
陽菜さんが、俺の手を握る。
「次は——どこの山に登りましょうか?」
その言葉に、俺は微笑んだ。
「陽菜さんが行きたい場所なら、どこでも」
「俺が——ずっと一緒にいますから」
陽菜さんが、嬉しそうに笑う。
「じゃあ——富士山とか、どうでしょう?」
「いいですね」
「でも、その前に——」
俺は、陽菜さんの手を強く握る。
「まずは、普通のデートもしましょう」
「映画とか、水族館とか」
陽菜さんが、顔を赤らめる。
「はい——楽しみです」
風が——
優しく吹いた。
俺たちの、新しい未来を祝福するかのように。
◇◇◇
神社を出て、駐車場に戻る道を歩いていると——
俺は、ふとカメラを見つめた。
半年以上、触れていなかったこのカメラ。
でも今——
もう一度、写真を撮りたいと心から思う。
「陽菜さん」
「はい?」
「俺——もう一度、写真を撮ろうと思います」
俺は真剣に言った。
「カメラマンに、もう一度挑戦します」
「でも今度は——『見るため』じゃなくて、『感じるため』の写真を」
陽菜さんが嬉しそうに微笑む。
「素敵です」
「陽菜さんが教えてくれたんです」
俺はカメラを見つめる。
「写真は——目で見るものじゃない」
「心で感じるもの、伝えるもの」
「だから——」
俺は陽菜さんの方を向く。
「いつか、写真展を開きます」
「陽菜さんにも『感じてもらえる』写真展を」
陽菜さんの目が潤んだ。
「……私も、蒼太さんの写真を『感じたい』です」
「香りや音で、触感で——」
「蒼太さんの写真を、心で感じに行きますから」
「いつか、写真展を開いたら——必ず教えてください」
その言葉に——
俺は思わず、陽菜さんを抱きしめた。
「……はい。必ず」
◇◇◇
駐車場に着くと、もう夜になっていた。
満天の星空が、頭上に広がっている。
「綺麗ですね……」
陽菜さんが空を見上げる。
焦点の合わない灰色の瞳が——でも、確かに星を見つめているような——
「今日は——本当に、ありがとうございました」
彼女が俺の方を向く。
「蒼太さんがいてくれたから、山頂まで行けました」
「それに——」
陽菜さんが頬を染める。
「想いも、伝えられました」
俺も頷いた。
「こちらこそ」
「陽菜さんと出会えて——本当に良かった」
二人で——
最後にもう一度、白山を見上げた。
夜空に浮かぶ、黒いシルエット。
でも——その山は、もう怖くない。
むしろ——
温かい思い出に満ちた、大切な場所になった。
「また——来ましょうね」
陽菜さんが微笑む。
「はい。必ず」
俺も微笑んだ。
そして——
二人で、駅への道を歩き始めた。
手を繋いで。
新しい未来へと——
◇◇◇
でも——
俺たちは気づいていなかった。
少し離れた木陰から——
二人の人影が、俺たちを見守っていたことに。
「……アスちゃん、あの二人良かったね〜!」
見えない少女——ククルが嬉しそうに言う。
「ああ」
黒いマントの男——アストラルが満足そうに頷く。
「良い結末だった」
ククルが不思議そうに尋ねる。
「でも、何でまだいるの? 埼玉に帰るんじゃなかったの?」
「……最後まで、見届けたかったんだ」
アストラルが少し照れたように言う。
「あの二人が——ちゃんと幸せになれるか」
ククルがニヤリと笑う。
「アスちゃん、優しい〜♪」
「う、うるさい!」
アストラルが慌てて否定する。
「ヒーローとして当然のことをしただけだ!」
ククルが楽しそうに笑う。
風が優しく吹いて、木の葉を揺らす。
「じゃあ——帰ろっか」
ククルが言う。
「志桜里ちゃんたちが待ってるよ〜」
「ああ」
アストラルがマントを翻す。
「埼玉に戻るか」
二人が——
いや、影のヒーローと見えない少女が——
颯爽と夜の闇に消えていった。
新しい冒険へと——
困っている誰かを助けるために——
◇◇◇
俺、橘蒼太は——
後日、このことを思い出しながら、一人呟いた。
目が見えなくても、心で見ることはできる。
花の色も、人の優しさも、この世界の美しさも——
すべては心が教えてくれる。
陽菜さんが教えてくれた、本当の『見る』ことの意味。
俺は今日から、新しい目でこの世界を見ていこうと思う。
視覚だけに頼らない。
心で感じることを——写真に込めていく。
そして——
陽菜さんの隣で、ずっと歩いていきたい。
新しい山へ。
新しい景色へ。
新しい未来へ——
◇◇◇
数ヶ月後。
東京のとある小さなギャラリーで——
俺の初めての写真展が開かれた。
タイトルは——
『心で見る世界』
会場には——
白山で撮った写真が並んでいる。
でも——
ただの風景写真じゃない。
それぞれの写真に——
香りのサンプル、触れる素材、音声ガイドが添えられている。
目が見えない人でも——
『感じられる』写真展。
そして——
会場の中央には、一枚の写真が飾られていた。
ニッコウキスゲの花畑で微笑む、陽菜さんの姿。
その写真の下には——
小さなプレートが置かれている。
『この旅で出会った、最も美しい花』
会場には——
たくさんの人が訪れてくれた。
視覚障がい者の方も、健常者の方も——
みんなが、俺の写真を『感じて』くれた。
そして——
開催初日。
会場に、一人の女性が訪れた。
長い黒髪をポニーテールにまとめた、美しい女性。
トレッキングポールを持ち、ゆっくりと会場を歩いている。
「陽菜さん」
俺は彼女の名を呼んだ。
「蒼太さん」
陽菜さんが微笑む。
「来ましたよ。約束通り」
俺は彼女の手を取って——
一枚ずつ、写真を『案内』していった。
香りを嗅いでもらい、素材に触れてもらい、音を聞いてもらう。
陽菜さんは——
目を閉じて、心で『見て』いた。
「……見えます」
彼女が微笑む。
「蒼太さんの写真、全部——心で見えます」
その言葉に——
俺の目から、涙が溢れた。
◇◇◇
写真展の最終日。
閉館後、俺と陽菜さんは二人きりになった。
「蒼太さん」
「はい?」
「次は——どこに登りますか?」
陽菜さんが楽しそうに尋ねる。
俺は少し考えてから——
「富士山は——どうですか?」
陽菜さんが驚いたように目を見開く。
「本当ですか!?」
「ええ。約束しましたから」
俺は彼女の手を握る。
「一緒に——日本一高い山に登りましょう」
陽菜さんが涙を浮かべて微笑んだ。
「……はい!」
そして——
俺たちは、新しい冒険への準備を始めた。
目が見えても、見えなくても——
心で感じることができれば、どこまでも行ける。
それが——
白山が教えてくれた、最も大切なことだった。
◇◇◇
遠く、東京のどこかで——
黒いマントのヒーローが、小さく微笑んでいた。
「良かったな、ククル」
「うん! あの二人、本当に幸せそう!」
見えない少女が嬉しそうに答える。
「俺たちも——頑張らないとな」
「うん! 次は誰を助けに行くの?」
「さあな」
アストラルがマントを翻す。
「でも——きっと、どこかに困ってる誰かがいる」
「だから——行くぞ、ククル」
「はーい!」
二人が——
夜の街へと消えていく。
影のヒーローは——
今日も、誰かを助けるために戦い続ける。
それが——
彼の使命だから。
◇◇◇
白山の花、心に咲いて。
目が見えなくても、心で見ることができる。
それを教えてくれた、一人の少女。
彼女と出会えたことが——
俺の人生を、大きく変えた。
これからも——
ずっと一緒に、歩いていこう。
新しい山へ。
新しい景色へ。
新しい未来へ——
白山の花は——
今も、俺たちの心に咲いている。
外伝1 「白山ダンジョン ——風に導かれた出会いと花咲く約束——」 ——完——




