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4-5

 第三十層への道は――


 これまでで最も険しかった。


 岩と残雪だけの世界。


 一歩間違えれば、滑落する危険がある。



 でも――


 俺たちは、慎重に、確実に進んでいく。


 陽菜さんの足取りは疲れているが――その瞳には、確かな決意が宿っている。



「あと――少しですね」


 陽菜さんが息を切らしながら言う。


「ええ。もうすぐです」


 俺も同じように息を整える。



 空気が本当に薄い。


 でも――


 もう諦めない。


 ここまで来たんだ。


 絶対に――山頂に辿り着く。



 ◇◇◇



 そして――


 ついに。


 最後の岩場を登り切った瞬間――



 世界が、変わった。


 目の前に広がるのは――


 まさに天空の楽園だった。



 御前峰山頂。


 標高二千七百二メートル。


 雲海が眼下に広がり、遠くの山々が朝日に照らされて金色に輝いている。



 そして――


 目の前には、エメラルドグリーンの火口湖。



 翠ヶ池――


 その美しさは、言葉では表現できないほどだった。


 朝日が水面を照らし、金色の光が湖面で踊っている。



 周囲には、わずかに残ったハクサンイチゲとイワギキョウが風に揺れている。


 空は――


 どこまでも青く、澄み切っていた。



「着きました……」


 俺は震える声で言った。


「山頂です」



 ◇◇◇



 陽菜さんが――


 その場に膝をついた。


 トレッキングポールを手放して、両手を地面につける。


 そして――


 深く、深く息を吸い込んだ。



「……ああ」


 彼女の声が、震える。



「この空気……この風……」


「祖母と一緒に、ここに立った時と――同じです」


 陽菜さんの目から、涙が溢れた。



「おばあちゃん……」


「私、登れたよ」


「ちゃんと――白山の山頂まで、登れたよ……」



 その姿を見て――


 俺は何も言えなかった。


 ただ――彼女の隣に座って、静かに寄り添った。



 ◇◇◇



 しばらく――


 二人で、沈黙の中にいた。



 風だけが、優しく吹いている。


 花の香りが漂ってくる。



 そして――


 陽菜さんが、ゆっくりと顔を上げた。


「蒼太さん」


「はい?」



「今――どんな景色が見えますか?」


 その質問に――


 俺は必死に言葉を探した。



「えっと……翠ヶ池が、エメラルドグリーンで」


「すごく、綺麗で……」


「雲海が下に広がってて……」


「朝日が、金色に輝いてて……」



 でも――ダメだ。


 「綺麗」「美しい」という言葉しか出てこない。


 この圧倒的な光景を――


 どう伝えればいいのか――



「……ごめんなさい」


 俺は情けなくなった。


「僕、言葉が下手で……」



 でも――


 陽菜さんが優しく微笑んだ。



「いいんです」


「え?」


「私には――見えてますから」


 その言葉に、俺は驚いて彼女を見た。



 ◇◇◇



 陽菜さんは目を閉じて、風に顔を向けた。


 長い黒髪が風になびいている。


 そして――


 静かに語り始めた。



「翠ヶ池の色は――エメラルドグリーン」


「祖母が『天国の色だ』って言ってた色」


 彼女の声が、まるで詩を詠むように響く。



「朝日が水面を照らして、金色に輝いてる」


「わずかに残るイワギキョウは、紫青。風に揺れながら、凛と咲いてる」


「ハクサンイチゲは、純白。雪のような、清らかな白」



「そして空は――」


 陽菜さんが微笑む。


「きっと、どこまでも青い」


「私が一番好きな色」



 俺は――


 言葉を失った。


 彼女は――


 本当に『見えて』いる。


 目ではなく、心で。



 記憶と香りと風で――


 この景色の美しさを、完璧に感じ取っている。


 喉の奥が熱くなる。


 目頭が熱くなる。



「陽菜さん……」


 それだけ言うのが、精一杯だった。



 ◇◇◇



 その時――


 突然、空気が変わった。



 風が止まり――


 静寂が訪れる。



 そして――


 翠ヶ池の水面から、淡い光が立ち上り始めた。


「……何ですか、これ」


 俺は驚いて立ち上がった。



 光はどんどん強くなり――


 やがて、一つの形を成していく。



 それは――


 白い竜だった。



 ◇◇◇



 全身が白い花びらで覆われたような、美しい竜。


 体長は十メートルほど。


 翼は透明で、朝日を透かして虹色に輝いている。



 顔は優しく――


 まるで微笑んでいるかのような表情。



 ホワイトブロッサム・ドラゴン――


 白山の守護竜。



 でも――


 敵意は感じない。


 むしろ――


 温かい、優しい気配だけが伝わってくる。



「陽菜さん……」


 俺は小声で呼びかける。


 陽菜さんが静かに答える。



「……大丈夫です」


「この子、敵意がありません」


「むしろ――祝福してくれてる」



 その言葉の通り――


 竜は攻撃してこない。


 ただ――


 静かに、俺たちを見つめている。



 ◇◇◇



 そして――


 突然、陽菜さんが動きを止めた。


 まるで――


 何かを聞いているかのように。



「陽菜さん?」


 俺が尋ねても、彼女は答えない。


 ただ――


 目を閉じて、竜の方を向いている。



(もしかして――竜が、陽菜さんに話しかけてるのか?)


 俺は黙って見守ることにした。


 数分間――


 沈黙が続く。



 そして――


 陽菜さんが、ゆっくりと口を開いた。



 ◇◇◇



「……昔なら、迷わず『はい』と答えていました」


 陽菜さんが静かに言う。



「でも今は――」


 彼女が目を閉じて、風に顔を向ける。



「もし見えるようになったら、嬉しいと思います」


「蒼太さんの顔も、この景色も、自分の目で見たい」



「でも――」


 陽菜さんが俺の方を向く。


 焦点の合わない灰色の瞳が――でも、確かに俺を見つめているような――



「今の私も、幸せなんです」


「目が見えなくなって、初めて気づいたことがたくさんある」



「風の音、花の香り、土の温もり……見えていた時には気づかなかった美しさ」


 陽菜さんの声が震える。


「蒼太さんとの出会いも、きっと失明しなければなかった」



「だから――『治りたい』じゃなくて」


「『今のままでも幸せに生きていける』」



「それが――私の答えです」



 その言葉を聞いて――


 俺の目から、涙が溢れた。


 止められない。



 陽菜さんは――


 こんなにも強い。


 こんなにも美しい。



 ◇◇◇



 竜が――


 優しく微笑んだ。


 そして――



 陽菜さんの頭上に、淡い光を降らせる。


 その光は――


 まるで祝福のように、彼女を包み込んでいく。



 陽菜さんの手のひらに――


 一枚のカードが現れた。



 【花の祝福】



 植物系モンスターと心を通わせる能力――


 竜からの、贈り物。



 陽菜さんがそのカードを握りしめて――


 涙を流しながら微笑んだ。


「……ありがとう」



 竜が静かに頷く。


 そして――


 ゆっくりと、光の中に消えていった。


 風だけが、優しく吹いている。



 ◇◇◇



 竜が消えた後――


 二人きりになった。



 朝日が、俺たちを優しく照らしている。


 翠ヶ池のエメラルドグリーンが、目に眩しい。



 俺は――


 深呼吸をした。


 そして――


 決意を固めた。



 今だ。


 ここで――


 ちゃんと、伝えよう。



「陽菜さん」


 俺は真剣な表情で彼女の名を呼んだ。


「はい?」


 陽菜さんが俺の方を向く。



 俺は――


 彼女の手を、両手で包み込んだ。



 ◇◇◇



「もし――いつか本当に見えるようになったら」


 俺は真剣に言った。



「僕、最初に白山の花を一緒に見たいです」


「この翠ヶ池も、イワギキョウも、ハクサンイチゲも、全部」


 陽菜さんが微笑む。


「……はい」



「でも――」


 俺は続ける。


「見えても見えなくても、僕は陽菜さんと一緒に山に登りたい」


「それだけは、変わりません」



「これからもずっと――」


 俺の声が震える。


「隣にいたいんです」



 陽菜さんの目が、潤んだ。


「蒼太さん……」


「俺は――」


 俺は思い切って言った。



「陽菜さんのことが――好きです」



 その瞬間――


 時が止まったような感覚だった。



 陽菜さんが――


 驚いたように目を見開く。


 でも――


 すぐに、涙を浮かべて微笑んだ。



「……私も」


 彼女が小さく呟く。



「私も――蒼太さんのことが、好きです」



 その言葉を聞いて――


 俺は思わず、陽菜さんを抱きしめた。



 ◇◇◇



 細くて、温かい体。


 花の香りと、ほのかな汗の匂い。


 陽菜さんの心臓の鼓動が――


 俺の胸に伝わってくる。


 激しく打っている。


 俺のと、同じように。



「蒼太さん……」


 陽菜さんが俺の胸に顔を埋める。


「ずっと――ずっと、一緒にいてください」



「ああ」


 俺は力強く頷いた。


「ずっと一緒にいます」


「約束します」



 朝日が――


 俺たちを優しく照らしていた。


 風が吹き、花の香りが漂ってくる。



 白山の山頂で――


 俺たちは、静かに抱き合っていた。



 この瞬間を――


 一生、忘れない。



 ◇◇◇



 どれくらい時間が経っただろう。


 俺たちは、ゆっくりと離れた。


 でも――手は、まだ繋いだままだ。



「陽菜さん」


「はい?」



「お祖母さんに――報告しましょう」


 その言葉に、陽菜さんが微笑んだ。


「……はい」



 俺たちは、翠ヶ池の前に並んで座った。


 陽菜さんが、静かに語りかける。



「おばあちゃん――」


「私、ちゃんと登れたよ」


「白山の山頂まで」


 彼女の声が、優しく響く。



「それに――」


 陽菜さんが俺の手を握る。


「素敵な人と、出会えたよ」



「目が見えなくても、山は登れる」


「目が見えなくても、幸せに生きていける」


「それを――教えてくれた人」


 陽菜さんが涙を浮かべて微笑む。



「心配しないで」


「私、これからもたくさん山に登るね」


「蒼太さんと一緒に」



 風が――


 優しく吹いた。


 まるで――


 お祖母さんが、微笑んでいるかのように。



 ◇◇◇



 山頂での時間は――


 あっという間に過ぎていった。


 でも――


 この時間は、一生の宝物になる。



「そろそろ――下山しましょうか」


 俺が提案すると、陽菜さんが頷いた。


「はい」



 俺たちは立ち上がって――


 最後にもう一度、山頂を見渡した。



 翠ヶ池のエメラルドグリーン。


 雲海の白。


 空の青。


 そして――


 陽菜さんの微笑み。


 全てが――美しかった。



「行きましょう」


「はい」


 俺たちは、手を取り合って――


 下山の道を歩き始めた。

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