4-3
朝日が頂上小屋の窓から差し込んできた。
俺、橘蒼太は寝袋の中で目を覚ました。
一瞬、何かが足りない――そんな感覚があった。
そうだ。
アストラルと、ククルがいない。
昨日、彼らは下山していった。
俺たちに「二人だけの時間」を与えるために。
「……蒼太さん、起きてますか?」
陽菜さんの声が聞こえた。
彼女はすでに寝袋から出ていて、窓の近くに座っている。
「ああ、起きてます」
俺も寝袋から這い出して、彼女の隣に座った。
「今日は……いよいよ山頂ですね」
陽菜さんが微笑む。
その表情には、期待と少しの不安が混じっていた。
「ええ。絶対に、辿り着きましょう」
俺は力強く言った。
「一緒に」
陽菜さんが俺の方を向く。
焦点の合わない灰色の瞳が――でも、確かに俺を見つめているような――
「……はい。一緒に」
彼女が手を伸ばしてくる。
俺はその手を、優しく握った。
細くて、少し冷たい手。
でも――確かに、温かい命が宿っている手。
◇◇◇
朝食を済ませて、出発の準備を整える。
標高二千六百六十メートル。
ここから先は、岩と残雪だけの世界。
気温も一段と低く、防寒装備をしっかり確認する必要がある。
「陽菜さん、上着はちゃんと着てますか?」
「はい。でも――」
陽菜さんが少し遠慮がちに言う。
「少し寒いかもしれません」
俺は自分の予備のフリースを取り出した。
「これ、着てください」
「でも、蒼太さんが寒くなるんじゃ……」
「俺は大丈夫です。動いてれば温まりますから」
陽菜さんが少し迷ってから――受け取ってくれた。
「……ありがとうございます」
彼女がフリースを着ると、少し大きすぎて可愛らしい。
袖が余っていて、まるで子供が大人の服を着ているみたいだ。
「似合ってますよ」
俺が思わず言うと、陽菜さんが頬を染めた。
「そんな……見えないから分かりませんけど」
「でも――蒼太さんの服、温かいです」
その言葉に、俺の胸も温かくなった。
◇◇◇
頂上小屋を出ると、目の前に険しい道が広がっていた。
第二十六層。
標高二千七百メートル相当の極寒地帯。
岩と残雪が混在する、過酷な環境。
でも――
俺たちは、決意を胸に一歩を踏み出した。
「行きましょう、陽菜さん」
「はい」
二人で、手を取り合って。
山頂という、共通の目標に向かって――
◇◇◇
岩場は予想以上に険しかった。
陽菜さんは一歩ごとに、慎重に足を進めている。
「蒼太さん」
彼女が立ち止まる。
「この空気……薄くて、冷たくて——」
「肺に入れても、すぐに足りなくなる感じがします」
陽菜さんが膝に手をついて、深呼吸をする。
「それに、足元の感触も変わりました」
彼女がトレッキングポールで地面を軽く叩く。
「さっきまでは土の柔らかさがあったのに」
「今は、岩の硬さだけ」
「まるで——山が、私たちを試してるみたいです」
俺も同じように深呼吸をした。
確かに——空気が薄い。
息を吸っても、酸素が足りない感覚。
(陽菜さんは、この過酷な環境を——)
(空気の薄さ、足元の硬さ、全身で感じ取ってるんだ)
◇◇◇
しばらく登っていると、陽菜さんの足取りが重くなってきた。
標高が高くなるにつれて、空気が薄くなっている。
呼吸も苦しくなってくる。
「陽菜さん、大丈夫ですか?」
「はい……少し、息が……」
彼女が立ち止まって、深呼吸をする。
俺も同じように息を整えた。
「無理しないでください。ゆっくり行きましょう」
「すみません……私のせいで」
「謝らないでください」
俺は真剣に言った。
「俺たちは一緒に登ってるんです」
「お互いのペースで、お互いを支え合いながら」
その言葉に、陽菜さんが微笑んだ。
「……ありがとうございます」
◇◇◇
岩場の途中に、少し平らな場所を見つけた。
「ここで休憩しましょう」
俺たちは岩に腰を下ろした。
風は冷たいが、陽光が温かい。
雲海が眼下に広がり、まるで天空にいるような感覚だった。
「今、どんな景色ですか?」
陽菜さんが尋ねる。
俺は少し考えてから答えた。
「雲海が、ずっと下の方に広がってます」
「白くて、ふわふわしてて――まるで綿のような」
「太陽の光が雲を照らして、金色に輝いてる」
「それから――」
俺は遠くを見る。
「遠くに、他の山々が見えます」
「雪を被った山頂が、青い空に映えてる」
陽菜さんが目を閉じて、風に顔を向ける。
「……見えます」
「雲の柔らかさ、太陽の温かさ、山々の雄大さ」
「全部、心で感じられます」
その言葉に――
俺は改めて思った。
陽菜さんが教えてくれた。
本当に大切なものは、目で見るものじゃない。
心で感じるものなんだ。
写真も——同じだ。
美しい景色を「見せる」のではなく、
心を動かす瞬間を「感じてもらう」。
それが——俺がこれから撮りたい写真だ。
◇◇◇
「蒼太さん」
「はい?」
「昨日、アストラルさんが言ってましたよね」
陽菜さんが少し照れたように言う。
「『山頂で、ちゃんと想いを確かめろ』って」
その言葉に、俺の心臓が激しく鼓動した。
「ええ……」
「蒼太さんは――」
陽菜さんが俺の方を向く。
「私のこと、どう思ってますか?」
突然の質問に、俺は戸惑った。
心臓が激しく鼓動する。
正直に答えたい。
でも――
アストラルが言っていた。
「大事な想いは、大事な場所で伝えるべきだ」と。
山頂で――
あの特別な場所で、ちゃんと伝えたい。
今は――
「……陽菜さんは、俺にとってとても大切な人です」
俺は慎重に言葉を選ぶ。
「出会ってから、まだ数日しか経ってないけれど」
「でも――もう何年も一緒にいるような気がします」
「陽菜さんの笑顔を見ると、胸が温かくなる」
「陽菜さんが悲しんでいると、自分も悲しくなる」
「一緒にいたい――そう心から思います」
「でも――」
俺は一度言葉を切る。
「この想いの名前は――山頂で、ちゃんと伝えさせてください」
陽菜さんが少し驚いたように目を見開く。
「山頂……ですか?」
「はい。あの特別な場所で」
俺は真剣に言った。
「陽菜さんと、二人きりで」
「ちゃんと、向き合って」
陽菜さんの目が潤んだ。
「……分かりました」
彼女が小さく微笑む。
「私も――山頂で、蒼太さんに伝えたいことがあります」
その言葉に――
俺の胸が高鳴った。
二人で手を握り合う。
まだ言葉にはしない。
でも――お互いの想いは、もう伝わっている。
山頂で――
ちゃんと、言葉にしよう。
◇◇◇
休憩を終えて、俺たちは再び歩き始めた。
第二十六層から第二十七層へ――
岩場はさらに険しくなっていく。
でも、二人で支え合いながら、一歩ずつ確実に前進していく。
陽菜さんの手は、もう冷たくない。
俺の手も、彼女の温もりで温かい。
「もうすぐですね」
陽菜さんが微笑む。
「ええ。山頂まで――あと少しです」
そして――
俺たちは第二十八層への道を歩き始めた。
その時――
遠くから、地響きのような音が聞こえてきた。
ゴゴゴゴ――
岩が揺れている。
何かが――近づいてくる――
「蒼太さん!」
陽菜さんが叫ぶ。
「何か、来ます!」
「大きくて――重くて――」
俺は慌てて立ち上がった。
前方の岩陰から――
巨大な影が現れた。
それは――
岩そのものが動いているような、恐ろしい存在だった。
体高三メートルはあろうかという、巨大な人型の岩の塊。
両腕は丸太のように太く、拳は岩の塊。
顔らしき部分には、赤く光る二つの眼だけがある。
ストーンゴーレム――
Cランクの白いモンスター。
でも――
今は観光シーズンのはずだ。
黒いモンスターボスは休眠期のはずなのに――
(なぜ、Cランクのモンスターがここに……!)
ゴーレムが、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。
ズシン、ズシン――
その足音が、地面を揺らす。
俺は剣を抜いた。
陽菜さんを、守らなければ――
「陽菜さん、俺の後ろに!」
「でも――」
「大丈夫です! 俺が何とかします!」
俺は必死に叫んだ。
ゴーレムが――
ゆっくりと、拳を振り上げた。
そして――
次の瞬間――
その拳が、俺たちに向かって振り下ろされた――!




