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第二十五層「頂上小屋」に到着したのは、夕方近くだった。
標高二千六百六十メートル。
山頂直下に建つ小さな避難小屋が、オレンジ色の夕日に照らされている。
俺、橘蒼太は――この景色を見ながら、複雑な気持ちだった。
ここで――
アストラルと、別れることになる。
「……着いたな」
アストラルが小屋の前で立ち止まる。
陽菜さんも、俺も――何も言えなかった。
たった数日間の旅だったけれど――
この影のヒーローは、俺たちにとってかけがえのない存在になっていた。
「中に入ろう。今夜はここで休む」
アストラルがマントを翻して、小屋の扉を開ける。
◇◇◇
頂上小屋の中は、最低限の設備しかなかった。
寝袋が数枚、非常食の備蓄、そして小さな暖房器具。
でも――悪天候から身を守るには十分だった。
「ここが、俺たちの最後の夜か……」
アストラルが窓の外を見つめながら呟く。
陽菜さんが寂しそうに言う。
「アストラルさん……本当に、ここでお別れなんですね」
「ああ」
彼が頷く。
「明日の朝、お前たちが山頂に向かう時――俺とククルは下山する」
風が優しく吹いた。
まるで――
見えない誰かが、寂しそうに泣いているかのように。
「ククルちゃんも……寂しがってますね」
陽菜さんが何もない空間に向かって微笑む。
「私も、寂しいです」
「蒼太さんと出会えて、アストラルさんとククルちゃんと出会えて――」
「この旅は、私の宝物になりました」
その言葉に――
アストラルの声が少し震えた。
「……俺も、だ」
◇◇◇
夜。
小屋の中で、三人は暖房の周りに座っていた。
外は冷たい風が吹いているが、中は温かい。
でも――心は、どこか寂しかった。
「なあ、蒼太」
アストラルが口を開いた。
「お前に、一つだけ伝えておきたいことがある」
「はい?」
「陽菜さんを――頼む」
その言葉に、俺は驚いた。
「俺は途中までしか一緒に行けなかった」
「でもお前なら――最後まで、彼女と一緒に歩ける」
アストラルが真剣な表情で続ける。
「守るんじゃない。一緒に歩くんだ」
「陽菜さんは強い。でも、時には弱さも見せる」
「そういう時――ちゃんと支えてやれよ」
「……はい」
俺は力強く頷いた。
「必ず」
陽菜さんが頬を染めながら小さく呟く。
「……ありがとうございます、アストラルさん」
「でも私も――蒼太さんを支えたいです」
「二人で、一緒に」
その言葉に――
アストラルが優しく笑った。
「ああ。それでいい」
◇◇◇
少しの沈黙の後――
陽菜さんが尋ねた。
「アストラルさん」
「ん?」
「東京に帰ったら――どうされるんですか?」
その質問に、アストラルが少し考えた。
「……仲間のところに戻る」
「東京で待っててくれる奴らがいるからな」
彼が何もない空間を見る。
「それに――ククルとも、まだやることがある」
風が優しく吹く。
「困ってる人を助けて、悪党を倒して――」
アストラルが遠くを見つめる。
「ヒーローとして、やるべきことは山ほどある」
「かっこいいですね」
陽菜さんが微笑む。
「きっと、また多くの人を助けるんですね」
「まあな」
アストラルが照れたように言う。
「それが――俺の役目だからな」
彼が少し声のトーンを変えて、優しく続ける。
「でも――今回の旅で、俺も学んだんだ」
「ヒーローってのは、戦うだけじゃない」
「寄り添うこと、見守ること――それも大切なんだってな」
その言葉に、俺は胸が熱くなった。
(この人は――本当のヒーローだ)
(俺も――いつか、こんな風に――)
◇◇◇
夜が更けていく。
陽菜さんは先に寝袋に入り、静かな寝息を立て始めた。
俺とアストラルは――まだ起きていた。
「……アストラルさん」
「ん?」
「一つ、聞いてもいいですか」
「何だ?」
俺は迷ったけれど――聞くことにした。
「アストラルさんは――どうしてヒーローを続けているんですか?」
その質問に、アストラルが少し驚いたように俺を見た。
「……大変なこともあると思うんです」
「危険なことも、辛いことも」
「それでも――どうして」
アストラルが窓の外を見つめる。
月明かりが、彼の白い仮面を照らしている。
「……俺も昔は、弱かった」
「誰かを守ることもできなかった」
アストラルが窓の外を見つめたまま、静かに続ける。
「少し前に――ある少女と出会ったんだ」
「その子は、ずっと裏切られ続けてきた」
「家族にも、友人にも、信じた人全てに」
彼の声が、少し震える。
「だから――その子は、人を信じられなくなった」
「裏切られる側から、裏切る側に回ろうとした」
「俺は――その子を救おうとした」
アストラルが拳を握りしめる。
「『ヒーローは助ける人を選別しない』――そう信じて」
「でも――」
彼の声が、さらに沈む。
「間に合わなかった」
「俺の目の前で――その子は、利用していた相手に殺された」
「最期の言葉は『もっとはやく、あなたに会いたかった』だった」
俺は――息を呑んだ。
そんな悲しい出来事が――
「それから、俺は誓ったんだ」
アストラルが顔を上げる。
「二度と――誰も見捨てない」
「どんなに遅くても、諦めずに手を伸ばし続ける」
「それが――俺がヒーローを続ける理由だ」
「あの子が最後に見せてくれた『信じる心』を――無駄にしないために」
その言葉に――
俺の胸が熱くなった。
アストラルは――
誰かを救えなかった後悔を、力に変えているんだ。
「だから――お前たちには、幸せになってほしい」
アストラルが俺を見る。
「俺が救えなかった誰かの分まで」
「大切な人と、ちゃんと想いを伝え合って――一緒に笑ってほしいんだ」
その言葉に――
俺の胸が熱くなった。
アストラルは――あの子を救えなかった後悔を背負いながら、それでも前を向いている。
そして、俺たちに――幸せになってほしいと願ってくれている。
「……アストラルさん」
俺は真剣に言った。
「俺も、諦めません」
「陽菜さんを――最後まで支えます」
「そして――」
俺は拳を握りしめる。
「アストラルさんが救えなかった誰かの分まで」
「俺は、陽菜さんと一緒に――幸せになります」
アストラルが少し驚いたように俺を見た。
そして――満足そうに頷く。
「……ああ。それでいい」
「お前なら、できる」
「もうすでに――お前は陽菜さんにとってのヒーローだからな」
その言葉に――
俺は少し照れくさくなった。
でも――心の中で誓った。
必ず、陽菜さんを幸せにする。
それが――アストラルの想いに応える、唯一の方法だから。
◇◇◇
翌朝。
朝日が小屋の窓から差し込んできた。
ついに――別れの時が来た。
陽菜さんが起きて、俺たちも準備を整える。
アストラルがザックを背負い、マントを翻す。
「じゃあな、二人とも」
彼が最後の言葉を告げる。
「山頂で――最高の景色を『感じて』こい」
「そして――」
アストラルが俺を見る。
「ちゃんと、想いを伝えろよ」
「……はい」
俺は力強く頷いた。
陽菜さんが何もない空間に向かってお辞儀をする。
「ククルちゃん――ありがとう」
「あなたと出会えて、本当に嬉しかったです」
風が強く吹いた。
そして――
陽菜さんの頬を、優しく撫でた。
「……ククルちゃん、泣いてますね」
陽菜さんが涙を浮かべて微笑む。
「私も、泣きそうです」
俺も――目頭が熱くなった。
アストラルが最後にこう言った。
「いつか――また会おう」
「その時は――お前たちの成長した姿を見せてくれ」
「はい!」
俺と陽菜さんは、同時に答えた。
◇◇◇
アストラルが小屋を出て、下山の道を歩き始める。
黒いマントが風になびいている。
俺たちは――その背中を、じっと見つめていた。
やがて――
アストラルの姿が、岩陰に消えた。
風だけが、静かに吹いている。
「……行っちゃいましたね」
陽菜さんが寂しそうに呟く。
「ええ」
俺も頷いた。
「でも――俺たちには、まだやることがある」
「山頂まで――一緒に行きましょう」
陽菜さんが微笑んで、俺の手を握った。
「はい」
こうして――
俺たちは、二人だけになった。
アストラルとククルの想いを胸に――
最後の道のりへと、足を踏み出した。
山頂まで――あと少し。
そこで――
俺は、ちゃんと伝えるんだ。
この想いを――




