第四章――山頂へ、そして心で見る美しさ――
翌朝、第二十三層に足を踏み入れた瞬間、俺、橘蒼太は思わず息を呑んだ。
ここは——まさに天空の花園だった。
標高二千六百三十メートル。
森は完全に消え、灌木もほとんどなく、代わりに広がるのは高山植物だけの純粋な世界。
イワギキョウの紫青が岩肌を這うように咲き、ハクサンコザクラの淡いピンクが風に揺れている。
可憐な五弁の花びらを持つハクサンコザクラは、過酷な環境でも凛と咲き誇り——その姿は、どこか陽菜さんを思わせた。
そして——
雲が、眼下に広がっている。
本当に——天空にいるような感覚だった。
「すごい……」
陽菜さんが小さく声を上げた。
彼女は目を閉じて、風に顔を向けている。
「この冷たい空気……それに、音の反響が変わりました」
「雲の上にいるんですね」
「ええ。雲海が眼下に広がってます」
俺が説明すると、陽菜さんが嬉しそうに微笑んだ。
「見えます。心で」
その言葉に——俺の胸が温かくなった。
◇◇◇
アストラルが前方で立ち止まり、マントを翻した。
「……この景色、綺麗だな」
彼が珍しく、技名を叫ばずに静かに呟く。
仮面の下の表情は見えないけれど——その声には、どこか寂しさが混じっているような気がした。
「アストラルさん?」
俺が尋ねると、彼が慌てて振り返る。
「あ、ああ! なんでもない!」
彼が何もない空間に向かって小声で言う。
「なあ、ククル。お前はこういう景色、好きか?」
風が優しく吹く。
「そうか……俺も好きだ」
アストラルが遠くを見つめる。
その背中が——
何か決意を固めたように見えて、俺は少し不安になった。
◇◇◇
第二十三層の中腹を進んでいると、大きな岩の陰に二人の老夫婦が座り込んでいるのが見えた。
六十代後半くらいの、探索者の装備を身につけた夫婦。
でも——二人とも疲れ果てた様子で、特におじいさんの方は顔色が悪い。
「大丈夫か!?」
アストラルが真っ先に駆け寄った。
俺たちも慌ててついていく。
「あ、ああ……すまんのう」
おじいさんが力なく答える。
「どうも、疲れてしもうて……動けんのじゃ」
見ると、二人とも疲れ果てた様子で、特におじいさんの顔色が悪い。
アストラルがすぐに気づく。
「……少し、顔色が悪いな」
彼が自分の水筒を取り出して、おじいさんに渡す。
「まず水をゆっくり飲んでくれ。高山病かもしれない」
「それと——深呼吸を何度かして、酸素を取り込むんだ」
「あ、ありがとう……」
おじいさんが水を飲む。
アストラルが付け加える。
「これは、ハヤテ——いや、知り合いの医者に教わったんだ」
「高山では水分補給とゆっくりした呼吸が大事だって」
陽菜さんも感心したように呟く。
「アストラルさん、お医者さんみたいですね」
「いや、そんな大層なもんじゃない」
アストラルが照れたように言う。
「ただ——困ってる人を放っておけないだけだ」
その言葉に——俺の胸が熱くなった。
◇◇◇
おじいさんの顔色が少し良くなってきた頃、おばあさんが話し始めた。
「実はな……わしら、結婚四十周年の記念で白山に登っとるんじゃ」
「四十年前、新婚旅行で白山に来てな」
おばあさんが嬉しそうに微笑む。
「あの時の思い出を、もう一度——と思うて」
「でも、年を取ると体がついていかんのう」
おじいさんが苦笑いする。
陽菜さんが優しく言う。
「素敵ですね。四十年前の思い出を辿る旅」
「ありがとうのう、お嬢さん」
おばあさんが陽菜さんの手を取る。
「お嬢さんも、若いのによう頑張っとるな」
「はい。一人じゃないので」
陽菜さんが俺の方を向く。
「蒼太さんが、一緒にいてくれるから」
その言葉に、俺の顔が熱くなった。
おばあさんがニコニコ笑う。
「ほほう……若いのう」
「わしらも昔は、そんな感じじゃったのう」
おじいさんも微笑む。
「大事にせえよ、お互いをな」
その言葉に——俺と陽菜さんは顔を見合わせた。
◇◇◇
老夫婦が休憩を終えて、再び歩き始めようとした時——
アストラルが自分の食料の半分を彼らに渡した。
「え、でもこれは……」
「いいんだ。俺は途中で降りるから」
その言葉に——俺は驚いた。
「え? 途中で?」
「ああ」
アストラルが何気なく言う。
「第二十五層くらいまで一緒に行くつもりだったが——」
「もうお前たちは大丈夫そうだしな」
陽菜さんが不安そうに言う。
「でも……まだ山頂まで……」
「大丈夫だ」
アストラルが力強く言う。
「蒼太がいるだろ? それに、陽菜さんも強い」
「二人なら——きっと山頂に辿り着ける」
その言葉に——
俺の胸に、複雑な感情が渦巻いた。
嬉しさと——寂しさが、同時に押し寄せてくる。
(アストラルさんが、いなくなる……?)
◇◇◇
老夫婦と別れた後、俺たちは黙々と歩き続けた。
アストラルが前を歩き、俺と陽菜さんがその後ろを歩く。
でも——
何か、雰囲気が変わっていた。
アストラルが時々、振り返って俺たちを見る。
その視線は——まるで、名残惜しそうな——
「……アストラルさん」
俺が思い切って尋ねる。
「本当に、途中で降りるんですか?」
「ああ」
彼が頷く。
「俺には、東京で待ってる仲間がいるんだ」
「それに——」
アストラルが何もない空間を見る。
「ここから先は、お前たち二人だけで行った方がいい」
「どうしてですか?」
陽菜さんが尋ねる。
アストラルが少し考えてから——
「山頂ってのは、特別な場所だろ?」
「そういう大切な瞬間は——好きな人と二人きりで迎えた方がいい」
その言葉に——
俺と陽菜さんは、同時に顔を赤らめた。
「す、好きな……」
「いや、その……」
俺が慌てて否定しようとして——
でも、陽菜さんが小さく呟いた。
「……そう、かもしれません」
その言葉に——俺の心臓が激しく鼓動した。
◇◇◇
第二十四層への登り道は、さらに険しくなっていた。
岩と残雪だけの世界。
気温も一段と下がり、息が白く凍る。
「寒いですね……」
陽菜さんが少し震えている。
俺は思わず、自分の上着を脱いで彼女の肩にかけた。
「蒼太さん、でも……」
「俺は大丈夫です。陽菜さん、風邪引かないでください」
「……ありがとうございます」
陽菜さんが嬉しそうに微笑む。
アストラルが横目でチラリと見て——
何もない空間に向かって小声で呟いた。
「……ククル、見たか?」
「あの二人、もう完全に恋してるな」
風が優しく吹く。
まるで——
見えない誰かが、嬉しそうに笑っているかのように。
◇◇◇
第二十四層の中腹で、俺たちは小さな避難小屋を見つけた。
「ここで休憩しよう」
アストラルが提案する。
小屋の中は狭いが、風を避けられる。
三人で中に入り、座り込む。
しばらく沈黙が続いた後——
アストラルが口を開いた。
「……なあ、蒼太」
「はい?」
「お前、陽菜さんのこと——どう思ってる?」
突然の質問に、俺は戸惑った。
「え、それは……」
「正直に言えよ」
アストラルが真剣な表情で言う。
「俺が見る限り——お前は陽菜さんを大切に思ってる」
「それは、ただの『仲間』としてじゃないだろ?」
その言葉に——
俺は何も言えなくなった。
確かに——
陽菜さんへの想いは、ただの「仲間」という感情を超えている。
彼女の笑顔を見ると、胸が温かくなる。
彼女が悲しんでいると、自分も悲しくなる。
彼女を守りたいと——いや、一緒にいたいと——
心から思っている。
これは——
もしかして——
「……分からないです」
俺は正直に答えた。
「でも——陽菜さんは、特別な人です」
「俺にとって、とても大切な人です」
アストラルが満足そうに頷く。
「……そうか」
彼が立ち上がる。
「じゃあ——山頂で、ちゃんと想いを確かめろ」
「自分の気持ちも、陽菜さんの気持ちも」
「アストラルさん……」
「大事な想いは、大事な場所で伝えるべきだ」
アストラルがマントを翻す。
「山頂——そこがお前たちにとって、一番特別な場所になるはずだからな」
その言葉に——
俺の胸が熱くなった。
(山頂で——)
(ちゃんと、伝えよう)
(この気持ちを)
◇◇◇
アストラルがマントを翻す。
「俺は、第二十五層までは一緒に行く」
「でもそこから先は——お前たち二人だけで行け」
「アストラルさん……」
陽菜さんが寂しそうに言う。
「でも、本当にいいんですか?」
「ああ」
アストラルが優しく微笑む。
仮面の下の表情は見えないけれど——その声は、とても温かかった。
「俺の役目は——お前たちをここまで導くことだった」
「それはもう、果たした」
「だから——」
彼が何もない空間を見る。
「ククルと一緒に、東京に帰る」
風が強く吹いた。
まるで——
見えない誰かが、抗議しているかのように。
「ククル、分かってくれ」
アストラルが優しく言う。
「あの二人には、二人だけの時間が必要なんだ」
「それに——俺たちにも、帰る場所があるだろ?」
風が静かになった。
そして——
優しく、アストラルの頬を撫でた。
まるで——
見えない誰かが、理解したように——
◇◇◇
避難小屋を出て、再び歩き始める。
第二十五層が、もうすぐそこに見えてくる。
アストラルとの別れが——
刻一刻と近づいている。
俺は——
複雑な気持ちだった。
嬉しさと、寂しさ。
期待と、不安。
全てが混ざり合って、胸が苦しい。
「蒼太さん」
陽菜さんが俺の手を握った。
「大丈夫ですよ」
「私たち、二人なら——きっと大丈夫です」
その言葉に——
俺も頷いた。
「……はい」
そして——
心の中で誓った。
絶対に、陽菜さんを山頂まで連れて行く。
そして——
ちゃんと、想いを伝える。
彼女に——
「好きです」と。
◇◇◇
その時——
遠くから、不思議な音が聞こえてきた。
それは地響きではなく——まるで、風鈴のような、透明感のある美しい音色だった。
そして、淡い光が山頂の方から漏れているような——
「……何ですか、今の」
陽菜さんが不思議そうに首を傾げる。
「綺麗な音……花が歌ってるみたいです」
アストラルが真剣な表情で遠くの山頂を見つめる。
「山頂の方だな」
「何があるんですか?」
「分からない……でも」
彼が俺たちの方を向く。
「きっと、特別な出会いが待っている」
「二人なら——その存在と、心を通わせられるかもしれない」
その言葉に——
俺の胸に、不思議な期待感が広がった。
山頂には——
何か、美しいものが待っているような——
◇◇◇
そして——
俺たちは第二十五層への最後の道を歩き始めた。
アストラルとの別れが——
もうすぐそこまで来ていた。




