3-4
第二十一層への登り道は、少しずつ険しくなっていた。
岩場が増え、足場も不安定になってくる。
標高は二千六百メートルを超えている。
空気が薄く、息が少し荒くなってきた。
「陽菜さん、大丈夫ですか?」
俺が心配そうに尋ねる。
「はい。少し疲れましたけど……まだ大丈夫です」
陽菜さんが微笑む。
でも——その足取りは、明らかに重くなっていた。
アストラルが先頭を歩きながら、時々振り返って俺たちの様子を確認している。
「無理はしないでくれ。休憩が必要なら言ってくれ」
「はい」
俺たちは慎重に岩場を登っていく。
その時——
陽菜さんの足が、岩の上で滑った。
「あっ!」
彼女の体が傾く——
俺は咄嗟に手を伸ばした。
陽菜さんの手を、強く掴む。
細くて、少し冷たい手。
でも——確かに、温かい命が宿っている手。
「危ない!」
俺は必死に彼女を引き寄せた。
陽菜さんが俺の胸に倒れ込む。
二人の距離が——
ゼロになった。
◇◇◇
数秒間——
時が止まったような感覚だった。
陽菜さんの髪の香り。
花の香りと、ほのかな汗の匂い。
彼女の体温が、俺の胸に伝わってくる。
心臓の鼓動が——
激しく打っている。
俺のか、陽菜さんのか——分からない。
「あ……ありがとうございます」
陽菜さんが顔を上げる。
頬が真っ赤に染まっている。
「い、いえ……」
俺も顔が熱い。
慌てて手を離そうとして——
でも、陽菜さんの手が、まだ俺の手を握っている。
「……蒼太さん」
「はい?」
「もう少しだけ……このままで」
陽菜さんが小さく呟く。
俺の心臓が、さらに激しく打った。
「……はい」
二人で——
手を繋いだまま、立っていた。
岩場の上で。
風が優しく吹いている。
花の香りが漂ってくる。
そして——
遠くから、アストラルの声が聞こえた。
「……二人とも、大丈夫か?」
俺たちは慌てて手を離した。
「あ、はい! 大丈夫です!」
俺が慌てて答える。
アストラルが少し微笑んでいるような——
仮面の下の表情は見えないけれど、そんな気がした。
◇◇◇
岩場を越えて、平らな場所に着いた。
アストラルが提案する。
「ここで少し休憩しよう」
「はい」
俺たちはザックを降ろして、岩に腰を下ろした。
陽菜さんが水筒の水を飲みながら、少し恥ずかしそうに俯いている。
俺も——まだ心臓がドキドキしていた。
(さっきの……)
(陽菜さんの手……)
(温かかったな……)
そんなことを考えていると、陽菜さんが口を開いた。
「蒼太さん」
「はい?」
「さっき……カメラマンを諦めたって言ってましたよね」
その言葉に、俺は少し驚いた。
「ええ……」
「もしよければ……理由を聞いてもいいですか?」
陽菜さんが遠慮がちに尋ねる。
俺は少し考えてから——
正直に答えることにした。
◇◇◇
「……才能がないと思ったからです」
俺は空を見上げながら言う。
「専門学校に通っていた頃、コンテストに何度も応募しました」
「でも——全部、落選」
「一次選考すら通らないこともあった」
陽菜さんが静かに聞いている。
「それに——」
俺は苦笑いする。
「従兄弟の橘慧は、記者として成功してるんです」
「東京タワーダンジョンのMPK事件を暴いて、業界で有名になった」
「親戚の集まりでは、いつも『慧は立派だね』『蒼太も見習えば』って言われて……」
自分でも情けなくなる。
「比較されるのが嫌で、最近は疎遠になってて」
陽菜さんが優しく言う。
「……でも、蒼太さんは今、素敵な写真を撮ってますよ」
「え?」
「私には見えないけれど——」
陽菜さんが微笑む。
「蒼太さんが写真を撮る時の息遣い、シャッター音、そして撮った後の満足そうな雰囲気」
「全部が、『これは良い写真だ』って伝わってきます」
その言葉に、俺の胸が熱くなった。
「それに——」
陽菜さんが続ける。
「橘慧さんと蒼太さんは、違う人です」
「比較する必要なんてありません」
「蒼太さんには、蒼太さんにしか撮れない写真があるんです」
俺の目が潤んだ。
「……陽菜さん」
「私も——」
陽菜さんが少し寂しそうに微笑む。
「失明した時、『もう何もできない』って思いました」
「探索者も、山登りも、全部諦めようとした」
「でも——」
彼女が空を見上げる。
焦点の合わない灰色の瞳が、でも確かに何かを見つめているような——
「目が見えなくても、できることはたくさんあるって気づいたんです」
「風の音、花の香り、人の優しさ——全部、心で感じられる」
「だから——」
陽菜さんが俺の方を向く。
「蒼太さんも、諦めないでください」
「カメラマンの夢」
「蒼太さんにしか撮れない、心を動かす写真を」
その言葉に——
俺の中で、何かが変わった。
(そうだ……)
(俺は、慧と比較されるのが嫌で逃げてただけだ)
(でも——俺には、俺の撮り方がある)
(陽菜さんが教えてくれた——心で見る美しさを、写真に込めるんだ)
「……ありがとうございます」
俺は心から言った。
「陽菜さんのおかげで、もう一度頑張れそうです」
「こちらこそ」
陽菜さんが微笑む。
「蒼太さんがいてくれるから、私も頑張れるんです」
二人で見つめ合う。
そして——
今度は、お互いが自分から手を伸ばした。
陽菜さんの手は、もう冷たくない。
焚き火の温もりと、心の温もりで——温かい。
「一緒に、頑張りましょうね」
陽菜さんが微笑む。
「ええ。お互いに、支え合って」
俺も頷いた。
この手は——
守るための手じゃない。
支え合うための手だ。
◇◇◇
アストラルがククルに話しかける。
「なあ、ククル」
風が吹く。
彼が何かを呟いているようだったが——
風の音に紛れて、俺には聞き取れなかった。
ただ、アストラルが優しく微笑んでいるのは分かった。
仮面の下の表情は見えないけれど——
きっと、温かい笑顔なんだろう。
俺は——その会話を見守りながら思った。
ククルちゃんも、寂しいんだろうな。
陽菜さんと、友達になれたから。
でも——
それは悪いことじゃない。
みんなが幸せなら、それでいいんだ。
◇◇◇
夜。
第二十二層の休憩エリアで、俺たちは焚き火を囲んでいた。
アストラルが薪を組んで、魔法で火をつける。
パチパチと燃える音が心地よい。
陽菜さんが焚き火の温かさを感じながら、嬉しそうに微笑んでいる。
「良い夜ですね」
「ああ」
アストラルが頷く。
俺も同意した。
星空が美しい。
無数の星が、夜空に散らばっている。
こんなに綺麗な星空を見たのは——いつ以来だろう。
「アストラルさん」
陽菜さんが尋ねる。
「どうしてヒーローになったんですか?」
その質問に、アストラルが少し考えた。
「……困ってる人を、放っておけなくてな」
彼が焚き火を見つめながら答える。
「それに——俺にも守りたいものがある」
アストラルが何もない空間を一瞬見る。
「一人じゃ弱い。でも誰かと一緒なら、強くなれる」
「だからヒーローになったんだ」
風が優しく吹く。
まるで——
見えない誰かが、嬉しそうに笑っているかのように。
「素敵な理由ですね」
陽菜さんが微笑む。
俺も——胸が熱くなった。
(このヒーローは——)
(本当に、誰かのために戦ってるんだ)
(俺も……いつか、そんな風に——)
◇◇◇
焚き火の向こうで、アストラルが立ち上がった。
「少し見回りしてくる」
「大丈夫ですか?」
「ああ。すぐ戻る」
彼がマントを翻して、闇の中に消えていく。
俺と陽菜さんは、二人きりになった。
焚き火の音だけが、静かに響いている。
「……蒼太さん」
「はい?」
「今日、手を繋いでくれて……ありがとうございました」
陽菜さんが照れたように言う。
「いえ……俺も、嬉しかったです」
俺も正直に答えた。
「もし、いつか本当に見えるようになったら——」
俺は真剣に言った。
「僕、最初に白山の花を一緒に見たいです」
「この翠ヶ池も、コマクサも、全部」
陽菜さんが涙を浮かべて微笑む。
「……はい」
「でも——」
俺は続ける。
「見えても見えなくても、僕は陽菜さんと一緒に山に登りたい」
「それだけは、変わりません」
陽菜さんが小さく呟く。
「……ありがとうございます、蒼太さん」
「私も……ずっと一緒にいたいです」
二人で——
焚き火を見つめながら、静かに寄り添っていた。
星空の下で。
風が優しく吹いている。
そして——
遠くから、アストラルが戻ってくる気配がした。
でも——
彼はすぐには戻ってこなかった。
まるで——
俺たちに、もう少し二人の時間を与えてくれているかのように。
◇◇◇
アストラルは少し離れた場所で、星空を見上げていた。
何もない空間に向かって、小声で呟く。
「……ククル」
風が吹く。
「あの二人——良い感じだな」
また風が吹く。
「俺たちは……もう少ししたら、身を引いた方がいいかもな」
アストラルが優しく微笑む。
「山頂は——二人だけで迎えた方がいい」
「そういう大切な瞬間は、好きな人と二人きりで迎えるべきだろ」
風が強く吹いた。
まるで——
見えない誰かが、反対しているかのように。
「大丈夫だって」
アストラルが笑う。
「あの二人なら、もう大丈夫だ」
「蒼太は陽菜さんを守れる。いや、一緒に歩ける」
「俺はそれを見届けた。だから——」
彼が遠くの焚き火を見つめる。
「俺の役目は、もうすぐ終わりだ」
風が静かになった。
そして——
優しく、アストラルの頬を撫でた。
まるで——
見えない誰かが、理解したように——
◇◇◇
翌朝。
俺たちは第二十三層へと向かった。
アストラルが先頭を歩き、俺と陽菜さんが並んで歩く。
時々、手が触れ合う。
お互いに意識しながら——でも、嫌じゃない。
むしろ——
嬉しかった。
「蒼太さん」
「はい?」
「今日も、たくさん写真を撮ってくださいね」
「……はい」
俺はカメラを握りしめた。
この旅が終わったら——
写真展を開こう。
陽菜さんが「心で感じられる」写真展を。
そして——
彼女を、最初のゲストとして招待するんだ。
そう心に決めて——
俺たちは山頂を目指して、歩き続けた。
三人……いや、四人で。
影のヒーローと、見えない少女と共に——
白山の頂へ——




