プロローグ
俺、橘蒼太は、何者でもない。
カメラマンになる夢は諦めた。
探索者としても平凡なDランク。特別な才能も、勇気も、何もない。
ただ淡々と、日々を生きているだけ——そう思っていた。
八月初旬の朝。
東京のアパートで目が覚めると、窓の外から蝉の声が聞こえてくる。
今日も暑くなりそうだ。
俺は枕元に置いたカメラに目を向けた。
埃を被った一眼レフ。もう半年以上、シャッターを切っていない。
専門学校時代、俺はこのカメラで世界を切り取ろうとした。
美しい瞬間を、人々の笑顔を、風景の息吹を——全部、このレンズに収めようとした。
でも結果は、コンテストで何度も落選。
「才能がない」
その言葉が、俺の夢を終わらせた。
今の俺は、ただの探索者だ。
Dランクの、どこにでもいる平凡な探索者。
ダンジョンに入って、モンスターを倒して、報酬を得る。それだけの日々。
「……白山ダンジョン、か」
テーブルの上に置かれた観光パンフレットを見る。
白山——日本三名山の一つ。
「花の山」として有名で、七月から八月の二ヶ月間だけは黒いモンスターのボスが休眠し、安全に登れる観光スポットになるという。
報酬は安い。
でも、小遣い稼ぎにはなる。それに——
俺はもう一度、埃を被ったカメラを見た。
もしかしたら、久しぶりに写真を撮りたくなるかもしれない。
そんな淡い期待を抱きながら、俺は白山への準備を始めた。
◇◇◇
桜庭陽菜は、朝日を浴びることができなかった。
正確には、光は感じる。
温かさも分かる。
でも、その美しさを目で見ることは——もう二度とできない。
一年前の滑落事故。
頭部を強打し、視神経を損傷。
完全失明。
医師に告げられた。
「もう山には登れない」と。
あの時の絶望は、今でも胸に重くのしかかっている。
でも——陽菜は諦めなかった。
ワイヤーフレームという人工スキルカードを手に入れた。
ダンジョン内の物質とモンスターが線画で見えるようになる。
不完全な視覚だが、それでも何もないよりはマシだ。
そして今日、陽菜は白山ダンジョンへ向かう。
亡き祖母と一緒に登った、思い出の山。
「おばあちゃん……私、ちゃんと登れるよ」
小さく呟いて、陽菜はザックを背負った。
祖母は最期まで心配していた。
「陽菜はもう山に登れないんだね」と。
でも違う。目が見えなくても、山を感じることはできる。
風の音、花の香り、土の温もり——全部が教えてくれる。
ここがどれだけ美しい場所なのかを。
陽菜はトレッキングポールを握りしめた。
白い杖は持たない。
恥ずかしいからではなく、これだけで十分だから。
「行ってきます」
誰もいない部屋に向かって、陽菜は言った。
◇◇◇
同じ日、同じ時刻。
東京駅から北陸新幹線に乗る二人の人間がいた。
一人は元カメラマン志望の青年。
もう一人は視覚を失った元Cランク探索者、現Fランク探索者の女性。
二人はまだ知らない。
数時間後、白山の麓で——運命的な出会いが待っていることを。
そして、その出会いが互いの人生を変えることを。
目で見ることだけが「見る」ことではない。
心で感じることこそが、真の「見る」ことなのだと——
二人は、これから知るのだ。
◇◇◇
白山ダンジョンの入口には、大きな看板が立っていた。
【7月~8月:観光シーズン・初心者歓迎】
・黒いモンスターボスは休眠期のため出現しません
・Fランク以上の探索者資格で入山可能
・報酬は低いですが、安全に花を楽しめます
【9月~6月:戦闘シーズン・Cランク以上推奨】
・強力な黒いモンスターボスが各層に出現
・高額報酬と希少素材が獲得可能
・死亡事故多発・十分な準備と実力が必要
蒼太は看板を見上げた。
今は八月初旬。安全な観光シーズンだ。
「……まあ、気楽に行くか」
そう呟いて、蒼太は第一層への入口をくぐった。
一方、少し離れた場所で——
陽菜もまた、白山への第一歩を踏み出していた。
ワイヤーフレームで見える白い線だけの世界。
でも彼女の心には、色彩豊かな記憶が溢れていた。
祖母と見た景色。失明する前に焼き付けた、花々の美しさ。
「……私、ちゃんと登るからね」
陽菜は小さく微笑んで、山道を歩き始めた。
二人の物語が、今——静かに始まろうとしていた。




