中編
「……ええと、お久しぶりです、テオドール」
「ぁ、ああ! 本当に久しぶりだ、会いたかった……!」
「わ」
テオドールがいきなりに私の手を取ってそう言うので、私はとても驚いた。少なくとも学生時代の彼は同意も無しに私に触れることはなかったし、そもそも我々は触れ合いやスキンシップという行為はほとんどしなかった。しかも目が、彼の目がどうしようもなく、熱くて。……こんなの、おかしい。だって彼は、別に私のことなんて、でも、じゃあこの婚約には何の意味があるのって、その話をしたかったのだから、しっかりしなくてはいけなくて。
「ぁ、て、テオドール、あの」
「ここは寒くないか? サマンサは、寒いのが苦手だっただろう?」
「え、ええ、そうですね。でも、このくらいなら……」
「よければ、これを」
テオドールはおもむろにジャケットを脱いで、私の肩にかけた。よければなんて言っておいて、ほとんど押し付けられるようにかけられたジャケットはとても温かい。……この人は、こんなに強引な人だっただろうか。
「ありがとう、ございます……」
「どういたしまして。……えっと、何から話せばいいか。話したいことは山のようにあるんだが、ありすぎて」
少し照れたように顔をくしゃりと歪ませるテオドールは、やっと私の知っている彼だった。学生時代もたまにこうやってふいに笑っていた。……私は、そういう彼を見るのが好きだったのだ。やっと懐かしさを感じて、私は口を開いた。
「……未だに、三人以上の人と話すのは苦手ですか?」
「え、ああ、そうだな。……未だに苦手だ。よく知っている人たちなら別だが、誰かが話していたら別の誰かがまた話しだして、それを聞いていたらいきなりに話題を振られて会話のタイミングが掴めない。兄上に引っ張っていってもらわなければ会話を切り上げることもできなくて、君たちの所に行くのも遅くなって……。情けなくてごめん」
「いいえ、誰にでも不得手なことはあります。……それに、竜を討伐した英雄が情けないなんてことはないでしょう」
「……そう言ってもらえるなら、有難いな。はは、人喰いトカゲ様様だ」
「人、え……?」
「え、ああ、すまない。討伐隊の奴らが皆、あの竜のことをそう呼んでいて……。あいつは人を玩具だと認識しているただのオオトカゲで、学者が得意げに語るような賢い生き物なんかではないって。子ども騙しだが、そうでもしないと足が竦んで動けなくなる奴が出てくるからな」
「……そうでしたか」
テラスの手すりを掴みながら遠い目をするテオドールがどんな体験をしたのか、私には想像もできない。たった一週間前まで討伐隊に駆り出された騎士や魔法使いたちは一方的な防戦を強いられ、今日は誰が死ぬのかという恐怖に晒されていたのだ。
始めは、フリーデン騎士団も竜討伐に参加する予定だった。事実、我が家の騎士団には精鋭が多く在籍しており、我こそはと手を挙げる者も多かった。しかしあまりにも理不尽に竜は強かったのだ。その混乱に乗じた治安悪化が深刻であるのと、王都の守りが手薄になることを危惧した王は戦略的にフリーデン騎士団を残した。そして竜の出方を見る為にまだ未熟な者たちを討伐隊に組み込み攻撃させ、あちらがどう動くのかを事細かに観察することにした。
……作戦としては、間違ってはいない。国王はあの悪逆非道な竜をいかに効率よく倒すかを考えねばならなかった。そして最悪の場合、国を捨て民を連れてあの竜から逃げ延びるにも、それ相応の戦力は残しておかねばならなかった。つまり、これまでの討伐隊のほとんどは生贄だったのだ。それを知らずに立ち向かった者も多く、けれど知っていた者も少なくなかった筈だ。その中でテオドールは見事、竜を倒してみせた。絶望を打ち砕いた彼は、正しく英雄と呼べるだろう。
しかし、不可解なことがある。
「……テオドールは何故、討伐隊に参加したんですか?」
テオドールは次男とはいえ、ライデンシャフト侯爵家の者だ。討伐に組み込まれていたのは、基本的に平民か下級貴族の子どもで高位貴族の家から討伐に参加した者は少ない。これは明らかな選民であり言い逃れはできないが、しかしその法則があるのだから彼が討伐に参加していること自体が不自然だった。むしろ彼が許されるのであれば、我が家の兄たちや騎士たちだって許された筈だ。なのに、何故彼だけが許されたのか。竜を討ったのがテオドール・ライデンシャフトだと聞いた時、私は喜びよりもまず困惑したのだ。
私の問いに、テオドールはにこりと微笑んだ。
「勝機があったからだ。五分五分だったが、五分もあるなら試す価値はあった」
「それが、弓矢の魔法だったのですか?」
「ああ、あんなに上手くいくとは俺ですら思っていなかった。が、やってみるものだな。案外どうにでもなる」
何とも、超人的な答えだ。けれどそれだけでは、私の求める答えには届かない。
「ですが、ご両親やご親戚の方々から反対はなかったのですか?」
「あったよ、でも、無理に出て行った。五分五分とは言ったがやれる可能性を知っていたから、兄上に頼み込んでどうにかしてもらったんだ。上手くいけば報奨が約束されていたし、それで死んだらそれまでだ。……もう後悔するのは御免だったから」
「後悔、ですか?」
「……分かってる? 君のことなんだけど」
「……まあ、話の流れとしては、そうなんでしょうけれど」
「けれど?」
「どうしてそうなったのかが、理解できません」
「理解、か……。ああ、君らしいな」
テオドールは懐かしそうに目を細めながらこちらを振り返った。冷静でいたいのに、それが難しいくらいには顔が熱い。普段なら辛い肌寒い風が心地よいくらいだった。
「……学生の頃、どうして俺が付き合ってって言ったのか、君は知っていたよな」
「ええ、おそらくは」
「情けなさ過ぎて、今でもあの時の自分を殴りたい。……でも、当時は本当に助かったんだ、ありがとう」
「いいえ。先程も言いましたが、誰にだって不得手はあります。そこを助けてもらうことに疚しさを感じる必要はありません」
「君って本当に、いつも俺よりずっと大人で……。いや、俺が子どもなんだろうな。けど、もう物分かりのいい大人のふりをして黙っているのはやめようと思ったんだ」
テオドールは私の両手を掬い上げてぎゅうと握った。さっきは気づけなかったけれど、自分とは違う大きくてごつごつとした手にどきりとする。実家にいる兄たちや騎士たちだって同じような手をしている筈なのに、どうしてこんなに動揺してしまうのか。
「サマンサ、君が好きだ。……学生の頃から、ずっと好きだった」
ぐ、と息が詰まった。こんなことを面と向かって言われたのは初めてで、どう返すのが定石なのかもよく分からない。うら若き未婚の貴族令嬢としては致命的かもしれないが、こればかりはどうしようもないのだ。仕方なく私は、ただただ話を続けることにした。
「でも、あのお付き合いは……」
「ああ、君を利用しようとして近づいた。君と付き合ってるって言えば、面倒な連中から逃げられると思った。申し開きもできないし、したとしてそれが事実だ。……あの時は精神的にかなり辛くて、おかしくなっていたんだと思う。どれだけ謝罪をしたところで俺の罪は消えないが、本当に申し訳なかった。心から反省をしている」
「そんな、謝らないでください。あの時だって私は別に強制をされたわけではありません」
そう、私は全てを理解して、そうして頷いたのだ。私にだって下心があった。おままごとではあったけれど、テオドールと付き合っていたあの期間は私にとっては大切な思い出だ。謝罪を受けるようなことはされていない。
「……そうだよな?」
「え?」
「君、少なくとも、俺のこと嫌いではなかったよな?」
「え、えっと、まあ、そう、ですね……?」
何だろう、テオドールの雰囲気が一気に変わった感じがするのは気のせいではない気がする。
「付き合っている内に俺が、君に惚れていったのだって知ってた筈だ」
「し、知りません、そんな」
「いいや、知っていた筈だ。……デートだっていうのにずっと隣に座らせてくれなかったのも、一緒に歩いてくれなかったのも、俺への意趣返しだったんだろう」
「そんなことありません。大体、どうして貴方みたいな人が私を好きになるっていうんですか。学園一の美少女も侯爵家のご令嬢も皆、貴方に夢中で……。それこそ選り取り見取りで」
「俺は君と付き合っていた筈だが?」
「ですから、それは別れたら……」
「本気で言っているのか?」
私は何故、久しぶりに再会した学生時代に憧れていた人に詰られているのだろう。全く以て状況が掴めない。後ずさってしまいたいけれど、手を掴まれているのでそれもできなかった。
「……君が」
「え、はい……」
「君が付き合ってもいいって言ってくれた時、俺は自分で言いだしたことなのにすごく動揺して」
「……そうでしたね」
「でも賢い君は、全部分かってるって顔して俺にいい条件ばかり申し出てくれて、もっとどうしたらいいのか分からなくなった」
「……」
「君と付き合っているって言ったら、しつこく誘われる回数がすごく減ったよ。君のおかげで学生生活がとても楽になって、でも、何で君は俺に付き合ってくれているのかってずっと不思議だった。……もしかして俺のことが好きなのかなって思ったけど、デートに誘ってもあんまり嬉しそうにはしてくれなかったし」
私は当時の涙ぐましい努力を思い出して、唇をきゅっと閉じた。初めてデートに誘ってもらった時は心の中できゃあきゃあと騒いでいたし、友人に何度もその話をして呆れられたくらいだった。しかしテオドールはそういうのが苦手なのだからと、一生懸命にその浮ついた心を隠して動じてはいませんよという顔をしていたのだ。
「君は俺にあまり話しかけてはくれなかったけど、話を振ったら返してくれて……。ぽつぽつってゆっくり話が進んでいったあの時間が俺はすごく好きだった」
「……私も、あの時間は好きでしたよ」
「っ、……俺は、もっと君とああやって過ごしていたかった。図書室でも隣に座りたかったし学食も二人で行きたかったし、手を繋いで学生街にも出てみたかった」
「それは……」
できなかった。当時の私には婚約者はいなかったが、卒業と同時に婚約することはその時にはもう決まっていたから。同じような境遇の貴族子女でも学生の内だけはと恋人と過ごしている人もいたが、私はそういうことをするつもりはなかった。だって、未練になってしまう。
貴族の結婚は家の利害や縁故で決まるものだ。私の場合は親同士の約定だったが、いざ結婚という時にテオドールのことを強く思い出して精神を病むようなことは避けたかった。
「君は前髪を長くして目元を隠していたから、いつもどんな表情をしているのか気になって仕方がなかった。たまにちらっと見える目が可愛くて、でも一度も目が合わなくて寂しかった。絶対に人一人分離れている君の香りが風で運ばれてくる度にドキドキした。……気づいた時にはもう、手遅れだってすぐに分かるくらいには君のことが好きだった」
テオドールの話を聞きながら、それは本当に私のことなのだろうかと視線を落とした。私のことであったとしても学生時代の多感な時期に、今まで周りにいなかった性質の人間に魅力を感じてしまっただけなのではないだろうか。それくらい私と彼の間には何もなかったのだ。話はしたけれどそれくらいで、では、彼が好きなのは物静かな女性ということになるのではないだろうか。でも、私は別に物静かというわけではない。彼と会う時はいつも緊張をしていたのと、ボロがでないようにあまり煩くしなかっただけだ。
……つまりテオドールは想像上の私に恋をして、その恋が忘れられなくてこんな無茶な婚約をしてきたというのだろうか。そうであるなら、とても困る。私にとっても、彼にとってもいいことなんて一つもない。でも、まだ今なら間に合うかもしれない。
「あの、テオドール……」
「何度か告白をしようと思ったんだ」
「え」
「でも、できなかった。利用する為に付き合ってもらったのに、今度は本当に好きになったなんて言える筈がなかった。君が俺の思惑を知って付き合ってくれているのは分かっていたけど、自分の悪事を白状するのは恐ろしかったし警戒されて別れるって言われるかもしれないと思うと、何もできなかった。……今思えば、あの時間が一番に無駄だった。学生の内に動けていたら、あんな男と婚約なんてさせずに済んだのに……!」
「……えっと、それはジェームズ・キューンハイトのことを言ってるんですか?」
「そうだ! 何なんだ、あいつは!?」
「お、落ち着いてください」
また話の流れが変わってしまった。ジェームズ・キューンハイトはキューンハイト伯爵家の三男で、私の元婚約者だ。遠戚にあたる彼は多少難がある人で、でも極悪人という程ではない。子どもの頃は一緒に遊んだし成長と共に確実に素行は悪くなったが、私と結婚後は騎士団でしごきあげることが決まっていたから矯正できる可能性もなくはなかった。……かなりの希望的観測であったけれど。だから、面識のないテオドールに“あんな男”とか“何なんだ”とか言われる程の人ではない、多分。
「王都の貴族学院に入学できなかったからと地方の学校に金を積んで入学させてもらって、愛人が三人いて、その愛人との交際費を稼ぐために犯罪すれすれのことをやって、その上に不特定相手との乱交騒ぎで性病まで持っていただと!? そんな奴と結婚させようだなんて、フリーデン家は一体どんな弱みを握られていたんだ!?」
「そ、それは、ちょっとずつ誤解があるというか、その……。確かに頭は弱いんですけど、そこまで悪い人ではないというか、えっと……」
「君が庇う価値のある男なのか!?」
「価値と言われると、なんとも……」
そう真剣に言われてしまうと、庇う必要のある人でもない。元婚約者としては迷惑ばかりをかけられた。
だが、実際ジェームズという人は善人でも悪人でもなく、ただの頭の悪い人なのだ。そのせいで地方の平民も通う学園に行くことになり、キューンハイト伯爵家は『どうかバカ息子をお願いします』という意思を込めて多額の寄付をしたのだが、それがいけなかった。学園がその多額の寄付を理由に彼を優遇をしてしまったのだ。多少のおいたはお咎めなしで成績も弄ってもらっていたらしいが、彼は頭が悪いのでその状況に何の違和感も感じずそれを当たり前だと思ってしまった。調子に乗った彼を止める人はおらず、学生時代には他にも軽くいろいろとやらかしたらしい。
愛人が三人いるに関しては今のところ事実だが、皆平民で金払いのいいジェームズをお財布代わりにしているだけのようだ。そもそもそういう人以外からは相手にされない。交際費を稼ぐ為に犯罪すれすれのことをやったというのも、知らない人に『うまい話がある』と騙された結果、キューンハイト伯爵家の三男が詐欺まがいの商売の後ろ盾をしていると噂を流されたらしい。乱交と性病も事実だが、結局は騙され流された結果で彼自身が積極的に乱痴気騒ぎを起こしたわけでもない。
……ジェームズには悪気はなく、いや、悪気がないのが一番に厄介なのだが、そういうことをしてしまう人で、けれどだからこそ極悪人ではない。悪知恵の働く人に利用されるだけ利用されて、ボロ雑巾にされて捨てられる。そういう類の人なのだ。
それでもジェームズはキューンハイト伯爵夫妻にとっては、可愛い末っ子だった。悪人ではないので、やらかす度に散々叱られては『もうしません』と泣いて反省をするのだ。しかし、またやらかす。学習能力がないのだ。もう地下牢に閉じ込めておくしかないかもしれないと夫妻が嘆いていた時、遠戚である私に白羽の矢が立った。
犯罪に巻き込まれないように騎士団でしごきあげ、常識というものを叩き込み、真っ当に生きていけるように面倒を見ると言ったのは、キューンハイト伯爵夫妻を見捨てられなかった父だ。さすがに母にかなり怒られたようだが、私としてもあのままではいつか取り返しのつかないことをやらかして死ぬのだろうと思っていたから、慈善事業のような感覚で頷いた婚約だった。
「価値、いえ、その……。人には価値などつけられないので……」
「……サマンサ、君はあの男と積極的に結婚がしたかったか?」
「せ、っきょくてきに……?」
私はぐうと顔を顰めた。本来、貴族がこんなにも感情を表面に出すのはよろしくはない。しかしこの不思議な状況が私の気と表情筋を緩ませていた。
「そうでないなら、俺でもいい筈だ!」
「テオドールでもって、それは、それなら貴方のほうが私でなくてもいいでしょう」
「……どういう意味だ?」
「その通りの意味です。私以外にも貴方にはたくさんの選択肢があって、しかもきっとそちらのほうが条件がいい筈です。……正直に申しますと、確かにジェームズは褒められた人間ではありません。けれど、彼には私しかいないのです」
そう、本当に私しかいない。後がないと知っている筈なのに愛人を切れなくて、騙されたばかりなのに甘い話に吸い寄せられてしまうような駄目なジェームズ・キューンハイトを、ほかの誰が面倒を見るというのだろう。彼を強制的に騎士団に入れることはもう決定しているが、婚姻という法的な縛りがなければ逃げられる可能性も高い。そうなると彼に待つのは破滅だが遠戚としても幼馴染としてもそれはあまりにも後味が悪く、そしてキューンハイト夫妻が不憫でならない。上二人はまともなのに、どうして奴だけああなのか。もうあれは天性のもので、誰かがどうにかできるものではないのだろう。
それに比べてテオドールは、今や国の英雄だ。騎士として戦うのであれば負けはしないと兄たちや騎士団の騎士たちは息まいているが、その結果がどうであれテオドール・ライデンシャフトがなしえたことは消え去りはしない。しかも生まれが侯爵家なのだから縁談なんて掃いて捨てる程にあっただろうに、わざわざ取り立てて何の特技もない伯爵家の娘を選ぶ必要はどこにもないのだ。……今ならまだ、直接国王に別の娘を選ぶと言えば間に合うのではないか。
「ですから、テオドール。……え」
「……やはり、駄目なのか。俺は、何の足しにもならないどころか、不利益しか与えられないような男よりも劣るのか」
「ど、どうして泣くんです?」
さっきまで楽しそうにしていたテオドールが、いきなりに涙を流し始めるので私は一瞬息ができなくなった。慌ててハンカチを押し付けてしまったけれど、彼は抵抗をしない代わりに泣くのをやめない。
「お、俺は、確かに君を利用してっ、ぅぐ、卑怯者で、だから、申し訳ないと、でも……っ」
「テオドール、利用とはいいますが、別に貴方は私に酷いことなんて何一つしませんでしたよ」
「だが、卑怯であったことには変わりないっ。君のことなんて何も知らなかったのに、ただ君の名前を利用したくて近づいたんだ……!」
「……それは」
知っていた。学園ではフリーデン伯爵家の末子であるという名前ばかりが一人歩きしていたのに、私自身はとても地味に静かに過ごしていて特に目立ちもしなかったので余計だろう。だから今更、どうということはない。確かに面と向かって言われると心に来るものがあるが、それもこの状況の意味の分からなさに比べればそれも何のことはなかった。
「何回も謝ろうとして、うっ、でも、あの心地いい時間が惜しくて、だから、うぅ……っ」
「テオドール、ね、一旦落ち着きましょう。深呼吸をして、ね?」
「どうして俺は、あんなことを。すまない、サマンサ、反省しているんだ、すまない……」
「……でも、テオドール。貴方があの時に声をかけてくれなかったら、私たちは同じ時期に同じ学校に通っていただけの知り合いというだけでした。私は嘘でも一時でも、貴方の恋人になれたことを嬉しく思っていましたし後悔もしていません」
これは本心だ。本当に嬉しかったし、後悔なんてしていない。実を言うと、テオドールに声をかけられた時には私とジェームズとの婚約はもうほとんど確定していたのだ。最後に憧れの人と恋人ごっこができるならと、私のほうが乗り気だった。いつテオドールに『もういい』と言われるのかとそわそわしていたのに、卒業まで恋人という称号を持ち続けることができてむしろ満足をしていた。テオドールに罪の意識があったとは知らなかったが、まあ、真面目な人なのでそういうふうに思ってしまったのかもしれない。
「だからテオドール、もうそんなことを気にしなくても……」
「君が」
「え?」
「卒業式の時の君が! あんまりにも綺麗で、可愛くて! あれは、もしかしたら俺の為なのかと……。でも、結局抱きしめさせてもくれなくて、惨めで、それは当然のことだったかもしれないけど、次の日にはあんなのと婚約をして……っ」
「え、えっと、それは」
「あんなに綺麗にしてたのは、そいつの為だったんだって、元々卒業までの関係だって約束だったから、でも、それにしたって……!」
「テオドール、あの、話を……」
「君の婚約の話を聞いてから、俺は三日三晩吐いた」
「え」
「もう吐くものもないのに吐き続けて、寝込んで、起きて、やっと目が覚めたんだ」
俯いていた顔を上げて、テオドールが私を見る。泣き止んではいたけれど、その目はぞっとする程に暗い色をしていた。