追想I 、ルーチェ・フェビアテス
私は十年前にフェビアテス侯爵が統治された領地アスガルにある侯爵家別邸でひっそりと生まれた。
父譲りの茶髪に母譲りの翡翠色の瞳を持ち、両親の美貌もさることながら、そんな両親から血を継いだ私も例外ではなく麗しい容姿にすくすくと育った。
一人娘だったため高位貴族の後継として家庭教師から社交やマナーなどの英才教育を受け、周囲からの評価も高く、忙しなく勉学に励んだ。
両親から好かれたい、周りの期待に応えたい。
それは一種の承認願望だったのかもしれない。
六歳の頃。
私は父から呼ばれ、父の書斎へ向かった。
書斎の扉が不自然に少し開いており、扉の取手に触れようとした時、中から執事と父の話が聞こえてきた。
「旦那様、おめでとうございます。」
「ああ、ありがとう。ティナも嬉しかっただろう。」
「今、奥様は」
「後継となる男子の出産だったからな。疲れて休んでいる。」
………………後継の出産?
私は頭の中が真っ白になった。
今まで私がやってきた事はなんだったのか。
そういえば母は病弱でここ一年ほど会っていなかった。
勉学に忙しく、たった今まで気付くことも出来なかった。
私が後継者ではなかったのか。
哀しみよりも悔しさからか一筋の雫が頬を伝い床に落ちた。
それから暫く父たちの話し声を扉越しに聞いていたが、頭に入ってくることはなく、私は父から呼び出しを受けたことも忘れその場を後にした。
父たちは扉の向こうにいる私に気付くことすらなかった。
部屋に戻った私はその夜、ベッドの上で泣き崩れた。
何度拭おうとも溢れる涙を滝のように流す私はふと自分の右手が光に包まれていることに気付く。
私は涙に濡れた歪んだ視界で右手を開いて掌を見る。
そこには幾何学的な模様が刻み込まれていた。
今日の昼までは何もなかった掌に、紋章が刻まれており、それが眩い光に包まれている。
それは天からの祝福のようであり、悪魔からの呪詛のようでもあった。
父の身体に刻まれた紋章を見た事があったが、私に刻まれたものは全く違う紋章だった。
思わず嘲笑が口から漏れた。
「ハハっ、〈燐光〉じゃないんだ。」
〈燐光〉は淡い光を纏い操る力。
フェビアテス侯爵家の血統紋章。
私はそれを受け継ぐことがなかった。
それになによりも、弟が生まれた日に〈燐光〉とは全く別の紋章が刻印された。
私はその事実を受け止めた瞬間から、この紋章に運命を感じ、これまで何よりも大事だったフェビアテス侯爵家のことがどうでも良くなった。
弟が生まれた翌日から私は学ぶことをやめた。
出会い頭に今までの礼を述べ、突然のことに困惑していた家庭教師をその場で解雇した。
その日から私は自分の紋章の実験を始めた。
私の紋章は未知のものであり、何が出来るのか把握する必要があったから。
家の近くにある森に入り、紋章の実験を続けること二週間。
その日の夜、ようやく私は父に招致された。
二週間前も訪れ、絶望感を味わった場所で扉を叩く。
「失礼します、お父さん。」
書斎に入り、そこにいたのは三人。
机に肘をつき腕を組んで待ち構えていた父、備えつけのソファに生後二週間の弟を胸に抱いて腰掛けている母、父の斜め後ろに立ち静観している執事。
正確には四人だが、弟はカウントしない。
「何故呼ばれたのか分かっているだろう。」
父は開口一番、威圧的な声を発する。
「何のことでしょう。」
私は白を切り、知らないフリをする。
「………ルーチェ。」
母は私へ心配そうな視線を送るが、それも無視する。
「………家庭教師を勝手に解雇したそうだな。」
父は溜息を吐く。
「あ、その話ですか。はい、解雇しました。不要になりましたから。」
私は飄々と事実だけを述べる。
「………不要、だと?」
父は心底驚愕しているようだった。
「はい、家庭教師だって慈善事業じゃないんです。後継者でもない娘一人に時間を取らせるのは無駄じゃないですか。」
「………お前は後継者だろう。」
「ふふっ。そうでしたね、二週間前のあの日までは。でも今は違うでしょう。」
「何故そう言い切れる。」
「母に抱かれているでしょう?立派に育つであろう正統な後継者が。それに二週間前、そこの執事と話し込んでましたよね。私、扉越しに聞いてましたからあの時は悲しかったんですよ。今までの努力を全否定されたようで。」
父から投げかけられた質疑に私は淡々と答えていき、核心に触れた瞬間に執事と父は動揺から固まった。
「でも、お父さんたちには寧ろ感謝しているんです。フェビアテス侯爵家を継がなくて良いって分かった日の夜に素敵なギフトも贈られて、肩の荷がおりましたし。」
私は両手を合わせて頬に当て、夢心地の気分になる。
「ギフト………だと!?まさか」
「ルーチェ、血統紋章が発現したのね?」
父の声を遮るように母が声を上げる。
血統紋章の発現は本来なら祝事になるため、両親の様子も無理のないことであるが。
そんな早とちりな両親に否定から入ることにした。
私は侮蔑の言葉を含めて言い放つ。
父の誇りを踏み躙るように、怒りの琴線に触れるように。
「違いますよ、お母さん。そもそも〈燐光〉なんて祝福な訳ないじゃないですか。あんな最弱に等しい紋章。」
「………………明日、お前を奴隷商人へ売り渡す。」
父は私の台詞を聴き、冷淡な視線で睨み付けてくる。
激情を表に出さないように淡々と宣告する父に私は内心で笑みを隠しながら了承の意味を込めて頷いた。
「わかりました。ご自由にどうぞ。話はそれだけでしょうから私は部屋へ戻ります。」
そうして両親や執事が見送る中、私は父の書斎から退室し、自室へと戻り、ベッドの上へうつ伏せに寝転がる。
「これで、もう………、」
心残りはなく、私は独言し計画通りに事が進んだことに歓喜する。
呼び方が変わったことにすら気付かない両親の元から離れ、私は明日、自由を手にすることができる。
いざ今まで暮らしていた家を出るとなると感慨深くなるかと思ったけれどそうでもなかった。
寧ろ心の中がスッキリとして、清々しているのを感じる。
私はそのまま瞼を落とし、明日を心待ちにしつつ眠りについた。
次の日の早朝。
父は一人の男性を家に招き入れた。
バルトラと名乗る男ははじめに一礼してから社交辞令を述べ、今も父と挨拶混じりの雑談を交わしている。
私は父からバルトラへ紹介された後、バルトラの乗ってきた馬車の中に詰め込まれた。
「何か言わなくていいのか?」
出発前。
バルトラは無遠慮に問いかけてくるが、私は首を左右に振り不要だと告げた。
「要らない。生涯会う事もない奴に今更何を言うことがあるの。」
「フッ、お前面白いな。仮にも今まで家族だった人にそこまで割り切れるものか?」
「さぁね。私は二週間前まで家族だと思ってたけど、向こうは家族だと思ってなかったかもね。六年間、後継者として育てた一人娘を息子が生まれた瞬間に奴隷商人に売り渡すくらいだし。」
「それもそうか。………………出してくれ。」
私の言葉を聞いたバルトラは反応に困ったように一時程沈黙してから御者に出発を促し、私たちの乗り合わせる馬車は緩やかな速度で走り出す。
窓から外を覗くと生まれ育ったフェビアテス侯爵邸が遠ざかったことにより小さくなっていき、次第に見えなくなった。
私は窓の外から視線を逸らし、向かい合うように座っているバルトラへ問いかけることにした。
「この馬車は何処に向かっているの?」
「俺の本拠地であるセアーゼ伯爵領だな。」
「それで、奴隷って何をさせられるの?こう言ってはなんだけど、元は侯爵令嬢だから力仕事なんて出来ないよ?」
「はぁ………、仕事は買い手次第だが、力仕事はさせないだろうな。無力なのは見ただけで分かる。買い手となる貴族連中はどこも人手が不足しがちだ。精々メイドか侍女ってところだろう。」
「そう………。」
呆れがちになりながらもバルトラはきちんと私の質問に答えてくれた。
「それにしても………、お前は悲観とか絶望とかしないのな。」
「なんで?」
話を切り替え、バルトラは私を観察するように天頂から足の先まで見る。
「何でって、お前はこれから奴隷に堕とされるんだぞ?普通は悲観するもんなんじゃねぇの?」
「そうなんだ。でもそれって、奴隷堕ちが前提じゃない。私のことを奴隷に出来ないと思うけど。」
私はバルトラへ満面の笑みを浮かべる。
「は!?どういうことだ?」
私の爆弾発言に引っかかるものがあったのだろう。
訝しげな表情でバルトラは私の真意を伺う。
そんな彼に私はこれからのことを告げる。
まるで未来予知のように、予定調和のように。
「高い金銭を支払って私を買ったところ申し訳ないんだけどね。無理だと思うよ、私を本来の意味で奴隷にするのは。」