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磯に香る君のそばに海神  作者: 悠鬼由宇
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第四楽章 L'apprenti sorcier

「いやあ、こんないい正月は、久しぶりだあ、酒が美味え!」

 小畑の照夫が真っ赤な顔で絶叫する。

 悠人としてはそこまでか、と思うのだが確かにこの二年間は実家にも帰れず、碌な正月を過ごして来なかった。故にこれだけ人が集まりこれでもかとお節料理に囲まれた正月は、確かに大したものだとも思えてくる。

 それにしても、だ。

 正直、そろそろ、ウザい。何がって? 水田の陽菜の、自分への執拗な世話の事である。

 水田家で開かれているとは言え、

「カミサマー、お酒足りてるー?」

「カミサマー、伊達巻とってくるよーん」

「カミサマー、子持ち昆布好き? 陽菜のこと好き?」

 と訳の分からない爆弾までぶっ込んでくるものだから、たまったものではない。

 そんな様子を京は苦虫を噛み潰したように睨みつけている。その隣で、もっと凶暴な目付きで悠人を睨んでいる大男もいる。

 何やら波乱万丈を思わせる雰囲気なのだが、宴は意外に厳かに進む。と言うのも今年成人となり飲酒を法的に許可された陽菜が、コップ一杯で撃沈したからである。

「香ちゃんの娘なのに、弱いねえ」

「洋一くんの娘なのに、ダメだねえ」

「育て方間違えたんじゃない、こんなんじゃこの先やっていけないよ。全く」

 琴音はそう愚痴りながらコップに入った清酒を一気に煽る。

「琴婆、飲み過ぎじゃね? もーやめとき」

 京が少なからず心配し忠告するも、

「いやー、今年は酒が美味いから、堪らんの。ほっほっほ」

 今年の酒。今年の正月の酒。

 これまでは水田の洋一の密造によるドブロク酒が振る舞われていたのであるが。去年からコツコツ造っていたドブロクを、年末までに悠人が残さず全部飲んでしまったのだ。

 従って今年は街の酒屋で買ってきた大吟醸や特別純米酒が振る舞われている。それが意外に、いやとても好評なので、水田洋一は正直落ち込んでいる。

 其れはさておき。兎も角も、正月の宴は恙無く進んでいく。


「で? シンタ、ヒナに告られたか?」

 京は宴たけなわの最中、信太にささやく。信太は口に含んだ酒を吹き出し、

「いや。」

 と一言だけ呟く。

「ヒナ、三ヶ日明けたら帰っちゃうんだろ。シンタから、告れよ。」

「な、何言ってやがる、そんな無茶言うな!」

 割と真剣に信太が言うと、

「都会のチャラい男に持ってかれていいのか?」

「んっぐ… 」

「もうヒナも二十歳だぜ。寂しいんだぜ、心も、」

 信太が顔を伏せる。

「身体、も。」

 信太はハッとなり顔をあげる、すっかり赤面して。

「アレだろ、こーゆーのはホントは男から言うもんなんだろ、シンタも男ならお前から告れよ。」

 余りの正論に信太がぐうの音も出ず、まだ十七歳の京を畏れるが如く眺めたものだった。


「琴さんよオ、クウヤやウミ達、今年も戻らんかったなあ。元気しとるのか?」

 水田の善治が懐かしげに盃を口に含む。

「空也も海も大地も、元気そう。みんなによろしくって今朝メールが来たわ。」

 老人達が嬉しそうに微笑みあう、そして思い出話が始まる。悠人は琴音の隣に座りながら、

「お子さん達、三人なんですね?」

 琴音は首を振り、

「あと宙がいるわ。だから全部で四人。」

「へえー、みんな遠くに住んでるの?」

「空也はボストン。海はロンドン、大地はメルボルンよ。」

 遠過ぎる… 余りに遠過ぎて悠人は意識が遠のきそうになる。行った事もない海外ばかり、しかも大都市ばかり。一体この人の子供達は何を…

「ああ、でも宙が川崎にいるわ。どおでもいいけど。」

 急に不機嫌そうになり、一気に杯を飲み干す。

 どうやらその宙というお子さんとは上手くいってないらしい。それにしても、

「お子さん達の名前、素敵じゃないですか。空と海と大地、そして宇宙。ご主人と考えたの?」

「そうね、二人で考えたわ。でも、陸海空、までは良かったわ…」

 悠人はハアと頷く。

「でも、宇宙は余計だったわ。名前変えれば良かったわあ…」

 善治と洋子、小畑の照夫とみつが参戦してくる。

「まあ宙ちゃん位、仕方ないじゃない。空ちゃん、海ちゃん、大ちゃんがあんなに頑張ったんだから」

 悠人は気になって、

「頑張ったって?」

「空ちゃんはね、東大行って大学院行って、ボストンで大学の教授やってるのよ」

 悠人はのけぞった。その拍子に後頭部を柱にぶつけ、嫌な痛みに顔を歪ませる。

「海ちゃんはね、横浜国大行って、先生になって。今、ロンドンの日本人学校の校長しているわ」

 スゲ… 教育家系なのか? 故郷の母親を思い出し、ちょっと寂しくなる。

「それで、大ちゃんは一橋大、卒業してからは銀行や外資系を転々として、今オオストラリヤで支店長しているわ。琴ちゃん、合ってるかしら?」

 琴音が満足そうに頷く。スゲ… なんて高学歴な子供達… で? 宙さん?

 老人達の顔が曇り、話は兄や姉の話になる。ああ成る程、出来過ぎた兄姉を持った故にその壁にぶつかり、人生をドロップアウトしたのか。でも川崎在住と知っている、と言うことは連絡は取っているのだろうか。


 悠人のコップの清酒がなくなり、よいしょと席を立ち向かいの席の一升瓶に吸い寄せられる。香、洋一、小畑の初枝が今年の田畑の取れ高を予想し合っている。

「カミサマ… あと、一本しか残ってないんだ… どうかお手柔らかに…」

「あ、ああ、そうですか。わかりました。ところで、鳥山の宙さんってどんな人だったの?」

 悠人の何気ない問いに、香はプッと吹き出し、洋一は顔を強ばらせ、初枝は大きな溜息を漏らす三者三様の反応である。

「ううーーん、何という、かな…」

 洋一がニガリ切った顔でボソッと呟く。

「僕の六つか七つ上なんだけど… まあ、なんというか…」

 そんなに苦手な人なのか。香はケタケタ笑いながら、

「だめよあなた。人を見掛けや言動で判断しては。」

「見掛けや言動があんなでは、他に判断しようがないと僕は思うけどな。」

 この地に千葉県の柏から入婿してきた洋一が、それでも頑なに首を振る。

「今ちょうど五十歳くらいになったかな。まあ韓流で言えば〜 強面だけど優しいペテン師、ペンソクジュ、って感じかしら。うん。」

 一人納得して頷いているのだが、悠人にはサッパリ分からない。もっと詳しく知りたくて初枝の方を向くとー 何故か切なそうな懐かしそうな、いややはり悲しそうな顔で遠くを見ている。

「ひょっとして、初枝さんー」

 初枝は悠人に軽く口角を上げ、

「そうなの。私の初恋なの。でも、「掟」があったし、それより何より…」

 再び大きな溜息。

「その頃には、信太がお腹にいたから。」

 おい。初恋よりも、そっちが先かよ!

 悠人が突っ込もうとするも、余りに初枝の顔が切なそうなのでやむなく引っ込める。

「そう言えば、旦那さんは、確か…」

「そう。信太が産まれるちょっと前に亡くなったわ。」

「そうでしたね、確か脳溢血だったとか?」

「…違うわよ。バイクの事故よ」

 あれ。信太さんが語っていたのと少し違うぞ。

「でしたっけ。確か、大学院生だったとか?」

 香が盛大に吹き出す。そして腹を抱えて笑い出す。

「…違うわよ。誰がそんな… ああー、信太の奴、まったくもー」

 初枝が顔を膨らませて怒り出す。なんか可愛い。ちょっと胸がドキッとした悠人は、

「信太さんは顔見たことないんですよね?」

「そーなの。子供が出来たって言ったら、それはめでたいって、湘南の方まで祝賀ランに行っちゃって。それでその 帰りに大型トラックに突っ込んで。ホント何だったのかしらアイツ…」

 …暴走族? だったんですね?

 初恋よりも、前に? ですよね…

 すっごく大人しく冷静そうですけれども、初枝さん、あなた…

 悠人は苦笑いしかでない。


 思わぬ信太の出生秘話に動揺を隠せぬ悠人であるが、

「あの、話戻すんだけど、鳥山の宙さんって、やっぱりそっち系の人だったとか?」

「うーん、ちょっと違うかな。そうね、今風で言うインテリヤクザ、って感じかな。」

 それ今風か? と思いながら悠人は頷く。

「琴音さんと力也さんー亡くなった琴音さんの旦那さん、の方針でね。高校も大学も公立なら行かしてやるって。陸海空のお兄とお姉たちはそれぞれそうしたんだけど。あの人はー」

 初枝が遠くを見ながら呟く。

「大学は国公立無理だから、高校出て働きに出たの。それも横浜の桜木町の方の水商売系にね」

 横浜、水商売。京の母親のことが悠人の頭に浮かぶ。

「キャバクラのスカウトだか店長だかずっとやって、フラフラして。もうずっとここには戻ってこなかったの、それが何年か前、フラッと帰ってきてー」

 四十も半ばに近づいた男が二十歳そこそこの腹の膨らんだ女の子を連れて鳥山夫妻の下を訪れたという。その女の子はー

「タイ人? ベトナム人? どっか東南アジアの女の子だったのよ。もうみんなビックリ!」

 この大自然に囲まれた田舎の海辺の村は、さぞやパニックに…?

「もうね、琴音さんが半狂乱よ! 何しに帰ってきた、アンタの帰る場所はない、出て行けってね。なのに宙ちゃんったら、出産にお金がいるから金寄越せって。」

 うわ… 話を聞いているだけで、だらしのないダメな中年男性を思い浮かべる悠人である。

「琴音さんはね、この金持って二度と帰ってくるな、ってお金を宙ちゃんに叩きつけて。宙ちゃんはヘラヘラしながらお金を拾って、二人で出て行ったわ。それ以来姿を見せないのよ。」

 初枝は寂しげな表情でコップ酒をあおり、大きな溜息をついた。

 悠人もコップに残った清酒を一気に飲み干し、ちょっぴり切ない鳥山家の話を胸に引き取った。


     *     *     *     *     *     *


 正月三が日の日の出前。海音寺の住職の母親である吉田美妙による毎年恒例の『お告げ』は去年程のインパクトはなく、まあ今年はこの辺一体は恙無く時は過ぎていく的な内容であった。

 お告げを聞いた帰り道。真っ青に晴れ渡った空に日の出のオレンジ色が鮮やかに広がっていく。吐く息が真っ白な程の寒さの中、なだらかな山道を村民たちが下っていく。

 そんな中、京が信太の横に並び、

「明日にはヒナ、帰っちまうぞ。どーすんだよ?」

 信太は硬い表情で、

「わ、わかってる。」

 と言うのだがちっとも分かってない様子である。

「ヒナは待ってんだぞ、お前が告ってくれんの。」

 信太はゴクリと唾を飲み込む。

「お前、男だろう? そんでヒナのこと好きなんだろ? ヒナもお前に惚れてんだぞ。やることはただ一つ、だろ?」

 信太は立ち止まり、京を見下ろす。後から来た悠人が何事かと二人を見る。

「ユート。言ってやってくれよ。早いとこヒナに告れって。」

 悠人は深々と頷く。

「でないと。ヒナのヤツ、ユートに惚れちゃうぞ」

 信太は驚愕の表情となる。悠人も唖然とした表情となる。

「シンタより若くてイケメンだし。大卒のエリートだし。それより何より、カミサマだし」

 京のセリフに真実は一つのみだな、悠人は苦笑いしながら首を振る。ふと信太を見ると、恐ろしい目付きで悠人を睨みつけている。

「いや、ちょっと、まさか、そんな… あはは」

「いーや。今夜シンタが告らねえと、ヒナはユートにいっちまうぞ。おい。いいのかそれで?」

 信太と悠人は大きく首を振る。

「よし。今でしょ。今。さあ、今、行ってこい、告ってこい!」

 京は信太の背中を両手で押し出し、信太はよろよろと歩き出し、やがて見えなくなった。


「やけに、煽ったな。でも大丈夫か? 陽菜ちゃん驚かないか?」

 京は大きく溜息をつき、

「分かってねえなあ。これ、ヒナに頼まれたんだって。」

「えええ! そ、そうなの?」

「そ。掟の話は済んだのに、シンタの態度が全然変わらないって。だからー」

「そ、そうだったんだ…」

「ったく。正月にわざとユートにいちゃついて気を引こうとしたけど、ぜーんぜん。」

 ああ、あれはそういう… 若干残念に思う悠人であった。

「だからこれがラストチャンスなのさ、ヒナにとって。アイツ東京でかなりモテるらしいぞ、何人からも付き合ってくれって言われてるって。だからシンタにその気がねえなら、そっち行っちゃうって。」

 まあ、一人暮らしだし、いい大人だし。あんなに可愛いし、賢いし。ま、俺には高嶺の花だな、そう思って悠人は、

「信太さん、勇気出せよな。てか。あんな子に好かれてさ、いいよな信太さん…」

 京がフッと笑いながら、

「なんだよユート。お前も実はヒナに惚れちゃってたとか?」

「そ、そんなことねえよ。俺には手の届かねえ存在だって。」

「ほーん。てか、ユートって、彼女いるん?」


 悠人は大きな大きな溜息をはき、

「もしいたら、ここにいる訳ねーだろ。」

「ふーん。そっか。」

 京がプイとそっぽを向く。

「そういうお前、彼氏とかいる… 訳ねーか。」

「は?」

 京が悠人を睨みつける。

「もしいたら。俺を家に住まわせたりしないよな。」

「そだな、まあ、そーだ。」

 悠人は前から気になっていたことをいい機会だと思い、突っ込んでみる。

「お前、好きな人、いないの?」

 京は眉を顰め、

「惚れた男? んんんんんん…」

 真剣に考え始めた表情が可笑しくて悠人はプッと吹き出す。

 この子に好かれる男は、どんな奴なのかな。これだけ真っ直ぐで正直で、腕っ節が強くて勝気で負けず嫌いで、でも実はとっても繊細で寂しがり屋で、そして仲間を何より大事にする。

「いないのは分かった。じゃあさ、どんな男が好みなんだ?」

 ええええ、と奇声を発し京は更に首を捻る。

 そうか、京はまだ十七歳。初恋程度の恋はあれど、信太と陽菜程の深い愛に触れたことがないのか。

 まだまだ子供だな、悠人は京を見つめながらニッコリと微笑む。


「そんならさ、ユートは好きな女いるのかよ?」

 悠人は首を振る。

「ふーん。寂しい男なんだなあ」

 全身の力が変に抜けて悠人はずっこける。お前に言われたくねえよ。ったく。

「なあ。」

「なんだよ?」

「今のアタシらって、どんな関係なん?」

「どんな関係って?」

「だって。朝から晩までずっと一緒にいるやん?」

「うむ。そうだな。」

「毎日、一緒に働いてるやん?」

「うむ。間違いない。」

「一緒に飯食ってるやん?」

「う、うむ。そうだな…」

「毎晩、一緒に寝てるやん?」

 そうなのだ。去年のあの晩以来、茶の間で二人は一緒に寝ているのだ。朝起きると京が悠人にしがみついていることも多々あり、その度に悠人は虚しくトイレに引き篭もる。

 最近は寝付きに腕枕がデフォルト化して来ている。女子とそんな寝方をしたことのなかった悠人は、リアルに羊、いや猪を数える毎日なのである。

「これって、アタシら付き合ってんじゃね?」

「いや、違うだろ。」

「そうなん?」

「だって。お前、俺の事、好き?」

 京は悠人をじっと見つめ、んんんと唸りながら、

「フツー。」

 二度目の脱力を味わいながら、悠人は

「だろ。好きでもない奴と一緒にいるのって、付き合ってるとは言わないだろ。それに… 何でもない」

 急に赤面し俯く悠人に、

「は? 話途中でそれはないっしょ? なんだよ? 言え! 言わねえと岸壁から蹴り落とすぞ!」

「その脅しはやめてくれる? 俺ホントに溺れ死ぬか凍死しちゃうから。」

「いいから言え! 言ってください、おなしゃす!」

 余りのしつこさに、つい

「それに、付き合っていたらセックスするだろう?」

 京が固まった。口をあんぐりと開け、目をまん丸に見開き、まるで悠人が禁じられた呪文を言い放ったかの如く、恐れ慄いた表情となる。

「や、や、やらしい… この、エロオヤジ!」

 と言いつつも、それ程怒っている様子は見受けられず、寧ろ、

「で? ユートは、その、あにょ、アレなにょ?」

「は? 噛みまくってるけど、何言ってるにょキミは?」

 悠人も赤面しつつはぐらかそうと試みる。

 すっかり三ヶ日の朝日は昇りきり、暖かい日差しが春の息吹を待つ木々の合間から二人を照らしている。二人の頬はそれにより更に紅葉し、通りすがりの人々は首を傾げながら二人を追い抜いていくのだった。


     *     *     *     *     *     *


「で。ヒナにはなんて言ったの?」

「お、おう…」

「おうじゃ、わからんだろがボケ! 何つったんだよ!」

 京の怒声が小畑家の畑に響き渡り、小鳥が何羽か驚いて羽ばたいて行ってしまう。

「だから… その…」

 鍬を片手に額には脂汗を垂れ流している中年男を睨みつけ、

「はっきり言わんかい、このド阿呆!」

 悠人はその剣幕に恐れをなし、一〇歩ほど離れている。

 正月四日。昼過ぎに陽菜は東京の下宿先に帰っていった。帰る直前、陽菜は京に、

「アイツ。夏までになんとかしといて! お盆には帰るから。」

 そう吐き捨てるように言い放ったものだった。

 信太が陽菜に何と言ったのか聞き出そうとするも、

「アイツから聞いて。マジ信じらんない、有り得ない。クソが。」

 京は呆然と陽菜の帰り姿を見送ることしかできなかった。陽菜のブチギレ度合いから鑑みて、信太の陽菜への告白は最悪に近い形であったのだろう。

「で? 何て告ったんだっつーの! 言えってばコラ!」

 その時。信太の瞳に涙が込み上がってくる。逆に京は驚き、

「え? 何で? は?」

 男の涙に案外弱い京なのである。

「そ、そっか、うんうん、分かった、な、だから、涙ふけって…」

 信太の大粒の涙に悠人も茫然とし、

「お前があんなに厳しく言うから… ちょっと謝れよ…」

「お、おお… ごめんなシンタ…」

 遂に信太は畑の畔にしゃがみ込み、頭を抱えて嗚咽し始める。京は悠太の腕をとり、

「やばっ どうしよ… 」

「ちょっと、様子を、見るしか、ないな…」

 側から見たら奇妙な光景だが、当事者は各々真剣に苦しんでいるのだった。


 一時間ほど過ぎてようやく信太は落ち着きを取り戻し、ぽつりぽつりと語り出す。

「何だかさ… 焦っちゃってさ。もうすぐ陽菜が帰るかと思うと…」

「ふむ。で?」

「お前に、惚れてるっ、て言おうとしたけど、緊張して言えなくって…」

「ほほう。で?」

「お前と一緒になりたい、って言おうとしたけど、頭白くなってきて、言えなくて…」

「それなっ で?」

「でも、何か伝えなきゃ、と思って、思わず言ったんだ」

「ゴクリ。で?」

「お前と、子作りが、したい。って。」

 悠人と京は思わず畔に尻餅をつく。俗に言う、ずっこけたのである。

「そ、それは余りに…」

 悠人が首を振りながら呟く。

「シンタ。それは、さすがに、ちょっと…」

 京はとても可哀想な生き物を見る風になる。

「信太さん。相手は女子大生だぜ。まだ二十歳だろ? 流石に、子作りは…」

 信太の頬に新たな涙が零れ落ちる。

「言い方ってもんがあんだろ。いくらテンパってたと言え、子作りしようぜって…」

「俺も、何でそんなこと、口走ったか、分かんねえ。」

 そこには元エリート自衛官の面影は微塵もなかった。クラスのマドンナに無謀な告白をし、普通に爆死した高校生に近い姿である。

「まあ、ヒナはお盆に帰ってくるって言ってるし」

 信太は涙と泥で汚れた顔を上げる。

「それまでに、まあ、何とか考えておくんだな。」

 信太は深く、深く頷く。作戦に二度目の失敗は許されない。一度目の失敗から如何に多くのことを学び、次に活かすのか。信太は自衛官時代に叩き込まれたその思想を思い出し、奮い立つ。

「ま、それまでにヒナに彼氏出来ちゃうかも、だけどな。」

 あああああ… 信太の絶叫が山間の畑に木霊するのを後ろに聞きながら、京と悠人は溜息をつきながら家路につく。


「それにしても… 呆れるくらい、真っ直ぐでいい人だな。」

 悠人が砂利道の小石を蹴飛ばしながら呟く。

「まーな。見てくれも悪くねえし。頭も悪くねえし。」

「防大出のエリート自衛官だったし。それにこの国を救ったヒーローだし」

「は? ヒーロー? 何それ?」

 悠人は思わず口に出した言葉を慌てて引っ込めて、

「まあ、それ位凄い人だってことさ。陽菜ちゃんには勿体無いくらいの、な。」

「それなっ ま、ヒナもいい女だけどな。」

「それな。」

 京が一瞬悠人を睨み付ける。

「やっぱ、ユートさあ、ヒナに惚れてんじゃね?」

「そんなことないって! 信太さんが惚れてる女を好きになる訳ないだろう」

「ふーん。そうなん。じゃあ、誰に惚れてんの? アタシ? うわ、キモ!」

 悠人が急に立ち止まり、つられて京も立ち止まる。

「キモって、何だよ。キモいなら俺の布団に入ってくんなよ!」

 悠人が京を睨み付ける。急にキレた悠人に京は呆然とし、

「何キレてんだにょ、急ににょう…」

 この子は焦ると、噛む。その噛み具合が悠人には絶妙であり、カッとなった頭がスッと冷め、そして笑いが込み上げてくる。

「は? 何で笑う? え? 意味不明…」

 取り敢えず悠人の怒りが収まりホッとする京である。何が悠人をキレさせたか分からぬまま、胸を撫で下ろしているとー

「まあ。嫌いじゃないよ。お前のこと。」

 突然悠人が真顔で京に言う。

 京は完全に硬直し、息も止まり、時間も止まる。

 やがて京は胸がじんわりと暖かくなっていくのを感じる。何だろうこれ。こんなの初めてだよ、じわじわあったかくなってるよ。それに、心臓の鼓動が凄いよ、こんなの初めてだよ、え何これ?

 悠人を見上げる。今までは何も感じなかったが、韓流顔がすごく素敵に見えてくる。まるであの何たらチャチャチャに出てきたような、爽やかでイケメンで、優しくてちょっぴり翳があって。ぶっきらぼうで口も悪いが芯が強くて何より真っ直ぐで…

 徐々に顔が赤くなってくるのを感じながら、京は不思議な気持ちに包まれていた。

「ねえ」

「なに?」

「ユートはさあ、アタシのことさ、……?」

 急に黙り込んだ京を悠人は訝しげに見つめる。京の視線が自分ではなく、自分の後ろに注がれているのに気付き、そっと後ろを振り返る。


「誰? あの子」

 京が声を潜めて悠人に問うも、

「お前が知らない子、俺は知らないよ。誰かのお孫さん…じゃない?」

「違う。あんな子、見たことない。てか、何人? 日本人?」

 と京が訝しむほど、その子は色が真っ黒で日本人離れした顔立ちである。その子がぽつねんと、砂利道の真ん中で悠人と京を見上げていたのだった。


     *     *     *     *     *     *


 悠人と京が自分を認識したと気付き、その子は二人に近づいて、

「あの、とり山ことねさんのおたくわ、どこですか?」

 その声を聞いて、二人はその子が女の子だとようやく分かる。

「琴音さんちはそこだけど… あんた、誰?」

 色黒で整った顔立ちの少女がニッコリと笑いながら、

「わたしわ、とり山あきら、ですよ。」

 世代は微妙に違えど、流石に二人は(今日何度目だろう)ずっこけた。

「えっと、あきらちゃんは琴音さんの… ええええ?」

 明はニッコリと笑いながら、

「はい。わたしわことねさんの、おまごさんですよ。」

「ってことは、琴音さんとこの、宙の娘か!」

「父のことおしっていますの?」

「…いや。よく知らん。でも… ええええ?」

 悠人は京程ではないがやはり混乱している。確か正月に聞いた話では、鳥山家の四番目の息子、宙が外国人の若い女性と結婚し、子供がお腹に…

 そのお腹から出てきたのが、今目の前にいる子なのか?

「と、取り敢えず。琴音さんの家に行こう。一緒に、行こう。」

「お、おお。そうしよう。それしかない。」

 二人は若干落ち着きを取り戻し、明を連れて鳥山家に向かう。


 琴音は縁側に腰掛けて空を見上げていた。正月からずっと快晴が続き、雲一つない青く高い空を見つめているだけで、世俗を忘れ無心の境地に浸れるのが堪らない。正直、盆暮には子供達や孫達の顔が見たい。だがそれぞれの世界で活躍し故郷を振り返る暇のない事は、諦めの境地で承知している。

 だが数年に一度くらい、顔を見せに来てくれたって… Face TimeやLINE越しの対面だけでは余りに寂しすぎる、折角無心になれたのに気がつくとそんな事を考えている自分に嘲笑しているとー

「おーい、琴ばあ… この子…」

 京と悠人が庭先に歩いてくる。一瞬微笑みかけたがー

 琴音は絶句した。悠人と京の間にいる女の子。初めて見る子だけれど。

 あの子の、子だ。間違いない。

 気がつくと琴音は立ち上がり、

「何しに来た! 出ていけえー!」

 と大声で叫んでいた。


 わかっている。この子に罪のないことは、重々承知している。五年前だか、アジア系の若いお腹の膨れた女の子を宙が連れてきたことが、まるで昨日の出来事に感じる。

 わかっている。この子は何も悪くない。だが、この子の父親が許せない、我が子が許せない。小さい頃から何一つ言うことを聞かず、高校卒業と同時に勝手に家を飛び出したあの子。盆暮どころか何十年も顔を見せず、それでも亡き夫に黙って細々と援助をしてきたのに。それが自分の都合だけで五年前に顔を出し、これ以上の援助はいらないよ、と吐き捨ててすぐに居なくなり。

 親の葬式にも顔を出さず、生まれたであろう孫の顔も見せず。どうして上の三人の兄姉とこうも違うのだろう。

 そして。

 聞かなくても、分かる。あの子のやることは手に取るように、分かる。

 きっと邪魔になったのだ。この小さな娘が自分の生活に邪魔になったのだ。だから田舎に追いやったのだ、自分がもがき苦しんだ故郷に娘を放り出したんだ!


 悠人は驚き慄き、身を動かすことが出来なかった。琴音の心の慟哭を聞いた気がしたからだ。自分を捨てた息子の娘。どんなに可愛くても憎しみの情は否めないのだろう。

 悠人はそっと明を伺う。明は口をへの字に結び、眼から溢れんとする涙を必死に堪えている。唇が震え肩も震えている。今にも壊れそうな気がする、そう思った時。

「そりゃあ、ねーだろ、琴ばあ。この子には何の罪もねーだろ。話位聞いてやっt―」

「うるさいっ アンタも、こっから出て行けっ」

 琴音はそう叫ぶと老人とは思えぬ身のこなしで縁側を駆け上り、奥に消えて行った。

 京はしゃがみ込んで全身震えている明をきつく固く抱きしめる。

 悠人は、家に戻ろう、そう言うと京はコクリと頷いた。


 明は京の用意した昼ご飯をがっつくようにかきこんだ。とろろと卵に出汁を加えてご飯にかけた素朴な昼飯だったのだが、明は異様な目のギラつきと共に物も言わずに完食した。

「お腹、空いてたの?」

 明は二杯目を掻き込みながら頷く。

 どう見ても、細い。俗に言う骨と皮、だ。そんな明は、あっという間に二杯目を完食し、ようやく満足げな笑みを二人に向ける。

「ごちそうさまです。まあおいしかったですよ。」

 まあ、って…

 まあ、とにかく先ず話を聞かねばなるまい。そう思い、

「明ちゃんはここにどうやって来たのかな?」

「はい。あるいてきましたよ。」

「え? 初めて来たよね、よく一人で来れたね?」

「ああ。これおつかえば、サルでもこれますよ。」

 サル… なんだかこの子、話し方は信じられない程に丁寧なのだが、語彙が一々カチンと来る表現が多くないか?

 とても幼児とは思えぬ指さばきでスマホを操る明を二人は唖然として眺めている。

「歩いて来たってさ、駅からかい?」

「いえ。バスていからですよ。ちなみにいうと、えきからバスにのりましたので。さらにいえば、けいきゅうでカワサキからのりましたよ。けいきゅうかわさきえきまでわ父がおくってくれましたから。」

 悠人と京は顔を見合わせる。

「ちなみに父わはねだくうこうにいったみたいですよ、じっかににげかえった母おむかえにいきに。」

 成る程。鳥山家の末子は逃げた女房を迎えに日本を離れる、それには幼児が邪魔なのだ。二人はそう理解する。

「まあ、ほぼほぼそのとおりですね。ひこうきだいがもったいないから、おまえはおれのじっかにいっとけ、と。」

 二人は成る程と頷く。

「しかしなんとおろかなおもいつきでしょうね。いきなりかおもみたことのないまご、それもいみきらっているむすこのまごがとつぜんやってくるなんて。ことねさんもおおいにおどろき、いかりしんとうだったでしょう。けんのんけんのん。」

 最後の言葉が二人には理解できなかった、『ケン、ノン』? いや、言葉の端端に実は幼児が使う言葉とは思えない表現がふんだんに散りばめられており、京なぞは明の言うことの半分も理解できなかったようだ。


「まあ、うん。何となくわかった。ちなみにお母さんはどこの国の方なのかな?」

 明は頷きながら、

「ふぃりぴんきょうわこくのまにらしゅっしんですの。にほんにわしごとできていて、父にみそめられたそうですの。」

 ああ、ピンパブ(フィリピンパブ)に勤めてたって訳ね。成る程。

「ちなみにふぃりぴんぱぶのほすてすでわありませんよ。まにらとうしぎんこうのとれーだーです。いまも。」

 二人はそれぞれ己を恥じ、改めて明の母親に尊敬の念を抱く。

「それは凄い立派なお母さんだね。」

 悠人が褒めると明は嬉しそうな誇らしげな顔になる。

「で。父ちゃんは母ちゃんに何しちゃったんだ?」

 おいっ、と悠人が京を嗜める。そんな事聞かなくても……

「そうですね、かんたんにいえば母のおかねおむだんで父がつかった、というところでしょうか。そのおかねというのが母がわたしのしょうがっこうじゅけんのためにためたおかねだったところがみそですかね。」

 徐々に話が二人の想定から大きく外れ、手に負えない話になろうとしている。

「まあばかな父です。母おおいかけてまにらにむかいましたが、母の父はげきどしているそうですのん。あ、母の父わじもとのゆうりょくしゃというしごとをしているみたいで。たぶん父わころされてしまうのではないでしょうか。まあじごうじとくですが、すこしさみしくなります。」

 少しかよ! 

 てか、お母様、マニラの政治家か会社経営者か何かのお嬢様?

「…この話、琴音さんにどう話すよ?」

「うーん。実の息子が殺されるって時に、聞く耳持つかねえ」

「いや殺されないだろう、そんな簡単には」

「え、だって金を盗んだ男を誘き寄せて殺すっていう話だろ?」

「うーん、若干違うと思うぞ。もう少し愛が挟まった話だと思うぞ。殺されるとは思うが」

「どっちだよ、殺られるか、殺られねえか、ハッキリしろよっ」

「うーーん。娘の教育資金に手を出すなんて、殺されても仕方ないのかなあ。それにしても聞きしに勝る駄目男だな。」

「アタシも話しか知らんけど。ま、殺られて当然だろ。」

 悠人も半分同意しかける。が。目の前の少女の今後の身の振り方を考えねばならない。

「どーしよ。てか、アンタ。どーしたい?」

 京の無茶振りに悠人が言葉を遮ろうとすると、

「もしもんだいなければ、ここに、おじゃましてもいいですよ。」

 二人は開いた口が閉じるまでに数分の時間を要した。


「……と言う訳で。しばらくウチで預かるから。落ち着いたら様子見に来てよ。いい?」

 閉じた障子戸の向こうに向かって京が一方的に話す。多分、いや間違いなく琴音は聞いていた筈だ。そして内心ホッとしている筈だ。ん? それはどうか分からない。

 京は溜息をついて鳥山家に背を向けると、障子戸が開く音がしたので振り返る。縁側に産みたての卵で一杯の籠が置いてある。

 悠人の言う通りしばらく様子を見るのがいいかも知れない、そう思い有り難くその卵を頂戴する。

「そうか。やはり色々と思うところがあるんだろうな。出来の悪い子ほど親は気に掛ける、って言うらしいからな。」

「そうなん? ま、どーでもいーけど。」

 悠人は明が興味深げに庭先を歩き回っているのを確認し、

「それより。お前は、その、嫌じゃないのか? 見ず知らずの子供を引き取るなんて。」

 京はキョトンとした顔で、

「へ? 別に。見ず知らずって、あの子は琴ばあの孫じゃん、全然アリ。ユートなんかより、全然オッケー。」

 悠人は苦笑いする。そして京に背中を向け、かなり落ち込んだ。


     *     *     *     *     *     *


 話をすればする程、実に良く育てられた子である。言葉遣いに若干難があるが、それを差し引いてもこれ程ちゃんとした子を悠人は今までみた事がない。

 どちらかと言うと悠人は子供が苦手である。子供の自由爛漫さが生真面目な悠人にはどうにも許せない。言ってしまえば器の小ささなのだが、本人がそれに気付くにはもう少し時間がかかるだろう。

 この明という子は、そういった子供特有の天真爛漫さや無鉄砲さがあまり見られず、実に悠人にとってはとっつきやすい子供ではある。実際、話をしていても話が食い違うことは少なく、意思疎通の取り易い極めて稀な子供だ、悠人はこの子となら上手くやって行けそうだ、なんなら京よりも、なんて思ってしまうほどである。

 一方の京と言えば、明の話を半分も理解していない様子にも関わらず、あれこれとよく世話をしているようだ。ちゃんと手を洗え、おやつは何が食いたい、夕飯は何がいい、挙げ句の果てには、

「ちょっと街に買い出し行ってくるわ。この子の歯ブラシとか買ってくるし。」

思ったよりも色々考えている京に悠人は感心しつつも、自分よりも労り度が高い気がして少し拗ねた気持ちになっている。

 そんな二人をよそに、明はこの村に、と言うよりも都会にはないこの大自然に大いに興味を持ったようで、何かとスマホで色々調べては唸り声を上げている。

「トリカブトおはじめてみました、おどろきです、すごいです!」

 その辺のなんてことのない雑草を見ては感動し興奮し跳ね回っている明を京と悠人はホッとした思いで眺めている。


 夕食を終え、入浴後。明をどこで寝せるかを京と悠人が相談していると、

「あの、もしやわたしわひとりでねるので?」

「うーん、アンタどうしたい? 一人で寝たい? 二人で寝たい? まさかの三人?」

「さんにん!」

 即答である。京は少し驚き、

「ほーん。そんじゃここで布団敷いて三人で寝るか?」

「うわーい、さんにん、さんにん。さいきん父とふたりでねていたので、さんにんはひさしぶりなのですの! わーい」

 父と二人? 母とではなく?

「母わほら、マニラにかえってしまったので。」

 成る程。二人が宙をちょっとだけ見直したのは、母親が逃げた後ちゃんと娘と一緒に寝てやっていた事だ。てっきり夜は娘を放置して遊び歩いていたかと考えていたので。

布団を敷き、二枚の掛け布団を上手に重ね合わせ、明に掛けてやる。電気を消し正に川の字となって三人は横たわる。

 悠人にとっては京への腕枕をしなくて良くなったのが幸いである。が、若干残念というか寂しさが否めないのが不思議であった。

 だが代わりに少女が隣で寝ており、京とは全く異なる幼い匂いが鼻をくすぐると、なんとも言い難い安息感に満たされ、気が付くとあっという間に夢の世界に落ちていた。

 京は京で腕枕を失った代わりに温かい湯たんぽのような少女を胸に抱き、その少女の小さな顔が双丘に埋もれているのが何とも言い難い心地、言うなれば母性本能が全開気分となり、暗くて誰にも見えないが観音菩薩のような穏やかな笑みを湛え寝入っているのであった。


 明が来て三日目。ちょっとした事件が起こった。

 上の田圃のど真ん中に大きな猪が倒れているのを信太と善治、洋子らが発見した。猪は既に絶命しており、信太が調べてみて首を傾げる。

「これ、銃跡もねえし。まさかと思うが、ひょっとしたら…」

 その信太が想定したまさか、とは所謂伝染病の類である。もしそうならば村は、いやこの恵比須一体はパニックに陥るだろう。小畑家においてはその猪の死骸を皆には言わずに畑の隅に置いて筵を掛け、少しの肉を切り分けて横須賀基地に勤めている信太の防大時代の元同級生の元に持参して調べてもらった結果。

「アコニチン、メサコニチン、それにアコニンだな。ウイルスや病原菌よりもタチが悪い。」

「それって…?」

「トリカブトに含まれている毒だよ。即効性のな。」

「な、何じゃそれ?」

「こっちが聞きたいわ。とんだゲリラ戦に巻き込まれてるなお前」

 同級生は大笑いするが、信太にとってはとんでもない事である。

 犯人は誰だ? 思い当たるのは尖閣事変の時の敵であった中国兵か? いや彼らならこんな手筈は踏むまい。いきなり村を急襲し全家を殲滅し焼き払うであろう。

 では一体誰が? 全く思い当たる節のないまま村に戻ると、二、三日前に村にやってきた鳥山家の孫娘が悠人にこっぴどく叱られている。

「駄目じゃないか、勝手にナイフなんて持ち出しては。これはよく研いであるから、間違えたら指なんて簡単に取れちゃうぞ。これからは勝手に使っては駄目だぞ!」

「はあい、わかりましたの。」

「で。何に使ったんだい?」

「え? わなですよわな。」

「わな?」

「罠…?」

「あれ、信太さん、お帰り。どうしたの?」

「今、こいつ罠って言ったよな?」

「こいつじゃないです、あきらですのん。」

 信太は明を睨みつけ、

「罠って何だ?」

「わなといえばもうじゅうおせんめつするためのしゅだんですがなにか?」

 信太は唖然とし、

「猛獣、って何だよ?」

「おおきなイノシシがたはたおあらしみなこまっていると、きょうさんがもうしておりましたのん。なので。」

 悠人が首を傾げ、

「信太さん、どしたの。何かあったの?」

 信太は額に脂汗を滲ませ、

「いや… 後で、ちょっとウチに来い。」

 そう言って足を引き摺りながら去って行った。


「何それ! スッゲーじゃん」

「いや駄目だろ。全然マズいだろ!」

「いいとかダメとかの話じゃねえ。あんな幼稚園児みてえのがトリカブトの毒を知っていてそれを活用しちまった、それが問題なんだよ!」

 二人は信太の剣幕に若干引く。

「いくらスマホでなんでも調べられるからと言え… ちょっと恐ろしい子だぞ、あの子は。目的の為なら何でもしちまう。親がちゃんと見てねえと。」

「お、親じゃ、ねえし」

 京がポロッと呟くと、

「親がやるべき管理責任が取れねえなら、ガキなんて預かんな!」

 信太の渾身の一撃を受け、二人はすっかりシュンとなる。

 すっかり打ちのめされて二人は小畑家を出る。日はすっかりと傾きオレンジ色が山の端に滲んで見える。

 二人が家に戻ると明は縁側でシュンとなって座っている。

「あの、わたしわまちがったことおしたのですの?」

 悠人はニッコリと笑って、

「田畑を荒らすイノシシをやっつけた事は、素直にありがと。」

 明の顔がパッと明るくなる。

「だけどね。法律があってね、免許を持っていない人が罠を作って仕掛けてはいけないんだよ。」

「え、そんなほうりつが?」

「うん。狩猟免許の内、わな猟免許と言うのが必要なんだよ。その免許がなければ罠を仕掛けてはならないんだ。」

「それわ、まったくしりませんでしたの。ユートさんはひょっとしてとうだいですか?」

 悠人は苦笑いしながら首を振る。そして、

「トリカブト。よく調べたね」

「はい。まさかこんなにみぢかにあるとわしりませんでしたの」

「トリカブトの毒は、本当に危険なんだ。素手で触るだけでも毒が効いてしまう位にね。」

 明がビクッとして自分の両手をそっと見下ろす。

「もし明ちゃんが罠を作るときにその手を口に含んでいたらー君は昨日、死んでいたんだよ。」

 明は目を大きく開き口を震わせ、何事か呟く。

「知識を持つことは尊い。知識が人生を楽しくも楽にもしてくれる。だけどね、それは知識の使い方を学んだ者の話なんだよ。」

 悠人の目をしっかりと見据え、明は頷く。

「君はまだ小さい。だからこれから知識の使い方を学ばなければならない。明ちゃん、約束してくれないか。今後何か発見したり実験したくなったら、必ず俺かきょ…、信太さんに相談するって。出来るかい?」

「できるよ。あきらわやくそくできるんだもん!」

 悠人はニッコリと笑い、

「よし。じゃあ、昨日罠を作った時の道具とか材料、どこにあるんだい?」

「えーと。トリカブトわれいぞうこの中だよ」

 絶叫が恵比須の集落に響き渡った。


 信太を呼び、三人がかりで台所を除毒し、材料や道具を全て処分し終わった頃にはすっかり日が暮れていた。

「しっかし… 末恐ろしいガキだぜ。しっかり見てねえと、もっととんでもねえ事やらかすぞ。」

 京がササっと拵えた夕食をとりながら信太は恐ろしげに呟く。

「いやあ、それほどでも。」

「アホか。照れてんじゃねえよ。もう二度と毒物を取り扱うことを禁ずる。いいなっ」

「まえむきにけんとういたしますのん。」

 信太は大きく溜息をつきちゃぶ台に突っ伏す。

「ところでシンタさんはおこさんわおられますの?」

「は? いねーよ。まだ独身だっつーの」

「そのおとしでまだどくしんとわ。なにかにんげんてきにいじょうでもありますのん?」

 京と悠人は堪らず吹き出す。

「たとえばすきなじょせいにこくはくもできない、チキンやろうでいらっしゃるとか?」

 危うく京は爆笑し過ぎてちゃぶ台をひっくり返す所であった。悠人は飲んでいた味噌汁が気管に入り激しく咽せかえっていた。信太は思わず握っていた箸をへし折っていた。

 危険だ。やはりこの子はとんでもない危険人物である。三人は認識を新たにしつつ、各々の粗相を始末するのであった。


     *     *     *     *     *     *


 明が突如この村に現れてから十日間が過ぎた。

 明の出現により、村は良く言えば活気に溢れ、悪く言えば村民は散々に振り回されていた。いや、村民だけではなくその周囲にも少なからず影響を及ぼしている。

「おい、京ちゃん。この子何とかしてくれよ…」

 恵比須漁協の前島副漁協長が京に堪らず懇願している。

「この子、生食用の魚は全てアニサキスの検査をするべきだ、とか言って内臓をほじくり返すんだよお、これじゃ売り物になんねえよ。頼むよ、何とかしてくれよお」

 隼汰も被さってくる。

「ったく、あのガキ。俺んとこの漁船は余りに不衛生だって、勝手に消毒始めやがって。お陰で今朝は漁に出れなかったっつーの。おい神様、何とかしてくれよ! でねえと干上がっちまうだろーが」

 ああ、これも監督責任の一環なのだろうか。親とは何と偉大な存在だったのか。改めて悠人は両親の偉大さに平伏し打ちのめされるのであった。

 だがそんな明の寝顔を毎晩間近で見ていると、日中のストレスが癒され尊い気分になってくるのが意外であった。幼な子の安らかな寝顔、柔らかな体臭、健やかな寝息。日中にどんなに酷い目に遭っても、こうして寝ている明を眺めているだけで全てが許せてしまう。

 子育てって、何だろう。ひょっとして子を育てるのではなく、子の面倒を見る事で親自身が成長していく事なのではないのか? 血の繋がらない子の育児を通じて悠人は育児の本質に迫りつつあるのだった。

 片や京は。どちらかと言うと明と一緒になって騒いでいる感が否めない。彼女にとっては育児というよりも年の離れた妹の面倒を見ている、と言った所であろうか。

 一人っ子で育った京には初めて寝食を共にする(亡き父と祖父、逃亡せし母、神の使いたる悠人を除く)他人なのである。そう、兄弟姉妹も所詮は他人、価値観も違えば思想も異なる。だからこそ共に生活を営むことで自己中心的な思考は改められ、社会性が身につくのである。

 今、京に圧倒的に欠けていた社会性が明の出現により身に付きつつあるのを悠人は微笑ましく見守っている最中である。


 同じことが信太にも生じつつある。初めは『トリカブト事件』で幼いながら戦慄する相手であったのだが、畑仕事の手伝いや家事の手伝いを通じ、徐々に二人の関係性は濃くなっていく。

 信太は娘の年頃の子と接することが皆無であったのが、こうして触れ合っていくうちに信太自身が気付かぬうちに父性本能が表面化してきているのである。

 現に今も畑仕事の帰り。信太の肩車に乗り、

「シンタさん、あすわてんきがくずれそうですね、にしのそらがよどんでいますのん」

「ああ、そうだな。明日は朝から雨だな。」

「さむくなりそうですね、ししなべがたべたいです。あああ、きゅうにこけないでくださいよ、あぶなくおちるところでしたのん!」

 そんな二人を後ろから追いながら、

「すっかり仲良くなったな。」

「あは。まるで親子じゃん。いいねえ。あ。琴ばあんち行って卵貰って来ようぜ」

「そうするか。」

 二人は信太に一言告げ、鳥山家に歩を進める。未だ琴音は明を認めておらず会いもせず口もきかないのであるが、前よりも新鮮で良い卵や鶏肉を分けてくれるようになり、口には出さないが明の事を遠くから気にかけている風に悠人は感じている。

 京も同様に感じているようで、琴音の家に顔を出すときはそれとなく明の様子を伝えたりしている。ガリガリに痩せていた明が、この十日間でだいぶふっくらしてきた事を告げた時の琴音の一瞬の笑みを京は見逃さなかった。

「ちわーっす。琴ばあ、卵ちょーだーい」

 京が鳥山家の庭先に顔を出す。

 縁側で脱心状態の琴音が空を見上げているー

 

 手元に置いてある茶が冷え切っており、縁側の下にはスマホが落ちっぱなしになっている。

「ねえ、どうしたの琴ばあ、大丈夫?」

 京が慌てて琴音の元に走り寄り肩を揺らす。それでも琴音は空を見上げたままである。

「ねえ、何かあった? 琴ばあ、何があったの!」

 視線が徐々に降りてきて、それでも虚な目で京を眺める。悠人も地面に落ちたスマホを拾い上げ、

「琴音さん、どうかしたんのですか? まさか宙さんに何かあったとか?」

 割と適当に問いかけたのだが、琴音の肩がビクッと震えるのを見て、

「あああ… 宙さん、殺られちゃったんだ、ね…」

「そんな… まさか… そんな事ないですよね? そんな事ないよね?」

 琴音は悠人を見、ゆっくりと首を振る。

「ああ、良かった、びっくりした。じゃあ、何があったの?」

「なんだ、てっきりマニラでぶっ殺されてたかと思ったわ。じゃあ、どうしたん?」

 どれだけ静寂が流れただろうか、二人は琴音が語るまでじっと待っていた。やがて、ポツリポツリと琴音が溢し始めるー


 あの子は本当に手のかかる子だった。出来の良かったお兄ちゃんお姉ちゃんとはまるで違う、本物の不良だった。勉強もやれば出来るくせにわざと悪ぶって遊んでばかり。努力するのが大嫌いな子だったの。そんな宙を死んだお父さんは軽蔑し切り捨てていたわ。でも、私はそれが出来なかった。だってお腹を痛めて産んだ子だもの。どんなに悪態つかれても、どんなに迷惑かけられても私は見捨てることができなかった。だからあの子が出て行った後も何とかしてあの子の消息だけは掴んでいたわ。そしてお父さんには内緒でお金を送ったり食べ物を送ったりしていたわ。ずっと。そう、あの女が現れるまで、ずっと。


 あの女? って、ひょっとして明の母親なのか? 悠人は目で問うと、


 そう、あの女。お腹を膨らませここに来た時。「もうこれからは私が稼いだお金があるからあなたの援助は必要ありません」そう言ったのよ、あの女。もう私の事を、母親の事を必要ないって言ったのよ、あの女。その横で何十年ぶりに顔を見せた宙も「母さん、今までサンキューな。これからはコイツと腹の中の子とで何とかやってくわ」って。ずっと遠くから見守ってきたのに。ずっと陰ながら援助し支えてきたのに。何なのこの仕打ちは。私はしまってあった現金を二人に叩きつけてやったわ。二度と来るんじゃない、二度と顔を見せるんじゃない、って。それから私は宙は死んだものと思い、やってきたの、今まで。


 二人は固唾を飲み、琴音の言葉に耳を傾けている。


 だからこの前あの娘が来た時。ああ、宙は、あの二人は全然上手くいかなかったんだ、この娘が邪魔になったのだ、そう思ったの。だって宙みたいな中途半端な人間に、家庭を守れる筈なんてないから。可哀想なのはこの娘。だけど私は許せなかった。あの子の血を、あの女の血を引き継いだあの娘を孫だと認められなかった。どうしても許せなかった。ええ、わかっているわ。あの娘は何も悪くない事ぐらい。寧ろ親に見捨てられ本当に可哀想。だけどね京ちゃん、どうしても私は許せないの。あの子とあの女の事が…


 琴音の慟哭に身を固まらせ俯く二人であった。


 悠人くん、スマホ拾ってくれてありがと。さっきね、空也からメールが来たの。


 琴音がスマホをスワイプし、メールソフトを立ち上げる。その目にはみるみるうちに大粒の涙が込み上げてくる。

そしてそのメールを二人に差し出す。二人は食いつくようにスマホに見入る。空也からのメールは老眼の琴音が読みやすいように大文字表記であったー


 母さん

 マリアの子宮癌の手術は東大病院で無事に成功したらしいよ。随分難しい手術だったけれど僕の親友が執刀したのだから間違いはないさ。彼曰く、あと半月遅かったらマリアは命を落としていたそうだよ。それにしてもあの宙が入院中のマリアの世話をよくやっているそうだから人間わからないものだね。明はそっちで元気にしているかい? いつもみたいにLINEかFBで孫の顔を見せておくれよ。マリアに似た聡明で可愛い子らしいじゃないか。また夜にでもFaceTimeで。取り急ぎ。

 空也


 京はスマホを地面に落とした。

 同時に京の頬から垂れた涙も地面に落ちた。

 庭先の柿の木に残っていた枯れ葉が夕方の柔らかい風に吹かれ地面に落ちた。


     *     *     *     *     *     *


「え? え? えええ? なんですと! ママンはじつわたいびょうをわずらっており、そのしゅじゅつにパパンがつきそっていたと!」

 琴音の膝の上の明は驚愕の表情で叫ぶ。

 琴音が愛おしそうな目で明を眺め、優しく頭を撫でる。明は気持ち良さげにし、それでも

「なんであきらもつれていかないのでしょうか! あきらもママンのにゅういんのてつだいがしたかったですよ、」

「ああ、なんて良い子なの! 宙とは大違い。あなたは本当に優しい子ね」

 明は琴音に振り返り、被りを振る。

「あきらわしゅじゅつのおてつだいがしたかったですのん!」

 京、悠人、信太が大声でダメ出しをする。

「成る程、宙さんが嘘をついてマニラに行くなんて言った訳がわかったわ」

「それな。コイツ、マジで病院で大暴れしそうだもんな。勝手に注射とかしそうだし」

 信太が身震いしながら呟く。

「勝手に病室で手術始めたりな。ったく困った子だし」

 京がニヤケ顔で言うと、

「え? ダメですのん? まさかしゅじゅつするのもなにかめんきょがひつようだとか?」

「「「必要ですからっ」」」

 明は深く頷き、やがて

「でわあきらわおとなになったらしゅじゅつめんきょをとっておおぜいの人のびょうきおなおします。」

 琴音は背後から明をギュッと抱きしめ、

「まあ素敵。お婆ちゃんがいっぱい援助するからね。応援するからね」

「それわかたじけないはなしですが、ママンのねんしゅうわごせんまんえんですからひつようないかと」

 四人は同時に後ろにのけぞり、何故か悠人だけが後頭部を柱にぶつけ目から火花が散るのであった。


「あんた達、悪いんだけどさ…」

 琴音の膝の上ですやすや寝ている明を愛おしそうに眺めながら琴音が呟く。

「この子連れて、お見舞いに行ってきてくれないかねえ。この子もかなり心配しているし。」

「え? 琴音さんも一緒に行きましょうよ、ね?」

 琴音はかぶりを振りながら、

「いや。私が顔を出したら、あのおん…マリアさんの病気がぶり返しちゃうだろうし。退院して落ち着いたら、そん時に、ね… だから、あんたらでちょっと顔出してきてくれないかね?」

 悠人、京、信太は顔を見合わせ何事か話し合った後、

「わかった。明日にでも行ってくる。」

「ありがと、信ちゃん。恩にきるわ。ああ、そうだ。お礼に、これ」

 琴音がスマホを操作し、信太に見せる。

「ここ、陽菜ちゃんの住所。ついでにあの子に卵持っていって頂戴ね」

 京と悠人の顔がパッと晴れる。なんと素晴らしいアシストであろうか。二人は信太の背中をポンと叩くと、既に信太の背中は汗で濡れていたー


「ちょっとせまいしくさいしきたないですのん。ちゃんとでぃらーにだしてていきけんさわしていますの?」

「うるせー。ガキは黙ってろ。」

「ぎろんおなげだすおとなわにんげんのクズだとパパンわもうしておりますが?」

「おい、京。コイツ黙らせろ。でないとその辺に放り出すぞ」

「まあまあ信太さん落ち着いて。明ちゃんの家の車はなあに?」

 悠人が空気を読んで問いかけると、

「うちわぽるしぇとびーえむですがなにか?」

 車が対向車線にはみ出し、対向車が怒りのクラクションを鳴らす。

「お母さん、どんだけ金持ちなんだよ。ところで、パパンは仕事してんの?」

 京が青褪めながら問うと、

「パパンわせんぎょうしゅふですのん。まいにちかじといくじにはげんでいますのん。おりょうりなんかそのへんのしぇふよりもじょうずですのん」

 専業主夫… 悠人は聞き慣れない職業に驚愕する。成る程、そんな職業も存在するのか。妻が社会に出てその間夫が家庭を守る。それも令和日本の新しい社会の在り方なのかもしれない、そう思い

「そんなお父さんも素敵だね。」

 そう呟くと、

「あれ。ユートさんもそうじゃなくて? きょうちゃんにたべさせてもらってるダメなせんぎょうしゅふかとおもってましたのん。」

 信太と京が大爆笑する。危なかった、自分が運転していたら間違いなく対向車に突っ込むところであった… 免許を持っていなくて良かったとホッとしていると、

「いーじゃん、ユート。ダメ専業主夫。アタシが食わしてやっから。ギャハハハ」

「なんだ京。すっかりユートに惚れちまってんのか。ったくこんな優男の何処がいいんd― 痛ってえー、運転中に殴んなバカ!」

 果たして信太の運転する車は無事に本郷の東大病院まで辿り着けるのであろうか…


 そんな危惧をよそに、車は東大病院の駐車場に何とか辿り着く。これは途中で明が寝に入った事が大きい、悠人はそう思った。

 それにしても明のお喋りなこと! 今日はいつにも増してマシンガンの如く喋りまくっている。これではさぞ父親と母親は大変なのでは、と危惧する悠人である。

 入院病棟に入り、鳥山マリアの部屋を聞くと直ぐに案内してくれ、四人は流石に大人しく病室の扉をノックする。部屋は当然デラックス個室だ。

「へ? 明… と、え? 誰、あんたら… って、ちょ、ちょ待てや。お前、まさか、小畑の初枝ちゃんの… えええええ!」

 ドアを開けたのは無精髭が似合い眉毛が印象的な、ちょいワルオヤジだった。

「小畑…信太っす。鳥山の宙さんっすか?」

「そーだよ、そーそー。そっか、お前初枝ちゃんの… って、あれじゃん、湘南の狂犬の忘れ形見じゃん、やっべ、マジクリソツだし。あー、ビビったあ、化けて出てきたかと思ったわ。うあわ、そっくりだし、ウケる」

 悠人の心配は杞憂であった。この娘にしてこの父親あり、何とお喋りな親娘なのだろう。

「アラ、アキラチャン! マアマアキテクレチャッタノネ、シンパイサセタクナイカラウソイッタノニ、アーアバレチャイマシタカ。マアバレチャウワヨネ、ソウヨネ、アナタハトッテモカシコイモン」

 この娘にしてこの父親にしてこの母親あり。何とお喋りな家族なのだろう。悠人は下を向いて思わず吹き出した。

「ママン。しゅじゅつわぶじにせいこうしたのですね。いってくれたらあきらがしゅじゅつしてあげましたのん」

「アキラチャンガオイシャサマニナッタラ、ゼヒオネガイスルワネン。トコロデオハハサマノトコロハドウナノ? ウマクヤッテイルノカシラン」

「ったくあのババア。ちゃんと明の世話してやってんのかねえ、ってそんな事言えた義理じゃねえんだけどな、でも飯くらいはちゃんと食わしてくれてんだろうな?」

 明がサッと指さす相手は京である。唖然として佇んでいた京は慌てて、

「えっと、磯部京、っす。」

 と挨拶をすると宙は

「え… お前… 惣助さんとこの? てか、善太の… なのか?」

 京はコクリと頷く。

「マジかーー 惣助さんには世話になったわ。まだ元気なんだろ?」

「いや、去年死にました…」

「ウソ…だろ… まだ七十行ってねーだろ… マジかよ…」

 宙は相当ショックを受けた様子である。

「やっぱ、たまには田舎帰らんとな。あの惣助さんが死んじまうなんて… 善太もさっさと逝っちまったしな。で、美鈴は? 色っぺえ母ちゃんは… アレなのか?」

 京はムッとして、

「あのババアは父ちゃん死んだ後、出てったし。」

「そうか。そうだったな。じゃあお前、一人じゃねえか、大変だったなあ。で? え? 明が? お前んとこに世話になってるって? マジか! うわ、あのババア、さては明んこと放り出しやがったな畜生!」

 ひとしきり悔しがった後。不意に悠人を見出し、

「で。お前、誰?」


「ギャハハハハ! お前ら、あのバーさんのインチキ占い信じてんの、マジウケるわー そんでお前もお前で、人生捨ててあんなクソ田舎に居着いちゃって? はー奇特なやつもいたモンだってか!」

 悠人はちょっとムッとし、

「クソ田舎って… 俺も、明ちゃんも。メチャ気に入ってますけど、何か?」

 宙はハッとして、

「え明? お前、そうなの?」

「ええパパン。あきらわえびすのむらおおおいにきにいっていますのん。しぜんにあふれにんじょうみにあふれ。いますんでいるタワマンなんかよりもひゃくばいいいとおもいますのん。」

「はあ? マジで? えそれはちょっと… ママンが退院したら元の生活に…」

「あーー、できればなのですが。あきらわえびすですごしたいかと。もしパパンがむりとおっしゃるなら、あきらひとりでえびすにいようかと。」

 悠人と京と信太と宙は余りの驚きで言葉を失う。

「シゼンノナカデセイチョウスル、コレハトテモイイコトデス。シカシナガラオハハサマハソレヲヨシトスルノデショウカ? ゴメイワクヲオカケスルノデハナイデショウカ。キットワタシトパパンノコトヲキラッテラッシャルカラ…」

 悠人は更に言葉を失い沈黙してしまう、だが何か一言言わねばならない、そう思い口を開けかけた瞬間。

「あー、多分大丈夫っすよ。琴ばあ、コイツのことは認めてますから。」

 京が自信ありげに言い放つ。

「それに。マリアさんの心配もしてたし。あ、宙さんのことは相変わらず女に食わせて貰ってるだらし無いクソ息子って感じっすかねえ」

 宙はシュンとなり、マリアは手術明けとは思えぬ明るい笑顔となり、

「ホントデスカ? ワタシオハハサマニシツレイナコトヲイッテシマッタトコウカイシテイタノデスガ。」

「ま、一度挨拶に来なよ。多分あったかく迎えてくれるよ、マリアさんのことは。マリアさんのことだけ、は。」

 悠人と信太はプッと吹き出す。宙はすっかりしょげかえってしまう。


     *     *     *     *     *     *


 明を病院に残し、三人は車を出して陽菜の住所に向かう。琴音から預かった卵やら野菜やらを届けに行くついでに、

「わかってんだろーな、これ、ラストチャンスだかんな。これ逃したらマジヒナの奴、都会のイケメンに走るからな。」

 信太は緊張した顔で頷く。

「琴ばあがラインで連絡付けてあるからな、私らは車で待ってっから、一人で行ってくんだぞ」

 信太はハンドルを握る手の汗を何度も拭きながら深く頷く。

「ちゃんと、告れよ。好きだって言えよ。わかってんな?」

 シートに張り付いた背中が汗で湯気が出そうな信太は二度三度と頷く。

『まもなく目的地です運転ご苦労様でした』

 額の汗を拭いながら信太はわかってるよ、と呟きながら何度も深く頷く。

「…ダメだこりゃ。こんなんじゃこないだと一緒じゃね?」

「…ま、まあ、何だ、その、なあ」

 京と悠人は互いに首を横に振りながら、百円パーキングに停車し車から出て行く信太の背中を残念な気持ちで見送った。


 まったく。何よ急に。

 琴音ばあからLINEが入り、夕方信太が卵と野菜を持って行くから部屋で待っている様に、って。

 こっちだって忙しいんだから。今夜はずっと誘われていた合コンに行く予定なんだから。昨日切ったばかりの髪を撫でながら陽菜は二分に一度時計をチェックしている。

 琴音からのLINEを読み、四限目をブッチして慌てて帰宅し、命懸けで部屋の片付けをしコーヒーが切れているのに気付き死ぬ気でコンビニにダッシュし部屋に戻ってミネラルウォーターが無いことに気付き呪いの声を上げながらコンビニに猛ダッシュした。

 全身滝汗で部屋に戻り、ポットで湯を沸かしているとピンポーンとチャイムが鳴る。陽菜の鼓動は今年一番の値を記録する。

「おう。」

 無表情の信太が陽菜に呟く。

「おう。」

 やはり無表情の陽菜がそれに返す。

 暫く二人はドアの外で睨み合う形となる。二つ隣の住人が訝しげに眺めながら通り過ぎてから、

「入れば?」

「おう。」

 嗅いだことのないいい匂いの部屋に眩暈を感じながら、信太は靴を脱ぐ。


「これ。鳥山んとこの卵と、ウチの野菜。」

「ああ。ありがと。」

 湯気のたつコーヒーを挟み、信太の用事は終了してしまう。信太は口がカラカラに乾き、目の前のコーヒーを一口啜る。その音が部屋中に鳴り響き、逆に静寂さが二人にのしかかる。

(私、これから合コンなんだよね。だから用事済んだら帰ってくれない? …なんて言えないよ… それとも? 合コンなんて行くな! 俺と一緒になれ!って言ってくれるの? ねえ、どうなの?)

(俺、俺、俺、俺、おれ、オレ… ああああ、ダメだ… 言えねえ、絶対言えねえ… それにしてもちょっと髪切ったのか、よく似合っている、本当に可愛い…)

(私、限界だよ。もう二十歳だよ。恋をしたいよ。彼氏欲しいよ。こう見えてさ、結構モテるんだよ、ほら今もスマホにLINE来てるし。毎日毎日色んな男の子から誘われてるんだよ。中には結構イケてる子もいるんだよ。ねえ、早くしてよ。ちゃんとしてよ。じゃないと私、流されちゃうよ…)

(やっぱ俺には、高嶺の花なのかなあ。昔っから俺に鼻水垂らしながらひっ付いてきてたあの陽菜がこんなに綺麗になっちまって。出世して立派な社会人になるのを諦めた農家の倅なんて、やっぱり似合わねえよな。無理だよな。ムリ、だよな…)

(…やっぱ、私から言っちゃう? 告っちゃう? この人ダメだ、自分から絶対言わないわー、まあ昔から知ってたけど。でも私から告るって、信ちゃん呆れるかなあ、都会の女はこれだからはしたない、とか言いそう… えー、でも。ああ、どーしよ、言っちゃう? 行っちゃう? どーすんの私? ああああ、アメマフリフリ、ショルホノケサレ…)

(ムリ。絶対、ムリ。こんな可愛い子。俺には、ムリ。無理無理無理。ムリムリムリ。ハアーーー、アイツら待たせてるし、明も病院に迎えに行かなきゃ。そろそろ帰るか…)

(ソリャシロホノム サイワレダジョン テコノスハレガ マイホブヴァセロ…)

 コーヒーを一口啜り、帰るわ、と一言言って信太は椅子から立ち上がった。


 絶望。

 陽菜の頭は絶望の真っ黒な意識に支配される。全く無意識のまま、立ち上がり玄関に向かう信太の背中に向かって、目の前の卵を投げつける。

 鈍い音と共に、黄色い汁が信太の背中に広がる。

 更に一個卵を握り、投げつける。それは信太の腰の辺りで弾け散る。

 信太の自衛隊で培った防衛本能が身体を勝手に反応させる。信太は振り返りサッと机に近づき、これ以上の砲撃を阻止すべく残弾目掛けて右手を振りかぶり、それを叩き潰した。

 その瞬間―恐らく防衛本能が作動していた為無駄な羞恥心やプライドが掻き消されたのだろう、信太自身の本能が咆哮したー


「好きだあーーーーーー」


 陽菜はこれ以上開けられないほど目を大きく開く。

 そして幼い頃からの思い出が走馬灯のように陽菜の脳裏を駆け巡る。

 ぶっきらぼうだけど誰よりも優しく強いあなた。誰よりも真っ直ぐで誠実で心の綺麗なあなた。誰よりも聡明で知識に溢れるあなた。

 こんな私には勿体ない、ずっとそう思っていた。いつか綺麗なお嫁さんを連れてくるんじゃないかとハラハラしていた。

 そして掟があるから、仕方ない。そう諦めていた。

 ねえ、こんな私で本当に良いの?

 チビで細くて頼りなくて、弱くてすぐ泣いちゃう私で、本当にいいの?

 目で問いかけると、真剣な眼が優しく頷いた。

 気が付くと陽菜はテーブルの卵を叩き潰した信太にしがみついていた。嗚咽が止まらない。

 陽菜の両手が信太の背中に回る。ヌルヌルした感触がさらなる涙を誘い出す。

 未だかつてない幸福感に満たされる陽菜の耳に大音声がー


 ガチャーーーーン パリーン カラカラカラ…


 テーブルが真っ二つに割れ砕け散り、割れたコーヒーカップや野菜籠が散乱したまるで戦場のようなダイニングを涙越しに見下ろし、呆然とする陽菜であった。


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