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磯に香る君のそばに海神  作者: 悠鬼由宇
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第三楽章 Rhapsody in Blue

「バーカ、バカバカ。マジでバーカ。完徹で二人で焚き火にあたってた? ホモ? あり得ないんすけど!」

 これも運命、とは受け止められずに

「ごめんごめん、つい話が長引いちゃって。」

「で、ドブロク三本空けたとか信じらんない。ヨーイチおじさん泣いてたぞ昨日の夜!」

「うわ、どうしよう、弁償したほうがいいかな…」

「御神酒だから仕方ないって、訳わかんないこと言って諦めてたけど。アンタちゃんとお礼しなきゃだよ。」

 朝からアンタに格下げ。まあ仕方ない。

「そうだな。どうしよ、田んぼ仕事手伝う、とか?」

「ねーよ当分。収穫はとっくに終わったし。」

「米の精米とか?」

「機械がするし。あそーだ。アンタ釣り得意? そんなら磯でs―」

「あー釣り。やった事ない。」

 ガックリと項垂れる京。その姿に済まなく思い、

「でも、やってみないとわかんないじゃん。ひょっとしたら俺、釣りの天才かもよ?」

「テメー、漁民舐めてんのかコラ!」

 京は激怒する、今朝も。アンタからテメー。どん底まで落とされた悠人は涙目で、

「そんな怒らなくても…」

 悠人を力一杯押し退け、庭先の倉庫に早足で駆け込み、ガチャガチャやって出てくると、

「じゃあ、行って来い、釣ってこい。釣れるまで帰ってくんな。いいなっ」

 そう言って釣り用具を一式悠人に押し付け、京は家に入っていった。いやだから、俺釣りしたこと無いって……


 今朝も曇り空だ。十一月下旬の冷たい海風がジーンと痺れた頭に心地良い。大きくその冷たい海風を吸い込み、胸一杯に満たし吐き出す。顔を顰めてしまう程酒臭い息だ。東京に出てきてからこれ程飲んだことは無かったな、いや、地元でさえあれ程飲んだ記憶は無い。でも、いい酒だったな、なんて砂利道を歩いているとやがて磯が眼前に広がる。

 昨日の朝も来たが、京が気になってこの景色を堪能できなかったー人っけの無い早朝の磯場。押し寄せる青い波が灰色の岩にぶつかる音が耳に心地良く、遠く沖から吹き寄せる強い潮の匂いが鼻腔を刺激する。

 先程感じていた眠気はすっかり消し飛び、晩秋の朝の恵比須の磯場を悠人は一人惚れ惚れと眺めている。

 さて。釣りのことである。磯でやるので、磯釣りとでも言うのだろうか。さっき押し付けられた道具を改めて見てみよう。釣竿。これはわかるのだが、竿についている糸巻き器らしき金属の物体、これは確かリールとかいう物だった気がする。昔親が見ていた釣りバカ日記だか何とかという映画で見たことがある。

 主人公がこれを巻いているシーンが頭に浮かび、何となくその仕組みを想像する。竿の先から垂れている糸の先には円錐型のカラフルな物体が括り付けてあり、更にその先には針が通っている、成る程この針に餌を付け、そして海に放り込んで魚が食い付いたら、このリールで糸を巻き取る。

 よし、理解した。渡された道具の中にタッパに入った冷凍のエビがある、きっとこれを針につけよ、と言うことなんだな。うむ。

 柄のついた網。これは足元に群がる魚を掬い取る為のものだろう。なんだ、これがあれば竿やリールなんて不要なのでは?

 若干勘違いをしたまま、悠人は磯場を進んで行き、適当にこの辺で良いかな、とポイントを選び、道具を置く。

 竿を引き伸ばすと五メートルくらいにはなったので驚く。長! 途中糸が短くなりどうしたものか悩むも、リールに巻かれている糸を五分ほどかけて引き出すことに成功し、同時にリールの仕組みを理解する。このスイッチを動かすと糸が出る方にリールのハンドルは回り、戻すと巻き取るだけのモードになる。なんだ簡単じゃないか。

 竿を伸ばしきり、針に冷凍エビを適当に差し込み、準備が出来た。後はあの映画のようにエイやと沖に投げ入れれば終了だ。

 悠人は先程のスイッチを動かし糸が出るモードになったのを確かめ、だがそのまま投げるとリールが回転し仕掛けが飛ばなさそうだと気付き、どうしたものか悩むも、そうだ投げる瞬間まで糸を指で抑え、リリースすればいいんじゃないかと思いその通りに投げてみると、仕掛けは十メートル程飛んで着水し、カラフルな物体が海面にプカリプカリ漂い始める。

 幾つもの偶然が重なり、奇しくも正当な磯釣り、所謂フカセ釣りが開始される。


 掃除を済ませ洗濯物を干し、朝ご飯を作り終える。琴婆ちゃんの朝採れ玉子を使った目玉焼き、昨日採ってきた貝を甘辛く煮付けた佃煮、小畑家から貰った大根を入れた味噌汁。

 時計を見ると八時過ぎ、そろそろ悠人が泣きながら帰ってくる頃であろう。潮目からして今朝は釣りになる筈がなく、これで徹夜で騒いでいたことを心から反省するだろう。

 反省― まさか。一匹も釣れず、反省して海に飛び込む、なんてないだろーな?

 そもそも−釣具の使い方が分からず、世を儚んで海に飛び込む、なんてー

 ヤバ、アイツはまだ、病人なんだ、そんなプレッシャーに晒されたら何をしでかすか…

 玄関を飛び出し砂利道に飛び出した京は、磯場からとぼとぼと肩を落とし歩いて来る悠人の姿を発見し、ホッと胸を撫で下ろす。

 そーだよな、別に悪いことした訳じゃ無いし。あんなに酷い言い方しなくても良かったな。それに一応、神様、な訳だし。

 プッと吹き出しながら、笑顔で悠人を迎える京であった。


 京は、唖然とした。次に呆然とした。そして何故か分からぬまま、激怒していた。

「ふ、ふ、ふざけんなぁ! なんじゃあコレ!」

 京の怒号が集落中に響き渡り、何事かと琴音や香が家から出てくる。

 京は忘れていた。仮にも彼は神様である事を、それも海を司る海神であることを。

 悠人がすまなそうに開けたクーラーボックスには、二尺はあろう黄色のアジが五匹も入っていたのである。

「ごめん… これしか釣れなかった… しかもこんな普通の鯵。ホント申し訳ない…」

 悠人は知らなかった、鯵は鯵でも、この魚は市場に出回っている普通の鯵ではなく、磯に根付いたかなり希少価値の、所謂「金アジ」であったことを。市場価格では一匹三千円程であろう大物であったことを。

「…… これ、ユートが、釣ったの?」

 おお、棚底からユートに浮上である。悠人は笑顔になり、

「ああ。本当はこの網でこれ以上の魚をいっぱい掬い取れなきゃダメなんだよな… でもこのリールって便利だよなあ、簡単に巻き取れるし全然糸が絡まないし。」

 若干意味不明な点はあるのだが、京は悠人の獲物をじっくりと見定め、

「よし。コレは漁協に持っていくぞ。今すぐにな、行くぞっ!」

「えええ? ちょっと待っ… 京ちゃん、待ってくれ!」

 クーラーボックスを肩にかけて駆け出す京を、釣り道具を庭先に放置して追いかける悠人を、呆れた目で生暖かく見守る琴音と香なのであった。


     *     *     *     *     *     *


「この季節に金アジ… それもこの大きさ、やるな兄ちゃん。釣りの天才だな」

「引き潮だぜ、なのに有り得ねえ… 釣りも、神だな、コイツ」

 恵比須漁協の漁師たちが大笑いする。悠人の話は既に出回っているらしい、流石に狭い地域の密着社会である。

「にしてもよ、こんな韓流ドラマに出てきそーなチャラいヤローが、京を……ゆ、許せねー」

 殺気立った若い漁師がメンチを切りながら悠人に迫っていくと、

「まーまー、諦めろ隼汰。大卒のエリート神様だ、相手になんねーよ」

 まだ在学中だしFランなのだが、悠人は後退りしながら苦笑いする。

「それよりよ、水田んとこの陽菜はこの正月は帰ってくんだって?」

「おお、ヒナちゃん! E B S47のセンターの陽菜!」

 なんだろう、EBS? 地下アイドル?

「恵比須だよエビス! ちなみにメンバーはヒナちん一人なっ」

 漁師たちが大爆笑する。つられて悠人も引き攣って笑ってみる。

「水田さん所の陽菜ちゃんって、東京に一人で行った?」

 京はその通りと頷く。

「女子大? それとも専門学校?」

 場が凍りつく。漁師たちが悠人を真剣に睨め付ける。悠人は己が何か言ってはならない事を言ったのか、と震え出す。

「ヒナちんはなあ。オメエみたいにチャラついた学生じゃあねーんだよ、ボケ」

 隼汰と呼ばれる柄の悪い金髪の漁師が怒り狂って悠人に掴みかかる。あれ、誰も止めてくれない、ああまた俺は今日も傷を負うのだろうか…

「ヒナちんはなあ、あの天下の慶應大学に現役で入ったんだぞ!」

「ええええええ! 慶応? マジで! スッゲーー!」

 悠人の方が驚き叫ぶ。因みに悠人は慶応でなく慶應であることすら知らない。高三の時には恐れ多すぎて受験すらしていない。

 隼汰は逆にちょっとビビって、

「お、おう。お前わかればいーわ、わかれば。」

 と掴んだ悠人の襟をあっさり離した。

 水田陽菜。地下アイドル級の可愛さと慶應現役合格の頭脳を持つ少女。会ってみたい、この目で拝んでみたい、そしてできr―

「テメー、何考えてんだコラ!」

 突然隼汰… ではなくもっと可愛い声の怒声と共に、悠人は右脇腹に強い衝撃を受け、息が詰まりよろめきそのまま岸壁から海に消え落ちた。


 昔から泳ぎが得意ではない悠人は割と真剣に溺れかけ、初めは大笑いしてみていた漁師たちを割と真剣に慌てさせ、最後は隼汰が海に飛び込みぐったりした悠人を引き揚げて、人工呼吸したりマッサージしたりとか、やはり今日も割と命に関わる目に遭ってしまう悠人なのである。

「はあはあ、泳げない奴が、この浜にいるとは、なあ、」

「まあ、神様だから仕方ねーか。それにしても海の神様なんだから、少しぐらい泳げろや!」

「ったく、釣りの天才だか海神降臨だか知んねえけどよ、京ちゃんに迷惑かけんなっつーの」

 ちょ、ちょっと待て、俺はその京にこんな目に遭わされて……

「違えねえ。コレからここで泳ぎの練習した方がええぞ、神様」

「漁協長、アンタも言うねえ、鬼だね」

 漁師達はようやく笑いを取り戻す。

 それにしても、なんだあのすごい衝撃は… 一昨日の信太さんばりの衝撃だったぞ…

「あれー、オメー知んねえの。京のやつは、暴れすぎて中学クビになったんだぜ!」

 え?

 いやいや、京は学校に友人がおらず行っても無意味だから退学したって…

「いやいや、この辺じゃあ『恵比須の凶』を知らねえ若いもんはいねえよ。なあ」

 凶って…

「ああ。中二だか中三の頃か、調子こいた先公ぶっ飛ばして停学だったか?」

「あのブタゴリラな。あいつはマジクソムカつく奴だったなあ。でも全治二ヶ月はすこーし可哀想だったわ」

「あと、横須賀の『ストドラ』のケンをボコったりな」

 ストドラ? 何それ?

「ああ、『ストリート・怒羅金』っつうゾク(暴走族)の特攻隊長がケンっーんだけどよ、京にオイタしようとして逆にボコられたっつう話。」

 特攻…隊長様を…

「その御礼参りに俺らが巻き込まれて。あんときゃ大変だったわー」

「あははは、あん時俺が鯨打ちの銛持ってったらメチャビビってたよな、ギャハハ」

 も、銛で何を?

「投網でアイツら絡め取って、ハンマーでボコボコにしてなっ」

 漁業用具をフル活用したんですね…

「最後は全員全裸で正座させてなー 着てた服全部燃やしてなー ブハハハハ」

 なんて凶暴な人達なのだろう、悠人は恐る恐る後退りしながら背中に冷や汗をかく。だが、ふと足を止め、考える。こんな可愛い京がこんなに凶暴だと? 信じられない、だがズキズキと痛む右脇腹とずぶ濡れの服がそれを証しているのである。

 こんなに小さく細い彼女がそれ程凶暴、いや喧嘩が強いことが未だに腑に落ちないでいる。

「ああ、それはなー」

 隼汰が笑いながら語る。


「コイツの死んだ親父さんが昔からこの辺の顔でな。『恵比須のカツ』って言ったら横浜の方まで知れ渡る伝説の漢だったんだわ」

 お、漢って?

「体は二メートルくらいあってよ、空手使いや相撲取りでも敵わなかった位、メタクソ強かったんだって。だろ? チョーさん?」

 チョーさんと呼ばれた柄の悪そうな中年の漁師が不意に目に涙を溜めて頷く。

「ああ。あんな強くていい奴はいなかったぜ。義理人情に厚くてな、よえー奴や困ってる奴を見過ごせねえ本物の漢だったぜ。」

 悠人は呆然と聞き入る。京の父親の話。茶の間の仏壇の遺影は京に全く似ておらず、四角い顔のガッチリしたイメージしかない。

「そんな人が父親だったからなあ。あと、あの人の…弟子だったし、なあ」

「ああ、あの人、な」

「おお、あいつ、な」

 屈強で怖いものしらなさそうな漁師達が突如口ごもる。どうした?

「あの人に、まあ徹底的に対人格闘術習っちゃってるから、なあ」

「そりゃあ、村の体育教師なんざ一撃だろうな」

「街のチンピラなんて瞬殺っしょ」

 あー、わかった、わかっちゃった、あの人。うん、あの人。成る程、京は彼に格闘術のイロハを叩き込まれた訳か、納得だ。悠人はズキズキ痛む右脇腹とシクシク痛む左脇腹を交互に摩りながら深くゆっくりと頷く。


「あっ!」

 隼汰が大声で叫ぶ。

「そーいや、ヒナちんって、あの人に惚れてなかったっけ?」

「あはは、そりゃあガキんころの話だろ。花の女子大生が三十過ぎのオッサンなんて相手しねーよ… 多分。」

「だ、だよな。天下の慶大生だもんな、農家の倅なんて相手にしねーよな、きっと。」

 悠人は一言。

「でもあの人、防大出のエリート幹部でしたよね?」

 また場の空気が凍りつく。

「あの人、ゼッテー人殺してるよな?」

「ああ、マジでヤベーよあの人。知ってるか、駅前でチンピラ五人に囲まれた事件?」

「十秒で全員血塗れで地面にぶっ倒れてたって、アレか。それより『ストドラ』のヘッドをバイクごと海に蹴り倒したアレ、もはや人間ではないレベルだぞあの人」

「こないだすれ違った時あいさつしたら睨まれた。死ぬかと思った。」

「俺も、タバコ道端に捨てたら見られてて、拾って食えと言われて、食った。死ぬかと思った。」

「去年の大雨の時。脱輪して困ってたら、俺が乗ったままワゴン持ち上げて助けてくれた。死ぬかと思った。」

「ひょっとしたらカツさん以上の漢なのかも知れないね。知らんけど。」

「ああ、その素質は十分持ち合わせている。あとは、もちっと人懐っこかったらなあ」

 全員が深く頷く。

 悠人は首を傾げながら、

「へ? あの人めちゃくちゃお喋りで面白い人でしたよ。今朝まで徹夜で一緒に飲んでたんですけれどー」

 そう何気なく言うと、漁師全員が悠人を振り返る。

「んなん…だって?」

「んなあわきゃ、ねーだろ」

「あ、あの人ぎゃ、朝まで飲み方らう? は?」

「ないないない、あの人にかぎゃって、んなこと」

 皆が噛みまくりながら必死に否定するのだが。

「あーーー、それホントおだよ。コイツ、シンタと朝まで三升空けやがって」

 漁師全員が耳を塞ぎ蹲りながら、

「な、名前を言ってはダメだ、京ちゃん…」

「聞いてない聞いてない俺は聞いてない…」

「今日の売り上げは昨日より二割り増しで前年比で七パーセントの…」

「てか、俺たちそろそろ引き揚げねえと…」

 漁協長の一言で皆はハッと我に返り、悠人の釣った魚を引き取り、京と悠人を置いて漁協に戻って行った。その姿を悠人は呆然と見送るのであった、何なのあの人達……


     *     *     *     *     *     *


「―い、ユート、ごめんよお、悪かったよおー」

 京が悠人の周りをグルグル周りながら、

「そんな怒んなくたっていーじゃん、ちょっと蹴り入れて海にぶち込んだくらいでさっ」

 怒っていません。怖いのです貴女が。

 悠人は立ち止まり、

「京ちゃん。」

 京は割と真顔で

「は、はい」

「君はとても可愛い。」

 京の全ての動きが停止する。思考も呼吸も急停止する。目は見開かれ口は開いたまま。しばらくして徐々に頬が染まっていく。

「だけど。俺は乱暴な女は、嫌いだ。いや俺に限らず、普通の男は暴力を誇示する女子が嫌いだ。」

 誇示? 京の頭にはてなマークが浮かぶ。

「相手が乱暴狼藉を働きかけてきたなら仕方ない。正当防衛なのだから」

 政党? 防衛? 選挙運動のことかな?

「でも普通の生活で女子が暴力をひけらかすことは、やめた方がいい。特に君みたいに本当に力を持っているなら尚更だ。本当の強さとは何だか知っているかい?」

 核兵器? マシンガン? カツオノエボシ?


「違うよ。本当の強さとは、『優しさ』だよ。強い人ほど優しい。是非覚えておいてくれ」


 京は頭を殴られた程のショックを受ける。そしてすぐに亡き父親の事を思い出す。

 ああ、とーさん、強かったなあ、そんで優しかったなあ。

 台風の日に熱出したアタシを背負って駅前の病院まで走って行ってくれたなあ

 小畑の畑にイノシシが出た時も簡単に追っ払ってたなあ

 テストで零点取った時も笑って許してくれたなあ

 陽菜が海で溺れた時もソッコー助けたなあ

 あのクソ女と死ぬまで寄り添っていたよなあ

 とーさん。アタシ、弱いんかなあ。カッとなったらすぐに手が出ちゃう。今日だってユートが陽菜のこと考えてるのが面白くなくてつい蹴り飛ばしちゃった。

 アタシ、弱いんだよね。

 ダメだね。

 とーさんみたいに、強くて

 優しくならなくちゃ。


 強く優しかった父親の姿を思い起こし、京の頬に一筋の涙が流れ落ちる。


「え? きょ、京ちゃん? え? どうしたの、え?」

 女子の本性を知らない男子が狼狽える女子の言動、ダントツトップである、『不意の涙』。悠人は大いに狼狽え、大いに動揺するのであった。


 家に戻り京は冷めた味噌汁を温め直し、その間に悠人はシャワーを浴びて潮を洗い流しさっぱりする。それから二人は朝食を頂く。ぎこちない雰囲気も食事が進むにつれ元に戻り、悠人が二杯目のお代わりをする頃には、

「よおく味わって食えよお、アタシも稲刈り手伝って取れた米なんだからねー」

「へええ、稲刈りか。見たことしかないな。結構大変なんだろ?」

「うん。機械使わないから全部人力。」

「人力って… でも、美味しいのは分かる。ウチの田舎の米も結構美味いけど、これの方がずっと美味いかな」

「それはアタシが炊いたから! でしょ」

 悠人は一瞬で顔が真っ赤になる。

「あれー、ユート照れてね? ウケるー」

「そ、それよりっ! お代わり、くださいな。」

「へいへいっと。」

 もうすっかり元通りである。


 朝食を摂ると悠人は急激に睡魔が襲ってくる、それは仕方のない話だ。昨夜から完徹で朝まで飲み、磯で生まれて初めて釣りをし、港に行って魚を引き取ってもらうついでに海に蹴落とされ危うく溺死しそうになったのだから。

 中学高校時代に運動部にいた訳でもなく、体は丈夫だが強くはない。京が敷いてくれた布団に横になった瞬間、悠人は気を失う様に眠りにつく。

 夢を見た。

 眩いばかりの光の奥から声がする。

 良いぞ良いぞ。既に其方は二人の魂を救った。

 え何のことですかてかあのどちら様でしょうか?

 その様に他人を救えば己も救われる、善きかな善きかな

 どういうことですか俺にはサッパリ分かりませぬ

 大事にされよ、珠玉を。其方にとっての尊き存在を。

 分かりません分かりません俺には全くわからないのです

 誰か教えてくれ、誰か助けてくれーーーーーーーーー

 バチっと目が開く。

 見慣れてきた古い天井が目に入る。

 左腕に重みを感じる。あと左の頬に懐かしい潮の香りと柔らかい感触が? まだ夢の続きと思い一度目を閉じ、そして目を開き横を見る。京がスースー寝息を立てて悠人に絡まって寝ている。


 なんてあどけない寝顔なのだろう。あまりの尊さに悠人は息をするのも忘れ見入ってしまう。珠玉、という言葉が頭に浮かぶ。さっきの言葉は、珠玉というのはこの子の事なのだろうか。俺にとって尊い存在とは、この子の事なのだろうか。

 左胸部に柔らかい感触を覚える。急速に目が覚め、その接触部位を凝視する。古ぼけたトレーナー越しに確かな隆起を感じる。あれ、この子、ノーブラ……

 珠玉、尊い存在。が消し飛び、淫らな感情に支配されていく。ちょ、待て、この子は未だ未成年……

「んんんー」

 京の寝息が色っぽく聞こえ、悠人の脳は益々ピンク色に染まっていく。

 これまでの経験上、悠人が肌を接してきたのはプロ、しかも三十代の方々であった。それも青春のはち切れんばかりの興奮を吐き出すだけの行為であった。

 今悠人に絡まっているのは、少なからず好意をもった美少女だ。こんなシチュエーションは初めての経験であり、悠人はどうしてよいのやら全く分からない。

 いや勿論、行為に及ぶつもりは毛頭ない。ないのだが。柔らかい感触と鼻につく美少女の匂いが悠人の脳を刺激し、思考はより淫らなベクトルへと進んで行く。

 ノーブラ、なのか? 普段からそうなのか? 接触の感触からその形をイメージし、一気に興奮が昂まってしまう。

 当然ながらリトル悠人は硬化する。都合の悪いことにリトル悠人の上に京の左足が掛かっている。その重みが更なる硬化活動を活発化させてしまう。

 やめろ! 止まれ! 落ち着けえ!

 悠人の心の叫びも虚しくリトルの硬化は止まらない。


「んんーーー ん。ん?」

 京が大きく伸びをし、薄っすらと目を開けると同時に、左足に感じる謎の物体を認識する。

「あれー、おはよ。アタシも寝ちった、で、あれ? ……」

 慌てて左足を払いのけ、悠人の作務衣の上からも認識出来る不可解な隆起に目を止める。

「え… なに、これ…?」

 聞くか? 普通、黙ってスルーしろよ!

 心の声も虚しく京の捜査は進行する。

「ちょっ コレって、まさかの? ウッソ、うわ…」

 悠人は堪らず寝返りをうち京に背を向ける。

「な、何でもないって。男は、その、眠りから覚めるとこうなるの。生理現象なの!」

 だが乙女の好奇心に火がついた京は、更なる探索の手を緩めない。

「スッゲ… ねえ、ちょっと見せてみ。ね、いいじゃん、ちょっとだけ…」

「馬鹿! 未成年が見ていいもんじゃねえって。な、落ち着け。な?」

 馬鹿なのはキミですよ。そんな言動は油にガソリンを吹きかけるようなモノなのですよ。

「見せて見せて見せて! 見せろ見せろ、オラ見せろよ!」

 あああ。素人が対人格闘技に精通した人間に寝技で敵う筈はなく、悠人は簡単に此方に向かされ、左腕をホールドされ激痛に呻くと同時に胸に馬乗りされる。

「うわっ ナンジャこれ!」

 羞恥心。生まれてこのかた、これ程恥ずかしい思いをした事があっただろうか。女子高生程の女子に馬乗りにされ、股間を騎乗から凝視されている。

 だがこの状況で悠人は思わぬ心境に愕然とするー俺、嫌じゃないかも。力ずくで押さえつけられ、恥ずかしい思いをさせられるの、嫌じゃない、かも。

 己のマゾヒティックを認知し動揺する悠人に跨り、京はゴクリと唾を呑み込み、

「ねえ、見て、いい?」

 恥ずかしい! でも、ちょっと嬉しい!

 交錯した自己に恐れ慄きながら、必死で首を振る。

「いいじゃん、ちょっとだけ、見るだけ、だから…」

 京の両手が作務衣下に伸びる。やめろ、やめてくれ! あああああ

 作務衣下がズリ下げられると、リトルは下着越しに隆起した様子がより鮮明に見てとられる。

「おおおおお! スッゲーーー こ、こんなデケーのが… お、おい。見るぞ。」

 やめろーーーーーー

 やめてくれえええーーー

 無情にも京の両手は下着にかかりー


 カラーーん カラカラカラ カタン


 タッパーが落下し静止する音が庭先から鳴り響き、目と口を大きく開け両手を握りしめている香に二人は気付くのであった。


     *     *     *     *     *     *


「仮にも、神様だよ。京ちゃん? わかるよね」

 京はシュンと項垂れ、涙目で頷く。

「神様にのしかかって、無理矢理あんなことしたら、バチが当たると思わない?」

「す、すんません…」

「あと。女の子としても、あれははしたない。あんなことされたら、男の子はドン引きするよ。嫌われちゃうよ。」

「すんません…」

「悠人くんも。相手は未成年だよ。未経験なんだよ、わかってるよね?」

 それはどうかと思い、悠人は軽く頷く。

「男根に興味を持つ年頃の子に、されるがままにしていちゃダメじゃない。ちゃんと叱って止めないと!」

 それはその通りと思い、深く頷く。

「ね、そういう事は大人の男子が教えてあげるものでしょ? ちゃんと手順を踏んで、男の子の方から女子にしてあげるものじゃなくて?」

 それはどうかと思い、悠人は首を捻る。

「最初が肝心だよ、こう言うのは。最初からこんな歪な性行為を覚えたら、この子ノーマルじゃ感じなくなっちゃうんだよ! わかるよね?」

 全然分かりませぬ。

「一人の男じゃ物足りなくなって、性欲まみれの人生になっちゃうよ。それでいいの?」

 絶対ダメだと思うのです。が…

「だから。こういうのはあくまでノーマルに。騎乗位なんて成人してから。分かった?」

 全然分かりませぬ。

「こんな真っ昼間に、雨戸も閉めずになんて、絶対ダメ! いい?」

 それは同意します。が…

「分かった? 京ちゃん?」

「分かった、けどさ。でも、ユートの、こんなんなんだよ。普通のって、そんなんなん?」

 京が両手でサイズ感を示すと、香は愕然として、

「え… マジ? ウッソ?」

 と言い絶句する。

 やめて… お願い、想像しないで……

 

「そ、それは、さておき(京ちゃん、ちょっと後でウチに来て!)。さっきね、陽菜からメールが来て、クリスマス明けにこっちに戻るって。」

「おおお! じゃあ、こっちに二週間は居るって感じ?」

「そうだね、京ちゃんに会いたがっていたよ」

「おおお! 楽しみーー」

 京にとって数少ない同世代近くの女子なのだろう、いつもとは別の喜びの表情を悠人は垣間見る。

「それでね、戻ってきたら美味しいお魚が食べたいって。」

「いーねー。ヒナは寒ブリが好きだったよね」

「それそれ。それ以外でも美味しそうなお魚、よろしくねー」

「任せときー。神様が好きな魚釣ってくれっからさ」

「えーー、やっぱり悠人くん釣りの天才?」

「間違いないっしょ。漁協の奴らも認めてたしねー」

「おお、それはそれは。じゃあ悠人くん、よろしくね」

「は、はあ。ところで、陽菜さんって慶応の?」

「そうそう。理工学部だよ。」

「へー、リケジョってやつですね。何の勉強してるんですか?」

「うーん、まだ一般教養だからよく分かんないんだけど。でも地球物理を勉強したいって言ってたわ。」

「うわっ 凄いですね。地震の研究とかかな?」

「ううん、地質だか地層の研究じゃないかな。」

「へえーー。珍しいですね」

「この辺って、その道ではかなり有名な場所なんですって、私は良く知らないけど。あの子ね、昔からその辺の崖の地層見て興奮してたわ」

「そ、そうなんですか…」

 イメージと全く違う。何がEBSだ! 真面目な研究者の卵じゃないか! あの漁民どもめ。

「じゃあ、京ちゃん。おいでー ウチ行こ。ハアハア」

「ほーい?」

 二人が出て行き、悠人は茶の間に寝転び、まだ見ぬ現役慶大リケジョに思いを馳せてみる。


「で? で? さっきのアレ、マジ?」

「うん、マジ。こーん位でこーんなだったよん」

「嘘でしょ… 見間違いじゃなくて? 直に見たの? ねえ、見たの?」

「食いつくなやけに… 直には見せてくんなかったし。パンツの上からだったし」

「ゴクリ。そう、なのね… いいなあ京ちゃん…」

「へ? 何故に? 意味不明なんすけど」

「そ、そうね、まだ京ちゃんには、アレよね、あはっ」

「何じゃそれ。それよかさあ、ヒナってまだシンタに惚れてんのかなあ?」

 香は涎を拭きながら首を傾げる。

「どうだろ。まだ彼氏はいないみたいだけど。でも、もしそうだとしても、ねえ…」

「あの『掟』ってヤツ? この集落内の男女は結婚してはならないって?」

「私なんかはそんなのどうだっていいと思っているんだけど。でもご老人たちは、ねえ。」

「そっか。でもさ、なんで集落内の男女が結婚しちゃいけないの?」

「私も詳しくは知らないんだけど。琴音さんにでも聞いてみなよ。詳しく教えてくれるよ、きっとね。」

「そっか。うん、後で聞いてみるよ」

「信太と陽菜かあ。とても夫婦とは思えないわ。兄妹、って感じかしらね」

 そう言って香は笑いながらお茶を啜る。


「ふーん。京ちゃんもそんな話に興味を持つ年齢になったんだねえ、私も歳を取るわけだ」

 そう言って琴音はホホホと笑う。

「この集落はね、今から何百年前からあってね。今よりもっと大勢住んでいたんだってさ。だけど、周りの村から離れているだろ、だから集落内の男女が結婚して子を産んでいくうちに、どんどん血が濃くなっていったんだってさ。」

 京はキョトンとして、

「血が濃くなるって?」

「それは親戚同士が結婚すると、近親婚が増えるってこと。すなわち、集落中が親戚同士になってしまうってことさ。」

「いいじゃん別に」

「それが、血が濃くなると遺伝的に良くない病気になったりするんだとさ。」

「ふーん。それで?」

「で。ある時から、男は他の村の女を、女は他の村の男と結婚することって決まりができたんだってさ。」

「そっか。じゃあヒナとシンタが結婚すると、血が濃くなって病気の子供が産まれちゃう、って話かあ」

 琴音は京を優しく眺めながらそっと頷く。かくいう自分も夫は静岡県の出身であった。夫は五年前に天国へ旅立ち、成人した四人の子供達はこの地を離れそれぞれ健やかに過ごしている。

「なんかそれって、切ないね。多分ヒナはまだシンタの事、マジで惚れてるよ」

 二年前に東京に出て行く前。陽菜が信太に告白したのを京は知っている。告白の場を作ったのが京だったからだ。

 それまで信太と陽菜と京は三人の兄妹の様な関係であった。京は信太に格闘術を教わり、陽菜は信太に勉強を教わっていた。京は信太に兄以上の思いを抱くことはなかったが、陽菜は真剣に信太に恋をしていた。

 多分、東京に行っても陽菜の気持ちは揺らいでいない、京はそう信じている。だが。この集落には掟がある。陽菜と信太はそれ故結ばれることはない。

 琴音に分けてもらった卵を抱えながら、陽菜の切ない思いに大きく溜息をつく京であった。


     *     *     *     *     *     *


 今夜の夕ご飯は鮭の西京漬、芙蓉蟹すなわちカニ玉、岩のり入り味噌汁、漬物。見事に地産地消、地のもの尽くしである。

「京ちゃんの料理の腕は半端ないよ。どこで覚えたの?」

 京は照れながら、

「カオちゃんや初江さんに教わったりとか。いいから黙って食えって」

「いや本当に。今時これ程料理が出来る若い女の子っていないと思うよ。絶対いい奥さんになれるよ」

「ならないし。結婚なんてしねーし」

「へ? なんで?」

「ウチのババー見てっから。あんな女の遺伝子残したくねーし。」

 京の母親。なんでも三年前に父親が亡くなった後、京と祖父を捨て横浜に行ったらしい。

「今頃どっかでホステスでもやってるんじゃね。そんで金持ちのチビデブ捕まえてよろしくやってんじゃね。どーでもいーわ、あんなババー。」

 でも悠人は知っている。本当に嫌っていたなら人間はその相手を忘れ無視することを。京は未だに母親に執着心がある、悠人はそう思った。

「それよりさ、ユートどー思う?」

 突然何を言い出すのかこの子は。悠人は西京漬を口に入れながら首を傾げる。

「この村の、掟のこと。」

「掟?」

「そ。集落内の男女は結婚しちゃいけないっていう掟。」

「そんな掟が、あるんだ…」

 悠人は咀嚼を忘れ驚く。確か四世帯。在住する結婚適齢期の男女は信太、そして陽菜、なんとか京。すると信太はこの二人とは世帯を持ってはならない、と言うことなのか?

「そーなんだよ。でも、ヒナはシンタが好きでさ、見ててかわいそーな位惚れてんだわ。何とかなんねーかな、あの二人…」

 悠人は何とか口の中のものを飲み込み、味噌汁で流し込む。

「信太さんも陽菜さんのこと、好きなのか?」

「それは分かんねーけど」

「おい! まずそこだろうが!」

「いやぜってー好きだって。だってあの陽菜だぜ、この辺一体で一番の女だぜ」

 一番はお前だぜ。

 そう口には出せない悠人が黙っていると、

「ユートも一眼見たら、惚れちゃうかもよ」

 それは、ない。

 そう言い切れない悠人が黙っていると、

「なんか、言えよ。」

「この芙蓉蟹、メチャクチャ美味い。」

 怒りの焔は一瞬で収まり、ニヤケ出す京にホッとする悠人なのである。


 食後のお茶を啜りつつ、

「何でそんな掟があるんだ?」

「血が濃くならないためなんだって。」

 血が濃く、即ち近親婚の繰り返しによる遺伝子の変異を防止する、そう言うことか。悠人は深く納得する。

「え? 今ので分かっちゃったりする訳? ひょっとしてユートの大学、Aラン?」

 なんだかんだで学歴コンプレックスもあるみたいだ。そんな京に悠人は

「じゃないけど。でもこの集落って相当昔からあるんだろ? それなら仕方ない決め事なのかもな。多分遠い祖先でここの人たちは皆繋がっているのだろうから。」

「えー何それ。じゃあ、アタシと陽菜は親戚ってこと?」

「その可能性は十分あると思う。信太さんとも。何なら琴音さんとも」

「おおおおお… そーなのか。でもさ、それは大昔の事だろ、今ならカンケーないじゃん」

「それは、どうかな。この地で産まれたと言うことは、昔からの遺伝子を受け継いだことになるからね。それが現代で一緒になれば、何が起こるかわからないぜ」

 京は不安げな顔となり、

「それって、もしシンタとヒナに子供が出来たら…」

「うん。その子に遺伝子的に何か変異が起きて、病気になるかも知れないって事だな」

「そんな… どうして…」

 思わず箸を落とす京に、

「まあ、可能性としての話だから。もう大分その血が薄くなってるから大丈夫かもしれないし。」

「シンタが、ヒナに言ったんだー 掟があるから、お前とは一緒になれないし、ならないって。」

 信太は何処かで遺伝子について勉強したのであろう。

「なんか。やるせねーわ。ヒナ、どんな気持ちで年末帰ってくんのかなあ」

 すっかり冷え切った京の残した芙蓉蟹を眺めながら、悠人も思わず溜息をついていた。


 二人で食後の片付けを終え、入浴を済ませ、茶の間に布団を引き電灯のスイッチの紐を引き豆灯の薄く淡い光だけにし、悠人は布団に寝転ぶ。

 それにしても色々あった一日であった、明日からは少し落ち着いた生活がしたい、そう言えばバイトの皆はどうしているだろうか、寮の名も知らぬ同郷の人々はどうしているだろうか、などと考えていると、

「もう寝た?」

 人は何故他人の寝室に入る時そう声がけをするのだろう。それを言うならば「まだ起きている?」が正しい筈だ。寝ている人間に「寝た?」と言って起きるだろうか。そんな意味不明な事を思いながら悠人は、

「まだ起きてるよ」

 そう京に返すと襖がすすすと開き、

「あのさ、さっきの話なんだけどさあ。何とかなんないかなあ、あの掟」

 そう言って悠人の布団に胡座をかく。悠人は寝転んだまま、

「掟は、掟だろう。どうすることも出来ないし、信太さん自身が掟を破ることはないと思うぞ」

「だよなー。でもさ、なんとかなんないかなあ。ユートはもーすぐ学士様だろ、何か良い考え浮かばない?」

 そう言いながら京も布団の上に寝っ転がる。近い。赤面しつつ、悠人は真剣に掟の事を考えてみる。

 理由が有っての掟だ。その理由が正当性を有する限りそれを破ることは許されない。この場合の正当性とは近親婚による遺伝子の異変であろう。それならばその恐れが無いことが証明されれば掟の正当性は瓦解する。従って掟を遵守する必要が無くなる。

 そこまで考えて、突如悠人は強烈な睡魔に襲われる。何か京に伝えねば、と口を開きかけるもそのまま意識を失うかの如くノンレム睡眠に入ってしまった。

「おーい。ユート、寝ちゃった? ま、そりゃそっか。」

 大きな欠伸を一つ。それから京は母犬に寄り添う仔犬のように、悠人にもたれつつ静かに目を閉じた。


 ほぼ二人同時に目を覚ます。そして今日も賑やかな朝が始まるー

「おっはよー。よく寝てたなー」

「……なんで、お前、ここに… まさかあのままここで寝落ちしたのか?」

 悠人は驚きと恥ずかしさに戸惑いながら、そして朝の直立を気取られないように振る舞いながら尋ねる。

「だってユートの隣、寝心地良いんだもん。なんか文句ある?」

「いや… ない、けど…」

「だろ? 今夜からアタシもこっちで寝よっと。」

「え?」

「でさでさ、昨日の続き。なんかいいアイデア浮かんだあ?」

「それは… 流石にどうかと思うのだが?」

「掟破りのスゴイ奴、ちゃんと考えたあ?」

「仮にも、俺らは唯の同居人だぞ、別に付き合ってる訳でもなく…」

「やっぱ最悪、駆け落ちしかねーかねえ?」

「確かに俺に彼女はいないし、お前も彼氏いないかも知れないけどさ、やっぱ不自然だろ?」

「でもそーすると東京に行くことになっちゃうのかなあ、やっぱ学校はやめちゃうんかなあ」

「正直さ、お前が良くても俺が… その… ちょっと困るんだわ。生理的に…」

「そーだ。ユートの実家の方にさ、仕事と空き家ない? そこで二人がやっていけるかなあ?」

「子供のお前にはわからんだろうが。辛いんだよ。一緒に寝るとか、マジで。」

「ちょっと母ちゃんか父ちゃんにさ、聞いてみてくんね? 電話は琴ばー…に借りるのはちょっとマズいか… じゃあ駅前の公衆電話行ってさ、チャチャっと! な?」

 悠人はバンと布団を叩き、

「俺の話、聞いてるか?」

 京も負けじと布団を叩き、

「アタシの話、聞いてた?」

 悠人が首を振ると、

「それよか。ユート、アタシのこと、『お前』って呼んだ。それって彼氏が彼女にしか言っちゃいけないんだよお。」

「そんな馬鹿な。いつからそんな事になったんだよ。まさかそれも『掟』なのか?」

「あああーー、バカに馬鹿って言ったあ! そんな正直に面と向かって言う事ないじゃん! ユートのバーカ」

「何だと? 馬鹿って言う方がバカなんだぞ。覚えておけ!」

「何よエラそうに。ちょっとオラオラ入ってきてるし。何その彼氏ヅラ! ユートなんかと付き合ってあげないし」

「お、お、俺だってお前となんか、付き合わねーし」

「いーよ別に。アタシ彼氏なんていらねえーし。」

「俺だって別に彼女なんていらねーし。」

「フンだ。朝飯作ってこよっと。」

「ハー。布団でも片すかな。」

 今後、これが朝の欠かせない行事になるとはつゆにも思わぬ二人であった。


     *     *     *     *     *     *


「雨か。今日はさすがに漁にも行けないだろ?」

 食後のお茶を啜りながら悠人が呟く。

「だね。今日は一日家の掃除とかかな。ちゃんと手伝ってよ」

「ああ、分かってる。やり方教えておくれよ」

「任せと、き!」

 事もあろうか、京はシャモジで悠人の額をコツンと叩いた。それは彼女的にはコツンだったのだが、悠人側にはガツンという衝撃でしかなく、危うくちゃぶ台をひっくり返さんばかりに悠人は額を抑え転がりまくった。

「痛ってえーなー、いきなり何すんだよ!」

「何となく。」

「昨日言ったろ、乱暴な女は嫌いだって。」

「エヘヘ。ごめんごめん」

「ったく。あんな立派なお父さんの遺伝子はどこに行ったのy…… ちょっと待て。」

 京は言われた通りに、待つ。体を一ミリも動かさずに悠人をじっと見つめながら。

「遺伝子… 問題なのは遺伝子なんだよな。なあ京、信太さんの先祖って、ずっとここか?」

「たぶん。」

「じゃあ、陽菜ちゃんの先祖は?」

「たぶん。」

「……そっか。いやさ、もしどちらかの先祖が、夫婦でこの土地に入ったとしたら、両者に血の繋がりは全くない、って事になるんだけどなあ」

 京は体を伸ばし悠太の顔にくっつかんばかりに顔を近づけ、

「それって、ひょっとして?」

「もしそうだったなら、掟の範疇では無い、すなわち結婚も可能だ、って事。」

「マジ?」

「だけど、両家とも、ずっとこの土地出身なのか。それじゃ残念だけど。」

「聞いてみる。カオちゃんとシンタに聞いてくる!」

 そう言うと京は勢いよく立ち上がり、あっという間に家を出て行った。相変わらず妙に動きのいい奴だ、悠人はフッと笑いながら食事の片付けを始めた。


 ずぶ濡れ、泥まみれで京が帰ってきたのは、悠人が洗い物を済ませ部屋の掃除を終え、洗濯はどうするべきか悩んでいた頃である。

 取り敢えず脱衣所に連行し脱衣後に入浴するように言い残し、悠人は茶の間に戻って寝転んだ。

しばらくして頭をバスタオルで拭きながら京が戻ってくる。

「なんかさ。シンタのとこは確実にこの土地なんだけど。カオちゃんのとこは良くわからないんだって。」

「よく分からないって?」

「善じいも洋子さんも、お爺さんお婆さんより昔のことは全然知らないって。」

「ほーん。家系図とか何か残ってなかったのか?」

「知らん。ユート、聞いてきて!」

「え俺?」

「そ俺。頼むよお」

 そんな… 昨日今日にここに来た俺に、そんな身内の話をしてくれるだろうか?

「一緒に来てくれよ、な?」

 京は悪い顔になって、

「えーー、どーしよーかなー」

「いや、頼むよ。俺一人でそれは… マジキツいって!」

「じゃあ、今夜から一緒に寝てもいい?」

 悠人は一瞬凍りつく。だがすぐに解凍し、

「分かった。分かったから、一緒についてきてくれ」

 あっさりと承諾してしまう自分に、不思議な気分になる悠人なのだった。


「そうなの。我が家には家系図って無いのよ、残念ながら。だから、お爺ちゃんのお父さんまでしか知らないの。ね、母さん?」

 香が母の洋子に振ると、

「あーらあらら。どうして急にそんなこと知りたがるのかしら?」

 怪訝な顔で洋子が尋ねる。

 流石に、ここで生真面目さを発揮し馬鹿正直に全てを語る訳にもいかず、悠人は茶を濁す。

「いえ、何となく。陽菜ちゃんのご先祖様はどんな方だったのかなーと思いまして。」

 洋子はうーんと唸りながら、

「お爺さんもお父さんも、早くに戦争で亡くしたのよ。だからご先祖様のことを聞く機会がなかったのよ。」

「えっと。洋子さんはずっとこの土地で、善治さんが…?」

「そうなの。千葉の田圃農家の三男だったの。それでウチに来てもらったの。」

「成る程。分かりました、ありがとうございました。」

 悠人は頭を下げ、立ち上がる。だが京は煎餅を齧りながら寝転んだままである。

「アタシ、カオちゃんと韓流観て帰るわー。あ、一緒観る?」

「いや。他に調べたい事もあるから、先に帰るわ」

 そう言って悠人は水田家を後にする。そして斜向かいの小畑家のインターフォンを鳴らす。待っている間に悠人は空を見上げる。さっきまで降っていた雨はやんだようだが、薄黒い雲は低く垂れ込めている。軽く溜息を一つ。やがて玄関ドアがゆっくりと開いた。


「ただいまー。」

 茶の間の襖がガバッと開き、京が香の家から戻ってくる。その顔が嬉しさと照れ臭さで桃色に染まり、よっぽど韓流ドラマが楽しかったのかと思いそう聞くと、

「違うよ。ただいま、って言えることが嬉しいんだよっ」

 悠人はハッとなる。父が亡くなり母は消え、大切な祖父が去年亡くなって、以来この子はたった一人で過ごしてきたのだ、当然帰宅して「ただいま」と言っても返事は返って来ない。

 ああ、そうか。自分の帰りを待つ存在がいる事自体が嬉しいのか。

 悠人は満面の笑顔で、

「お帰り。」

 すると京は表情が固まり、悠人を見ることができなくなり四方八方をキョロキョロし、やがて着替えてくると自室に駆けて行った。

 お互い、その内慣れるであろう。そう言えば悠人自身が他人に「お帰り」と言ったのはいつ以来だろう。ふと考えていると台所からガチャガチャ音がし始める。その音を聞くと悠人のお腹がギュルルと鳴った。


「で、あの後何を調べてたん?」

 今夜のおかずは、カレイの煮付けと里芋の煮っ転がし。とても十代の女の子が作ったとは思えぬ献立と味付けに、今更ながら驚嘆していると、京が不意に悠人に聞いてくる。

「どうすれば水田家の先祖を知ることが出来るかを調べていたんだ。」

「ふうん。そんで?」

「少し時間がかかりそうだ、と言うことだけ分かったよ。陽菜ちゃんが戻ってくる頃までに分かるといいんだけどな。」

「……やけに協力的じゃん。」

「そりゃあ、こんな俺でも力になれることがあるなら、って…」

「そっか。実は、ユートって案外いい奴なの?」

 口に含んだ味噌汁を噴きながら、

「し、知らねえよ。そんなの自分の口から言えるかよ」

「ま、いいけど。それより後でアタシの布団ここに持ってくるの手伝ってよお」

 あ。忘れてた。

 今夜から始まる苦行の夜の事を……


     *     *     *     *     *     *


 それから一週間があっという間に過ぎ、悠人はすっかりこの家と集落に馴染んでいた。師走に入り一度だけ実家に電話を掛けに駅前に行った時、母親が

「あんた、全然寮にいないらしいじゃない。一体どこに寝泊まりしとんの?」

「ああ、大学の単位も最低限は取ったしバイトもそれ程忙しく無いから、海沿いの友達の所で漁業の手伝いをしているんだ」

 まあ何一つ嘘は言っていない。生真面目さもここまで来ると異常と思う人もいるであろう。

「そうなん。迷惑かけて無いやろね、それと正月なんやけど。今年も、アレやから…」

「分かっとる。東京からコロナを持って来られては困るんやろ? 俺はその友人の所で年を明かすけん。心配せんでええよ」

 久しぶりに地元の言葉で話してみる。少しだけ両親の顔が見たくなる。

「ほんまコロナ何とかならんかね。アンタも身体は大事にせんとあかんよ」

 まあ今の生活でコロナに感染する確率は限りなくゼロに等しいであろう。電話を切り、悠人は別の用事を果たすために足早に公衆電話から立ち去って行った。


「なあ神様。明日ヒナッち、戻ってくんだっけ?」

 漁師の隼汰が気もそぞろに悠人に話しかける。悠人は魚が盛られた木製のトレイを運びながら、

「そうらしいよ。夕方頃に戻るって香さんが言ってたわ」

「うおーー、今年の年末年始はテンション上がるわー。で。神様はよお、京とはどんな感じなんだよ?」

 それが神様に対する言葉遣いか! とは微塵も思わず悠人は大きく溜息をつく。

「どんなもこんなもないよ。ようやく慣れた、って感じかな。最近やっと乱暴しなくなってきて、俺のアザも大分減ったわ」

「ふーーん… って、聞きてえのはそんなんじゃねえっつーの。もう、とっくに、アレなのか、って話だよ。で、どーなんだよ、ヤリまくりなのか?」

 悠人は更に深く大きな溜息を吐き、

「あのな。アイツは未成年なの。そういう行為は法律違反なの(正しくは条例違反)。今のアイツとそういう行為をするなら、婚姻届を出さない限り不可能なの。分かるか?」

「いや全然。神様の頭ん中がサッパリ理解出来ねえ。やっぱ、磯で頭打った時、ネジが一本折れちまったんじゃねーの? ったく勿体ねえ、あんないい女…」

 隼汰までも深く大きな溜息を吐き、ついでに岸壁越しに唾を吐き捨てる。

「神様がそんなんだと、俺が先に食っちまうぞ。」

 悠人は慌てて、

「いや、それは…」

「バーカ。そんな罰当たりなこと、する訳ねーだろ。神様の女に手出せる訳ねーだろ。」

 俺の女じゃないし。でも、少しその響きが気に入り、隼汰の肩をポンポンと叩いてから次のトレイを運んで行く。

 

 クリスマス明けの二十六日。信太がレクサスで陽菜を迎えに行った。水田家は皆久しぶりの陽菜の帰宅にオロオロし、あれが足りないこれも足りないと朝からてんやわんやである。

「そー言えば。例のアレ、どーするん?」

 慌ただしい水田家を横目に京が悠人に話しかける。

「んーーー。そうだな、年越しまでの空いている時間に、な。」

「そっか。で、どんな感じで伝えるん?」

「そうだなあ、なんかいい方法ないかなあ」

 困り顔で悠人が言うので、京はしばらく考えて、

「じゃあさ、船仕立ててさ、クルージングしながらって、どおよ?」

「え… そこまでする必要、ある? それにそんなお金無いだろ?」

「まーいいからいいから。アタシに任せとけって。」

 本当に任せて大丈夫なのか、若干心配な悠人であった。


 砂利道を幅いっぱいのレクサスが集落に戻ってくる。その助手席にはムスッとした陽菜が座っている。

 集落の人総出で車を待ち構え、レクサスが水田家の前に停車するとワラワラと車に群がっていく。

 助手席ではムッとした顔だった陽菜は、車を降りた瞬間満面の笑顔となり、

「みんなー、ただいまー、チョー久しぶりー」

 悠人は京の頭越しに陽菜を見、唖然とする。

 完璧な都会のイケてる女子大生。ウチの大学でもここまでイケてる女子は何人いるか。いやさすが慶応リケジョ。暫し陽菜から目が離せなくなる。

 栗色のカールのかかったお洒落な髪型。明らかにその辺のヘアカットではないだろう。真っ白な顔に上手に縁取られた大きな目。今にも蕩けそうなピンク色のリップ。白の太腿までのダウンジャケットに黒のミニスカート。足の細さは京といい勝負である。

 まるでファッション雑誌から抜け出たような姿に魂を抜かれた様な心地となる。

 みんなと嬉しそうに挨拶していた陽菜が京の元にやってくる。

「ちょっとお、京ちゃんメッチャ可愛くなってんじゃんよお、やっだー、まさかの彼氏できたとか?」

「ひっさしぶりー。ずいぶん元気そーじゃんよ。てか、すっかり都会の女になっちゃって!」

「何それウケる」

 大きく口を開けて爆笑する。それから京の後ろにいる悠人に目を移し、眉を顰め、

「えっとお、まさかのこちらが、噂の神様って感じ?」

 悠人は一瞬で上気し、真っ赤な顔で

「は、初めますて。綿積悠人でしゅ。」

 二回も噛んでしまう。

「あ、ども、陽菜でーす。って、神様噛んだし。マジウケるんすけど」

 と大爆笑する。神を爆笑するなんて罰当たりが! なんて思う人はここには一人もおらず、一緒になって皆大爆笑であった。


 その夜は水田家で盛大に宴が催される。山海の珍味がこれでもかと出揃い、陽菜の父の洋一が丹精込めて作った密造酒はあっという間に三升空けられた。

「もー。神様一人で呑んじゃうんだから。勘弁してくれよ」

 洋一が小畑家の老夫婦に愚痴を言うと、

「諦めんかい。ありゃあ御神酒なんじゃから。」

 と照夫が言うと、

「そうそう。昔から神様は皆酒豪なのよ。お正月のお酒、間に合うの?」

 とみつが心配そうに洋一に問う。

「足りなくなったらー最悪、酒屋で買ってくるさ…」

 そんな密造者の悩みも知らず、悠人は幸せそうに杯を干しまくる。

「へー、神様ってお酒メチャ強いんだー」

 真っ赤な顔で陽菜が悠人に近づいてくる。

「こーゆー飲み会ってさ、コロナのせいで全くなかったから。いいもんだねやっぱ!」

 悠人は半分固まりながらコクコク頷く。

「で?」

「は?」

「もう、したの?」

「へ? 何を?」

「ナニを。」

「何?」

「ああああーーー、ちょっとこの人、変! 話出来ないし! ナニって言ったら、京とのアレに決まってんでしょ! で、どーなの? もうバッチリ決めたの?」

 悠人は素に戻り大きく溜息を吐き、

「だからさあ、アイツはまだ未成年だろ? 性行為なんて出来る訳ないじゃないか!」

 陽菜は呆気に取られ大きく口を開けて硬直し、

「それ… マジで言ってんの?」

「ああ。当然だろ。」

「うわ… ある意味、尊いわー。うん、やっぱ神かも。あはは。リアル神様だし。いーね。うん。信用出来るかも。」

「お、おお。」

「色々相談、乗ってくれるよね?」

「あ、ああ。」

「頼りにしちゃうから、ねっ」

 陽菜が悠人の両手を握りしめ、悠人の目をしっかりと覗き込んでそっと囁く。

 何故か背後に殺気を感じ、慌てて振り返るも誰も見ていない。気のせいかと思い、悠人は陽菜との会話を楽しみ始める。

 それを遠くから眺め、黒い焔を眼に灯らせやけ食いしている京なのだった。


     *     *     *     *     *     *


「ほら。あなた達あの辺りで貝採りしているでしょ? あそこは『波食台』って呼ばれている地形なの。あそこは大正十二年の関東大震災の時に隆起した所なの。約1.5メートル程隆起したのよ。最近の研究だとね、千七百三年の元禄地震の際にも隆起したことがわかっているの。それとあの崖を見てみて! ちょっと特徴的なフォルムに気付かない? あれは『海食崖』と言うの。他にも、あー隼汰、灯台の方に周ってくんね?」

 年末の大掃除を慌てて済ませ、悠人と京は陽菜をクルージングに誘った。隼汰の操舵で漁船に乗った三人は自然がもたらす三浦の美しい海辺の景色を楽しんで…いた筈なのだが途中から陽菜の海岸の地層の講義が始まってしまったのだ。

 隼汰は水面に出ていない岩を警戒して操舵に集中しており、京は大欠伸をしてうつらうつら寝ており、陽菜の渾身の解説を一手に引き受けているのは悠人ただ一人である。

 専門分野の解説となると口調がガラリと変わるのがまず面白い。解説の内容も素人の悠人にも分かりやすく話してくれ、想定外に楽しんでいる悠人である。

「そういえば神様、三浦半島の三浦って、元々なんて呼ばれてたか知ってる?」

「ええ? 三浦は三浦、じゃないの?」

「違うんだ。日本書紀ではね、『御浦』って書かれてて、相模国風土記だったかな、そこには『美宇羅』って書かれてたんだって。」

「へえー。奈良時代からこの地名があるんだ」

「おおお! 話が分かるねえ、さすが○○大学〜」

 確実に馬鹿にされていると知りながらも、少し興味が出てきて、

「じゃあどうして今、三つの浦ってなったんだい?」

「いい質問ね。この半島はね、東、南、西の三方が湾になってるでしょ?」

「そうだね、確かに。」

「昔は湾の事を浦って言っていたの。三つ湾、即ち三つの浦。だから、三浦。わかった?」

「成る程… でも半島って普通地続きじゃない。なら半島という半島は皆三つの浦を有していないかい?」

「ングっ やるわね、中々。では聞くけど。三浦半島を領していた三浦氏の中で、……」


「おーい、ヒナっち、そろそろ戻んねーと。ガス欠になっちまうよおー」

「…で戦国時代にこの辺を領していたのが小田原の北条家なのよ。ねえ見て、房総半島が見えるでしょ、あそこを領していたの誰だか分かる?」

「確か、里見氏じゃなかった? 南総里見八犬伝の」

「その通り。中々やるじゃない、四国の酔漢さん」

「いや、俺酔っ払わないし。」

「おーい、ヒナっち、もー帰るぞー。波も出てきたしなー」

 京の大鼾とエンジン音の不思議なハーモニーを聴きつつ、悠人達は恵比須漁港に戻って行った。

 戻るや否や、京は飛び起きて

(オイ、ついちまったじゃんか。話せたのか?)

(いや全然。てかお前爆睡してたじゃないか!)

(それは昨日の夜、今日のことでいろいろ相談してて遅くなったから…)

(仕方ない。村に帰りがてら、話そう)

 陽菜は京と悠人のヒソヒソ話に首を傾げながら、真剣な操舵のせいでヘトヘトな隼汰にとびきりの笑顔でお礼を言う。隼汰は目に涙を溜めてそれに頷く。

 三人は隼汰に手を振り集落に向かって歩き出した。しばらくして陽菜は二人に向き直り、

「で。今日陽菜を誘った理由。何かな?」


「あの…さ。話があるんだけど… 」

 悠人がボソッと呟く。

「話って、なあに?」

 京が陽菜に向かいキッパリとした声で

「掟のこと。」

 陽菜の足取りがゆったりとなる。

「ああ、それか… 」

 陽菜は暫くその場に佇み、やがて空を見上げて、

「今時さ、信じらんないよね? 近親婚の遺伝子異変なんて都市伝説と一緒じゃん。てか、ウチら近親婚じゃねーかもなのに。」

 陽菜は俯き足元の小石を蹴り上げる。そしてまた黄昏つつある快晴の空を見上げる。真っ青な空に徐々にオレンジ色が滲んできて、その境目がボヤけつつゆっくりと西の空に広がっていき、それをじっと眺めている陽菜の目の淵に大粒の涙が込み上げてくる。

「なんで一緒に、なれないんだろ。こんな村に生まれてこなきゃよかった! そうすればシンタと一緒になれたのに…」

 悲痛な叫びがオレンジ色の空に響き渡る。陽菜の頬から大粒の涙が零れ落ち、やがて嗚咽が止まらなくなる。その背中を京がそっと支える。


 やはり陽菜の信太への想いは変わっていなかった! 京は縋るように悠人に視線を向ける。

 悠人はそれを引き取り、陽菜に話し始める。

「実はね。君の家系をずっと調査していたんだ。と言うのも水田家には家系図が存在しないからね。初めは香さんや善さん、洋子さんの記憶を辿りながら、駅前の役場で戸籍謄本を調べたんだよ。」

 悠人の声が陽菜の嗚咽を優しく包み、やがて陽菜は泣き止み落ち着いた気持ちで悠人の話を聴き始める。

「君のお爺さんとお婆さん、洋子さんの戸籍謄本から、洋子さんは埼玉で生まれたことがわかった。善さんの両親は、それぞれ正一さん、さとさんと言うことが分かった。だけどそこで調査は行き詰まっちゃったんだ。何故なら太平洋戦争時の空襲によって、それ以前の戸籍類が焼け出されてしまったそうなんだ」

 私のひいおじいちゃんとひいおばあちゃん… そう言えば全く聞いたことがない。陽菜は悠人に話の先を促す。


「それでも善さんの記憶によると、母親の実家は静岡県の焼津、父親の正一さんは戦争で亡くなったそうなんだ。あ、それを聞き出したのはこの京なんだ、よくやったな京。それはさておき。戦争で亡くなっていたなら、ひょっとしたら軍籍が防衛省に残っているかも知れない、そう思って実は信太さんに協力を依頼したんだ。」

 シンタ…

 あの日。アタシがシンタに告った日のことは忘れられない。

(掟があるからな。お前の気持ちには応えられねえよ。)

(じゃあ、もし掟が無かったら? 陽菜の気持ちに、応えてくれた?)

(…知らねえよ。てか、俺は、人殺しだ。人殺しの遺伝子なんか残したくねえんだよ…)

(そ、そんなのどーでもいい! 教えて! 陽菜のこと、好き? 嫌い? どっち?)

 シンタが絞り出す様にして言ったあの言葉。

(……嫌いな筈、ねえだろ…)

 私が頑張って来れたのはこの言葉のおかげ。

 アタシ達。掟。この目に見えない鎖を誰か解いてよ、誰か助けてよ、ねえ神様、何とかしてよ、アタシ達を、何とかしてよお!

「信太さんが同期や後輩の協力を得て、実は水田正一さんの軍籍が発見されたんだ。それによると、正一さんの出生地は、この恵比須ではなく、千葉県の保田という所だったんだよ。さっき船から君が指さした房総半島。丁度この辺りの対岸にあたる、小さな漁村さ。と言うことはだ。いいかい陽菜ちゃん。君の曽祖父と曽祖母はこの集落の生まれではない、他所からここに来た、と言うことになるんだよ。それはつまりーそう。君にはこの集落を記憶する遺伝子が、一ミリも含まれていない。言い換えようか。君と信太さんに遺伝子的な同期性はゼロ、なんだよ!」


 ああ。神様って本当にいたんだ。知らなかったわ。しかもかなり馬鹿にしちゃってたし。

 まさか『掟』を守らなくてよくなる、とは思いもしなかった。アタシは来年か再来年、無理矢理彼氏を作って妊娠するつもりだった。シンタを忘れるために新しい命を宿そうと思っていたんだ。だから今回の帰省は最後にシンタの顔を見るためだったんだ。

 それがまさか、こんなことになるなんて…

 ミミョー婆ちゃんの予言、恐るべしだわー、いつかお礼を言いに行かなくちゃ。

 神様を遣わしてくれて、ありがとって。

 真実を教えてくれて、ありがとって。

 それと、

 有り得ない位輝かしい将来への希望を持たせてくれて、ありがとって。


 気づいたら陽菜は泣きながら悠人に抱きついていた。これ以上ない程大きな泣き声で、これ以上ない程力強く悠人を抱き締めていた。

 それを見た京も大粒の涙をポロポロ流している。良かったねヒナ。初恋がよーやく実りそうだね。シンタとヒナの子供、アタシが育ててもいいよ、なんちって。

 ……そろそろ、いいべ? ボチボチ離れっかユートから。な、ヒナ、もーいーだろ。


 おいヒナ、いい加減に!


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