第一楽章 Grande Sonate pathetique
綿積悠人は取り留めのない人生を歩んできた。
それは自分でもそう思うし、外から見ても間違いのないことである。
人生、即ち人の生きる様、とは。
こうありたい、こうなりたいという想いを結実し昇華させていく過程のことであろう。
しかしながら悠人は二十二年間の人生を振り返り、目的を持ちまたは目的に向かい全身全霊を捧げたことは一度たりともなかったことを熟知している。
それは。
心の中に妙に冷めた自分が常におり、少しでも前向きになろうとすると、
(そんなに熱くなって、どうするんだい)
と嘲笑するのである。
何度もその侮蔑を打ち払おうとしてみたが、最後には決まって
(そうだよな、熱くなってどうするんだ)
と諦観してしまうのだった。
自分はそんな人間なのだと何度も諦めては、いやそんなことはない俺だっていつかは、という堂々巡りから容易に脱することができず、先日二十二の誕生日を迎えた。
そして悠人は今、眼前に広がる淡く光り輝く海を茫然と眺めている。
* * * * * *
悠人は愛媛県松山市にほど近い、焼き物で多少有名な町に生まれ育った。温暖な気候風土によりおっとりとした性格が多いと言われる地域で、彼もまたその性格を享受した。
父親は市役所に勤め母親は地元の小学校の教諭をしている。一人っ子の悠人は親からしてみればおっとりとして全く手のかからない実に育てやすい子供であったようだ。
逆説的に、手をかけなかったというのが事実であろう、従って親から何かを勧められることも指示されることも少なく、習い事も殆どすることなく成長していく。
故に特に秀でた才のないまま、そして特に打ち込むことのないまま中学校過程を終了し、地元の県立高校に進学した。
高校時代の彼を評するに、
「え? 綿積? 誰やったっけ?」
部活にも入らず、かといって勉学に打ち込むこともなく、特別仲の良い友人もおらず、クラスにおいていてもいなくても誰もわからない存在であった。
ある時期に歴史に興味を持ち、学校の歴史研究部の門を叩くことを考えたのだが、
(そんなに熱くなって、どうするんだい)
もう一人の自分がせせら笑うのを振り払えず、以後歴史への興味は醒めてしまった。
おっとり、ながらも妙に冷めた奴。己をそう診断し周囲もそう判断していた。役所勤めの父と教師の母の子故、遅刻や無断欠席は一度たりともなく、自他共の評価に『生真面目』というのも挙げられていた。
大学受験が迫り、特に優秀でない成績故に地元の国立大学には到底届かず、関西の私立大学にでもと考えていたが、
「東京の県人会の学生寮が新築されてな。来年は部屋の空きが多いそうや。そやから東京の私大でもええよ」
と恐らく悠人の人生で初めての親からの有益な助言をもらい、それに従い東京の中ランクの私大を受験しこれに合格した。
東京の私大に進む生徒は余りおらず、卒業間近になって
「綿積って奴、東京行くんやって?」
と大いに話題になった様だが、悠人はそれをよく知らないまま愛媛を出た。
修学旅行で来たことのあった東京は、それでも悠人を縮こませるに値する大都市なのである。俺はこの街に馴染むことができるだろうか。そんな不安は四年経った今も拭いきれずいる。
県人会の学生寮での生活は思いの外干渉の少ないものであった。と言うのも入寮している学生は朝から学校、サークル活動、アルバイトに明け暮れており、帰寮するのは門限ギリギリで殆ど寝に帰るようなものだったからだ。
サークル活動にも加わらず(誘われず)、授業が終われば即帰寮する悠人は他の県人学生と関わることが殆どなく、それはそれで気が楽な寮生活ではあった。
仕送りも限られる中、学生生活にも慣れた頃から悠人は寮近くのファミリーレストランでアルバイトを始めた。
人生で初めてのアルバイト、初めは失敗ばかりであったが、持ち前のおおらかさと生真面目さが徐々に効果を発揮し、一年経つと貴重な戦力として店長はじめとするスタッフ一同に認識されていた。
特に、文句の多い客、不当な注文をする客に対して、悠人のおおらかかつ生真面目な物言いが功を奏すことが多く、今や店長のみならずバイト仲間からも
「対ラスボス最終兵器」
として大いに頼りにされている。
そんな悠人も四年生となり就職活動の波にのまれることとなる。
大学には友人と呼べる存在は殆どおらず、寮に至っては顔も名前も知らぬ者ばかり。バイト先のスタッフは高校生や専門学校生が殆どで、就活に必要な情報が全く不足していた。
古い型のノートパソコンとスマートフォンは有していたが、さほど機能に詳しくもなく、各企業へのエントリーに最初からあたふたする有様であった。
生真面目さが祟り、web上での一次試験に大いに手こずりその殆どで不合格となってしまう。もっと要領よくスマホ、タブレットで検索を駆使し回答していけば良いのに、これは試験なのだから、とそういった行為を一才拒絶した結果であった。
運よく一次筆記試験を通過し、二次面接に進んでも、
「学生時代に打ち込んだものはなんですか?」
「いえ。特にありません」
と生真面目に答えてしまうのが最悪解なことに全く気づけず、連敗街道は途切れる様子を全く見せなかった。
みかねたバ先(バイト先)の店長が、
「ウチの親会社を受けてみなよ。推薦するから」
と言ってくれたのだが、コロナ禍の影響で来年の新卒採用はないことが分かり、二人して頭を抱えたものだった。
秋。十一月の半ば。
品川にある非上場の中堅物流会社の最終面接になんとか辿り着いた。
すっかりくたびれた就活スーツに寮の共用のアイロンをかけ、両親からの誕生日プレゼントのネクタイを締め、背水の陣に向かった。
もしこの企業がダメだったら、実家に戻ろう。そう悠人は決めていた。
特に東京に未練はなく、いや寧ろ未だに東京に慣れることができず、四国の山中でおおらかに生真面目に生きていこう、半ばそう決心してのことである。
そう言えば、この就活においても俺は全く真剣に打ち込むことができなかったな。そう自虐しながら口元を歪ませる。電車の窓に映った己の歪んだ笑顔の向こうに、大手不動産会社の広告看板が無機質に通り過ぎていく。
「ふーん。特技無し、趣味特に無し。ねえ綿積君、キミ就職活動舐めてんの?」
不機嫌そうな太った黒縁メガネの管理職が濁声をあげる。
「こんなエントリーシートでさあ、キミを採ろうとする会社あると思ってんの、ねえ? これが名だたる国立大学や早慶だったらワンチャンあるよ、でもキミ違うでしょ? どこなの大学、言ってみな?」
エントリーシートに在学する大学名を記入する欄はない。
「は? やっぱりね。そんなとこ通っててさあ、それでサークル活動やボランティアも無し。資格も取ってない。ファミレスでアルバイト? ほんとキミ舐めてんの?」
悠人に凍りついた笑顔を溶かす術はなかった。
「就職課でさあ、ちゃんとチェックしてもらった? 親や仲間に見てもらった? 就活本一通り目を通した? キミ、友達いる? いねえか、こんなん書いてくる様じゃ。なあ」
隣で顔を顰めていた管理職が苦笑いしながら同調する。
「来年さあ、もう一回よおーく就活の勉強し直してから、おいでよ。今回は残念ですがご縁がなかったと言うことで。」
悠人は頭が真っ白になり、ヨロヨロしながら部屋を出て行った。
現実。
別に舐めていた訳でも、直視しなかった訳でもない。
あの面接官の言う通り。悠人には就活のアドバイザーたる存在が決定的に欠けていた。
普通なら大学のクラスの仲間が三年生にもなると色々な情報を持ち寄り、それから就活本を買い漁り、全く面識のない先輩を後輩面で訪ねまくり、ゼミの教授に三拝九拝し親に三跪九叩してコネを見つけてもらい、それから意味の分からない資格をこれでもかと取得し、挙げ句の果てにやりたくもないボランティアに精を出す。
それがガラパゴスジャパンに於ける必要最低限の就職活動なのである。
悠人にはそういった情報が全く入らず、又おおらかな性格が災いし、その状況に危機感を覚えることもなく、バイトの面接の延長で挑んだのが最大の敗因であった。
エントリーシートにも嘘偽りを何一つ加えずに生真面目にありのままを記入した。なんなら心の奥底にしまっておいた己の恥部まで曝け出したものだった。
「私は未だかつて物事に熱中したことがなく、それをしようともがいてみたものの最後には諦めてしまう性格を持つ」
悠人の持つおおらかで生真面目な性格ほど、日本の就職活動に不向きなものはなかった。
* * * * * *
頭が真っ白な状態のまま悠人は品川駅に入り、J Rではなく京浜急行に乗ってしまった。そしてそれに気付くのは終点の三崎口駅に到着してからであった。
電車に揺られながら悠人は何度も何度もあの太っちょの面接官の言葉を反芻していた。
(キミ、就職活動舐めてんの?)
舐めてないっ! 舐めてなかった。だけど……
俺は完全に準備不足だった。大学に入り仲間も先輩も作らず気の向くままに生活していた結果がこれだ。全ては自己責任なのだ。
もし就活にキチンと向き合っていたなら、仲間を作り先輩に頭を下げ情報を交換していただろう。だが俺はそれをしなかった。
本屋や図書館で就活本を求め、研究したであろうか。否。
ネットやクチコミを参考に企業に向き合っただろうか。否。
己を向上させ、企業を振り向かせる自分を整えてきたであろうか。否。
では、俺はこの四年間、何をしてきたのか?
無。
もう一人の自分がせせら笑いながら呟く。
(虚無だよ。俺は中身も行動も、空っぽなのさ。)
頭を抱えた時、
「終点、三崎口駅です、お忘れ物のないようにお降りください」
ハッとして頭を上げる。周りを見回す。そして気が付いた、間違えた、京急に乗っちまった、と。
普段悠人は忘れ物も殆んどせず、道に迷うこともない。そんな悠人が事もあろうにJ Rと京浜急行線を間違えて乗ってしまうとは相当我を忘れていたのだろう。
席をたちホームに出て暫し呆然と佇む。
しばらくして己を取り戻すと、ホームに掲げられた時刻表まで歩き、品川行きの時刻を調べる。あと十五分後に快特品川行きがあるな、その瞬間。
フッと潮の香りが鼻腔から脳に至る。振り返ると遠く海が太陽を反射して揺らいでいるのが眼に入る。目を細めそれを眺めているうちに。
見に、行こう。
悠人の足は勝手に改札口に向かって歩み始めていた。
改札を出て、急に持っていたビジネスバッグが邪魔に感じ、財布だけ取り出してコインロッカーに放り込んで鍵をかけた。
スマホを取り出し、普段あまり使うことのないマップ機能を使い目的地を探る。パッと眼に入った海沿いの『恵比須』という地名に惹かれそこを目的地にセットする。
経路を徒歩に指定すると、所要時間が一時間十分と表示される。
時計を見ると十二時四十八分。二時前には到着できるだろう。スーツ姿に革靴のまま、悠人はスマホを片手に歩き始めた。
国道一三四号線を南下し県道二六号に入る。
スマホから目を上げ、空を眺める。空が広い。周囲に高い建物がなく、山や丘陵もなく東京や故郷の空とは全く違う、大きく広がる空を無心で佇んで見入る。
秋晴れの真っ青な空に数片の千切れ雲が流れている。上空は風が強いのだろうか。そう思った時に冷涼な風が悠人の頬を撫でる。
都会のビル風よりもずっと柔らかい風だ。僅かに感じる潮の匂いも心地よい。その風が電車に揺られながら煩悶していたことをすっかりと吹き洗い流し、心なしか悠人は胸が躍る心地となっている。
電信柱に『三浦霊園』はこちら、と言う看板を確認し、その方向に進んでいく。なだらかな下り坂を就活用の革靴が心地よい音を響かせている。
徐々に辺りは畑が広がり始め、道も細くなってくる。畑では三浦大根でも作っているのだろうか。神明神社という小さな祠を過ぎる頃には道は農道の様を呈し始める。
周囲の雰囲気と就活スーツ姿が全く合わなく、たまにすれ違う地元民がギョッとした目で悠人を凝視する。
目的地は海なのだが、全く海が見えないまま残りあと十分程となる。畑が途切れ徐々に道が急峻になってきて革靴が悲鳴を上げてきている。
頬撫でる空気がひんやりとして少し汗を流している悠人には心地よい。常緑の木々が日を遮り辺りは少し暗くなっている。
胸一杯に緑を吸い込みながら、それでも鼻は潮の香りを求め、足は前に進む。下り坂は益々厳しくなってきて、日頃運動不足の悠人の膝も悲鳴を上げ始める。
悠人は道端でしゃがみ込み膝をさする。不意に鼻が潮の香りを捉える。顔を上げ、立ち上がり足を進める、と。
目の前に小さな港が開けている。
秋空と競うような青い水が眼前に広がり、膝の痛みも忘れ悠人は小走りで前に進む。潮の匂いがキツくなってくる。県道を横断し、その小さな港に入る。恵比須漁港と言うらしい。
海をこんなに近くで眺めるなんていつ以来だろう。眼前の青い海と潮の匂いで悠人は就活で惨敗したことを暫し忘却した。
スマホのマップによると、少し西に歩いていくと磯場があり景色が良さそうである。悠人は港を左手に見ながら磯場の方に歩を進める。
潮の匂いに慣れてくると、またぞろ就活惨敗の記憶が蘇ってくる。
何故いつになっても俺は物事に熱中できないのだろう。高校受験の時は特に難関校ではなかった為、中間や期末テストと同じ心構えで受験し、難なく合格した。
大学受験も松山の予備校に週一通ったのみで後は過去問を主体に何となく勉強し、本番でも普段通りに構えて臨み呆気なく合格した。他に格上の私大を二つほど試したが、それらは全て不合格であった。
入学式後の執拗なサークルの勧誘を全て払い除け、授業が始まるもそれ程真剣に授業を受けるでもなく。
始めたバイトもそこには熱中する要素は皆無であり、年下の女子高生のバイト仲間に誘われてデートに出かけるも、彼女に恋を意識することは無くそれ以上には進まなかった。
真面目な大学生のお兄さんキャラがついてまわり、年下女子にそこそこモテているのだが今一つピンとくる相手がおらず、彼女ができるには至っていない。
本人は無自覚なのだが、悠人は相当な『面食い』だったのだ。容姿が優れていないと全く恋愛対象にカテゴライズすることはなく、友人、後輩枠からはみ出ることは皆無であった。
では容姿端麗の女性に対し恋愛感情を持ち接触を図るのか? 残念ながらおおらかな性格故に
(こちらから行かなくても、いつかそのうち)
と構えてしまうので、恋が成就した経験は未だ、無い。
大学の授業では徒党を組まず常に窓際の前から三番目の席を一人占めていた。一年の前期のテスト前に何人かの学生にノートを貸して欲しいと声掛けをされるも、それ以上に仲が進展することはなく、また進展させる意思もなく結局四年の今に至る。
その挙句が、この惨敗である。
勉強にも、バイトにも、女性に対しても、そして就活にも、
何故俺は、どうして俺は真剣になれないのだ?
心の中のもう一人の自分に叫びかける。
「いいじゃないか、熱くなったって! 熱くなって何が悪いんだよ!」
気がつくと足場の悪い磯場で悠人は海に向かい叫んでいた。
それからずっと、悠人は眼前に広がる淡く光り輝く海を茫然と眺めている。
顔を叩きつける潮風が急に冷たく感じた。
目の前の海がさっきよりも深い蒼色になっている。東京からそれ程遠くない海がこれほど綺麗な水を湛えているとは思わなかった。
足元を見回すと、洗濯板のような形状の岩場が広がっており、後ろを振り向くと斜めに走った地層が顕となっている崖がそそり立っている。
足元を小さな蟹が通り過ぎる。ふと気付くとさっきまで岩場だった所に水が入ってきている、そうだ潮が満ちてきているのだ。
そろそろ引き上げないと革靴を濡らしてしまうだろう、悠人は名残惜しくも海に背を向けまだ水に浸っていない岩場を探し陸地に戻ろうとした。
辺りが急に暗くなってくる、時計を見ると四時半過ぎである。日没まで間が無さそうだ、悠人の足は自然早くなり、多少靴が潮に濡れても気にしなくなっている。
もう少しで陸地に、と言うところで革底に滑りを感じた。次の瞬間、悠人の左足が宙を舞い、視界いっぱいに黄昏かけた空が広がった。ああ、空が、行ってしまう! 両手で空を掴もうといっぱいに伸ばし……
後頭部に強い衝撃を覚え、悠人の意識は遠ざかっていった。
* * * * * *
「…っぱ、救急車呼んだ方がいいんじゃない?」
「やだよ面倒臭い。息してんだからそのうち目覚ますっしょ」
悠人の耳に二人の女性の声が入ってくる。
きつく閉じていた目をそっと開いてみる。
「ほーら。目開いたよお。ったく人騒がせなヤツだし」
若い女性の声が尖っている様子だ。
「でも意識がちゃんと戻るかどうか。記憶喪失になったりしてるかもだよ?」
熟した女性の声が温かく悠人を包んでくれる気がする。
「おおお! それ韓国ドラマじゃん! じゃあコイツ財閥の御曹司? 助けて得したヤツ? それ超ラッキーじゃん! おーい、おまえ。起きてるかあー?」
はしゃいだ声の若い女性が悠人の顔を覗き込む。
目を疑った。
悠人を覗き込んでいるその目は大きなアーモンド型である。ツンとした鼻が強気で勝気を漂わせており、ちょっと小さめの口は鮮やかなピンク色である。
色黒の顔立ちは、しかしながら小さく纏まっており頬から顎にかけてのラインが絶妙だ。髪の毛は後ろでぞんざいに束ね、色は潮焼けのせいか薄茶色である。
彼女はまるで、それこそ韓流ドラマに出てきそうな美しいヒロインのようなのだ!
「んーー? おーい、なんかしゃべれー、てか、しゃべれるかあー」
声が幼い。歳の頃は幾つであろうか。バ先の専門学校生くらいだろうか。だがその幼い声が妙に耳に心地良い。
「あれー。しゃべらんよコイツ。ってアレかカオちゃん、言葉話せない系の展開? で実は超一流ヒットマンで明日の朝追っ手がここにー」
「ハイハイ、そーだといいね。でも、ちょっとキミ大丈夫?」
カオちゃんが代わりに覗き込んでくる。中年の女性だ。やはり真っ黒な顔に潮焼けした茶髪を後ろに束ね、ほっそりとした感じだ。
「はい、大丈……」
口を開いた瞬間、頭に激痛が走った。
「ってー、いてててて」
後頭部がドクンドクンと痛む姿を見て、
「ギャハハハハー、何それ、ダッサー」
と若い女性が爆笑する。
「ちょっと、京ちゃん失礼だって! ねえキミ頭が痛むの?」
悠人は顔を顰めながら、
「ええ、後頭部がかなり……」
京ちゃんと呼ばれた幼い女性は腹を抱えながら、
「んで、名前、言えるかあ? 所属もついでにー」
所属って…?
「ええと、綿積…悠人、だけど。」
二人の女性がギョッとした顔で互いを見ている。
「ワタツミ、って、海神?」
「そうなるわね、そう言ったよねこの子」
「いやいやいや、海神って顔じゃねーし。韓流顔だし。」
「またそこ? 京ちゃん韓流付いてるのね」
「まーね。琴ばあん家で一緒にアホほど見たし」
「で? 何がオススメ? やっぱ不時着系?」
「アレいいよな。でも最近ならさ、チャチャチャってのがさ、なんかいーんだわ」
「へえー、帰って見てみよーかなあ。ってさ、京ちゃんそろそろテレビ入れたら?」
「そんな金ねえし。その金あったら、スマホ買うわ」
「スマホねえ。あれ便利そうよねえ。」
「だべ? でもさ…… って。あれ。何の話してたんだっけ?」
「えっと、何だっけ?」
悠人は右手を伸ばし、
「僕、名前……」
「ああ、そーだった。で、名前何だっけ?」
「綿、積、です」
カオちゃんと京ちゃんは再度ギョッとした顔になる。
「あー、ああ。ワタツミ。海神?」
「んーー、普通の男の子にしか見えないわね」
「だべ? 三ヶ日のお告げ、コイツじゃねーよ。あービックリした。ああそうそう、あれもいいわ、弁護士が出てくるやつ。」
「へえ、それ面白そう。どんなストーリー?」
何だこの二人。悠長にも程がある。仮にも頭部を負傷した人間に名前を何度も呼ばせ、名前に驚いたかと思うとコケにして。挙げ句の果てに全然関係ない韓流話で盛り上がりやがって。
開けた目をそっと閉じ、ズキズキ痛む後頭部を横に向けてついでに身体も横向けにする。
あれ。
俺、スーツ着てたよな?
あれ?
何これ、作務衣?
ひとしきり喋り尽くしてから、カオちゃんが席を立ち、
「じゃあ京ちゃん、何かあったらすぐ声かけて。特に嘔吐したらすぐに知らせるのよ」
「いやいやいや。人ん家でゲロ吐いたら、ぶっ殺すし。」
「ダメよ、そんな簡単に人を殺しては」
「平気だって。死体はいつものとこに沈めときゃ、魚がつついてすぐに骨になるし」
悠人は激痛を押しのけて上半身を起こし、怯え切った顔で二人を交互に見た。
「ぶはははは! こ、こいつマジビビってるよお、おもしれーんですけどお」
京と呼ばれる若い女性は、バ先の子たちが使う言葉遣いとは少し違う口調である。
「もう京ちゃんったら。じゃあキミ、お大事にね。後でお粥でも持ってくるから」
笑いを堪えながらカオちゃんが部屋を出て行った。
急にシンとなる。
ところで、一体ここは……
「ああ、ここ? アタシん家。アンタ覚えてないっしょ? 磯場でぶっ倒れてたんだよ。」
そうだった。
足を滑らせて後頭部を岩場に打ち付け、気を失っていたのだ。右手を後頭部に回すと信じられない程の大きさのコブが盛り上がっている。
「仰向けになって潮だまりに顔だけ出してたんだわ。それ見てすげービビったし。」
潮が満ち、危うく海に流されるところだった様だ。もし彼女が見つけてくれなければ、今頃溺死していたに違いない。
「そんでシンタに声かけて陸にあげてさ。そんでもアンタ起きなかったから仕方なくここに運んだ訳。え? 着てたスーツ? すっかり潮吸っちゃってっから、もう台無しじゃね? それを男衆が脱がせてさ、そんでじーちゃんが着てた服を着せて、って感じかな。」
生真面目な悠人は痛みを堪えつつ彼女に向かって座り直し、
「有難う。本当に、有難う。おかげで命拾いしたよ。ええと、京ちゃん?」
「お、おう。ま、まあな。」
顔を少し赤く染め照れる姿は、本当に韓流ドラマのヒロインのような可愛さだ。正直、都会にこれ程可愛い女の子がいたであろうか、いや見たことがない。
大学のキャンバスを闊歩する一見モデル風の子達でさえ、この子程顔が小さくないし目も大きくない。この子程細くないし、何より顔つきがこの子程生々としていない。
口調がガサツなのが気になるが、それも幼くかわいい声で帳消しだ。
悠人はその人生で初めて、心から美しいと感じる子に出逢ったのだった。
* * * * * *
「ふうん。就活ってーのに失敗して。そんで?」
悠人は夕食を流し込みながら渋々ここに来た経緯を彼女に呟いている。
その、カオちゃんさんが夕食にと運んできてくれた粥。海の幸がふんだんに使われた、未だかつて食べたことのない程の美味であった。を一粒残さず啜った後痛みも大分治ってきたので、話を切り上げて悠人は東京に帰るべく腰を上げようとしたが、
「ムリ。もうバスの時間終わったし。それに服それで帰るん? 今夜は泊まってきな」
と京がサラッと言ったので、悠人は特別な感情を持つこともなくそれもいいかな、と思った。
食事を終え、京が食器を洗いながら悠人に話の続きを求め、悠人は続きを話し始めた。
「で? 何その電車に乗り間違えたって? あり得なくない?」
「そうなんだ。こんなこと初めてだよ俺も。でも気付いたらさ、三崎口だったんだわ」
「ふうん。今時そんなアホが本当にいるとは。で?」
「アホって…… そうそれで、駅のコインロッカーに鞄を預けて外に… あっ俺の鞄!」
「カバン預けてたんだ。明日引き取ればいいじゃん」
「そ、そうだよな…… さておき。外に出て、スマホでマップひらい…… あれ、俺のスマホ?」
「ん?」
「俺のスマホ、何処だろう」
「知るか」
「うわ、あの岩場に!」
「あーあ、今頃グレがラインしてるよ」
「グレ? さん?」
「バーカ。メジナだよメジナ」
京が大笑いする横で悠人は青褪める。そんな馬鹿な…… 中古とはいえ去年買ったばかりのスマホが……
「へええ。駅から恵比須まで歩いてきたん? それもあの格好で? 馬鹿? アホ?」
京は悠人の話が進むにつれ笑いが止まらなくなる。
「何狙い? 天然?」
悠人は顔を顰め否定するも
「で? そんで?」
「……で、港を出てあの岩場まで来てさ、それからずっと海を眺めてたんだよ。日が沈んできたので帰ろうとしてさ、あとちょっとのとこで足を滑らして」
「そっかあ。あと二十分遅かったら、顔まで水に浸かってたよん。ギリギリだったねえ。」
「ホント、感謝しているよ。有難う。」
「それもういいから」
「ところで京ちゃん、家の人は? おじいさんがいるんだっけ?」
悠人は着させられた作務衣を弄りながら京に尋ねる。すると京は急に暗い顔になり、
「いない。」
「へ? 居ないって?」
「じーちゃんは、去年の年末、死んだ。シンゾーマヒで。」
心臓麻痺。虚血性心疾患。急にバタリと倒れ、そのまま……
「そー。ある日急に。」
「そっか。で、お母さんは? お父さんは?」
京は顔を顰め、
「父ちゃんは三年前海で死んだ。」
悠人は硬直する。
「ババアは、その後アタシとじーちゃん置いて、出てった。多分、今横浜かどっか。」
唖然。では、今この子は……
「そ。去年からここで一人暮らし。」
急に部屋が広く感じられる。何という事なのか、この若さで一人きりなんて……
「ま、村のみんなが良くしてくれるから。全然平気だし。」
この子はその鼻筋が示す通り、勝気で強がりを言う子だ。悠人はそう感じた。寂しくない筈が無い、こんな鄙びた小さな漁村で両親も祖父母もおらず一人きりだなんて。
韓流も真っ青な京の現状に悠人は深く同情の念を禁じ得なかった。
それにしても。いやちょっと待て。
とすると、今この家には俺とこの子の二人きり?
ゴクリと唾を飲み込み、悠人は
「や、やっぱ俺、今から帰るわ」
それが男としての矜持である。一人暮らしの若くて可愛い女子の家に、しかも知り合ったばかりの子の家に、のうのうと泊まる訳にはいかない。
悠人の生真面目さがそれを許す筈がない。
「この服、貸してくれないか。それと俺のスーツ、ビニール袋かなんかに入れてくれないか?」
「ちょ、何言ってんの? バスの時間過ぎてるって言ったじゃん。」
「歩いてきたから、歩いて行くよ。終電にはまだ間に合うだろうし」
「歩き? 無理だって。出るって。危ないって。」
悠人はギョッとし、
「出る? 何が?」
「ケモノ。イノシシとか、サルとか。あと山犬でしょ、それに山猫でしょ。食べられちゃうぞ」
「山猫って…… 宮沢賢治かよっ」
「は誰それ? 芸人?」
悠人は呆れ顔で首を振りつつ、
「県道沿いに歩いて行くから。大丈夫だろう」
「ダメだって、ヤバいって。出るって、コエーのが。」
「怖いのって…… 例えば?」
「首のないバイク乗りだろ、赤ちゃん抱えた着物着た女だろ、あとは〜」
悠人の顔が引き攣る。彼は心霊現象系が大いに苦手なのである。
「よ、よせ。この世に、そんなのが存在するはずがないっ」
京は首を振りながら、
「いやいやいや。いるって普通に。こないだもさ、五年前に死んだ源さんが岩場で釣りしてるのをシンタが見たし。」
「ひいー や、やめろよ」
「あとさ、夜釣りでクロダイ釣りあげたら、『騙したなあ』って呟いたって。」
「う、うそだ、そんな筈はないっ」
「お盆の頃には夜兵隊さんが県道沿いを行進しているぜ」
悠人は全身に鳥肌が立ち、震えが隠せなくなっている。
「この辺の人は夜絶対で歩かないぜ、だからやめとき。泊まってき。」
悠人は激しく首を縦に振るのであった。
愛媛の実家でも使っていた、懐かしい旧型のガス湯沸器が風呂を沸かせている。
「よーく洗えよお、けっこー砂まみれだったし」
悠人は礼を言い、脱衣所で服を脱ごうとする。そして硬直する。何と京も服を脱ごうとしているではないか!
「え、ちょっと、何?」
「背中洗ってやるよ、一緒に入ろうぜ」
「えなにそれむりむり一人で入るしむりむり」
「いいじゃない、せっかく泊めてやるんだし。ケチケチすんなよっ」
ここにきて悠人は恐怖が込み上げてくる。
まさか、この子は実は宮沢賢治の話に出てくる山猫? あれ俺食われてしまう? あのカオちゃんさんも俺を美味しく太らせる為に美味しい海鮮粥を?
悠人の狼狽ぶりに京は大爆笑し、
「ウソに決まってんだろ、バーカ。ぶはははは、なにオロオロしてんの、ぎゃははは」
笑いながら京は脱衣所を出ていく。その後ろ姿を呆然と見送りながら、悠人は頬を思い切りつねってみる。ああ、普通に痛い。
暫し立ちすくんだあと、恐る恐る服を脱ぎ、浴室に入って行った。
風呂から上がり体を拭き、作務衣をノーパンで着込んで悠人が寝込んでいた茶の間に戻る。
「お先に。お陰さんでサッパリしたよ」
京はフーンと呟き、自分も風呂に入ってくるから出るまで待っていろと命令され、苦笑しながら頷いた。
改めて部屋を見回す。
木造の古い造りである。畳敷きが妙に居心地良く感じる。仏壇には京の父親と祖父の遺影が飾られており、よく見るとちっとも京に似ていない。きっと母親似なのだろう。
壁には父親か祖父が釣り上げたであろう大きな魚の魚拓が数枚飾ってある。父親が海で死んだと言っていたな、この家は漁師の家系なのか。
他の部屋も覗きたくなったが、生真面目な悠人はそれが出来ない、言われたままに茶の間で一人佇んでいた。
やがて廊下をバタバタ歩く音がし、京が湯上がりの格好で入ってくる。
「えへへ、お待たせっ で? 話の続きしてよっ」
冷蔵庫から持ってきたであろうよく冷えた麦茶の入ったコップを一つ差し出しながら、京がウキウキした表情で悠人に催促する。
ありがと、とコップを受け取りながら、
「話、って。だから、港から岩場までスマホ見ながら歩いてきて、それからずっと海を眺めていて。暗くなってきたから帰ろうとしたら、足を滑らせて転んで。そしてキミに見つけてもらった、という訳さ。」
「ねえ、スマホってやっぱ便利?」
話を急に曲げる京に苦笑しながら、
「俺もよく使ってないから何とも。」
「アレでしょ、ラインとかインスターとかツイットーとか出来るんでしょ?」
……? アクセントが全く違うのでそれらを理解するのに少し時間を要した。首を傾げつつ悠人は部屋をぐるりと目ぐらせ、テレビはおろか、電話、デジタル時計、Wi-Fiルーター、空気清浄機といった機器がないのを確認する。
「京ちゃんは、携帯とか持ってないの?」
「持ってない」
「でも友達とか持ってるから欲しいんじゃない?」
「友達、いないから。」
悠人はギョッとする。
「え? 京ちゃん今高校生じゃないの?」
「高校行ってない。中学も途中から行かなかった」
悠人は口を開けたまま固まってしまった。この子は、学校にも行かず、何をして?
「磯で貝取ったり魚取ったり。港行って漁協の手伝いしたり。じーちゃんの漁船はこないだ売っ払っちゃったから、沖には出れないのが悔しいわー。まあ、そんな感じ。」
軽い目眩を感じる。やはり俺は夢を見ているのではないだろうか? アナログな壁時計が十一時を指している。
「すまん、疲れたから眠りたい。ここで寝ていいのかい?」
京はもっと話したそうな顔をしつつも、
「うん。朝ゴソゴソやってるけど、気にしないで寝ててね。んじゃ、おやすみっ」
空のコップを持って立ち上がり、京は心なしか嬉しそうに茶の間を出て行った。
悠人は電灯から垂れ下がっている紐を引き灯りを消し、布団に入り掛け布団を頭からかむり体を丸くして深く目を閉じた。
* * * * * *
全く夢を見ずに目覚めたのはいつぶりだろう。それ程悠人は深い眠りに落ちていた。そして目を開けた瞬間、自分がどこで寝ているのかが全くわからなかった。
ここは何処だ、こんな古い家でどうして俺は寝ていたのか?
障子から明るい外の様子が窺え、時計を見ると七時丁度である。後頭部の鈍痛に気付き、ようやく今自分が寝ていた場所と経緯を思い出した。
障子を開けると潮の匂いが悠人に押し寄せてくる。悪くない、いや寧ろとても良い。山間で育った悠人は海を眺めたり潮の匂いを胸いっぱいに吸い込むのが大好きだ。
「おっはよー。よく寝てたなあ、イビキうるさかったわー」
早朝の庭先に映えるとびきりの笑顔。秋深まる漁村に咲く一輪の若花。昨夜電灯の元で見るよりも、遥かに彼女は若く、そして美しかった。
尊い。神々しい。そんな思いによって悠人は即座にテンパる。
「あ、えっ、おはようございますっ!」
京は不思議そうな顔をし、
「朝ごはんさあ、もうちっと待ってて。もーすぐご飯炊けるからさっ」
「そ、そうですか、それは素晴らしい」
首を傾げながら、
「あ、布団かたしとけよ。そこで食うんだから」
「その件に関しましては、直後に対応させていただきます」
「……畳んで部屋の隅に、置いとける?」
「か、可及的速やかに、対処いたします」
「……ねえ、やっぱこれから病院行く?」
「そ、その必要はごじゃりません」
「? そ。ならいいんだけど。」
京は怪訝な顔をしつつ庭先から姿を消し、しばらくして台所の音が聞こえてくる。
どうした俺。何が起きた俺。
昨夜はそうでもなかったのだが、今朝の京の余りの美しさに悠人は激しく動揺し、思わずトラウマとなっている就活的な返事をしてしまった…
女性に対し、ここまでアガってしまったのは初めてだ。バ先のちょっと可愛い短大生の後輩や先輩の美人人妻に対しても、ここまでアガる事はなかった。
一度だけ大学構内でグループアイドルに属する子を見た時に近い感覚だ。美し過ぎて、尊過ぎて声をかけられず息も出来ない状態。今朝は辛うじて呼吸は止まっていない様だが。
やがて家の奥から、
「おーい。出来たから運ぶの手伝ってくれー」
収まりかけた胸の鼓動が再び高まり、
「ひゃい!」
と叫んでしまう。
その胸の高速鼓動は京の作った朝ご飯を口にするとたちまち収まる。それ程美味しかったのだ!
「この味噌汁に入ってる海苔、凄い新鮮で美味しい!」
「ああそれ。さっき漁協でかっぱらってきたヤツ。」
「それにこの鯵の干物。肉厚でジューシーで、今まで食べた事ないよ!」
「お、おお…… そりは、よかった」
料理を褒められたことのない京は、思わず噛んでしまう。
「それにこの半熟の卵焼き。卵の味が濃くて本当に美味しいよ」
「あは、はは、ははは」
京は未だかつてない程動揺する。だがふと考え直し、思う。
(コイツ、今までロクなもん食ってこなかったのかなあ。こんなフツーのもんをこんなに旨そうに……)
そう思うと急に憐憫の念が込み上げてくる。
「さ、食べな。アタシの分もさ、食べなよ」
直箸で卵焼きを悠人の皿に置く。
勿論、京は知らない。女性と付き合ったことのない男子が女性にされて動揺するランキングの上位に位置する、『直箸行為』。
当然、悠人は激しく動揺する。すると急に食欲が無くなり、対面の京を真面に見られなくなり、下を向いてしまう。そして茶の間は気まずい空気に満たされていく……
(あれ、どしたんだろ。急に食わなくなったし。やっぱ頭打って調子良くないのかなあ)
京は真顔で悠人の顔を覗き込む。
(ちょ… 直箸って… 卵焼き、味変しちゃうじゃんか… うわ、やば…)
悠人は上目遣いで京をチラ見する。
二人の交錯した感情は全く妥協点が見いだせないまま只時は過ぎ行き、味噌汁はそれに比例してその温度を下げて行く。
(やっぱ昨日のうちに病院連れてけば良かったのかなあ。)
(しかも一口齧ってるし。これって所謂間接フリーキック…もとい、関節技… あれ?)
(カオちゃんの言うこと聞けば良かったよお、救急車呼んどけば良かったよお…)
(ああ、時間が経つに従いこの子の唾液が卵焼きに染み込んでいく… そ、それを俺は…)
(ヤバいよヤバいよ、ほら目が逝っちゃってるよコイツ、ぜってー脳みそ壊れたよー)
(卵焼きが更に甘みを増していく… ああ、食べたい、口にしたい、でも、俺には…)
(コレって殺人になっちゃうのかなあ、ヤバ、アタシ人殺し? てか、神殺し?)
「おーいっ おっはよおー。神様、元気してるー?」
カオちゃん、こと水田香が皿に盛った沢庵を片手に茶の間に入ってきて、ようやく二人のこう着状態は終息したのだった。
「あ、昨夜はご馳走様でした、あんな美味しいお粥初めて食べました。」
「お粗末様― って、神様元気そうじゃん。良かった、良かった」
香はニコニコ顔で頷く。昨夜見たよりもややふっくらした顔立ちである。
ん?
は?
神様?
って、俺のことを呼んだよな?
「ほいコレ。ご飯のお供にどーぞ」
沢庵の盛った皿をちゃぶ台に置く。屈んだ香の胸の谷間がチラ見えし悠人は顔が赤くなるも、
「あの、神様って、何のことですか?」
「だって。キミ、神様なんだもの。ねー、京ちゃん」
そんままペタリと座り込んだ香は京に問いかける。
「んーーー。」
唸り声をあげる京に、悠人は
「は? 俺が神様? どう言うこと?」
香が驚いた顔をしながら、
「あれ京ちゃん、話さなかったの、あの話?」
「ん。してない。」
「えーー、じゃあ昨日の夜二人でナニしてたのよ? もー、若い二人がっ いやらしいー ヒューヒュー」
「は? へ? ってか、コイツさっさと寝ちまったし。」
「えーーー? キミ、こんな若くて可愛い子と二人きりの夜に、」
香が驚愕の表情で畳み掛ける。
「ナニもせずに、」
スッピンながら整った顔立ちを悠人の鼻先まで近づけながら、
「先に、寝た?」
悠人は後退りしながら、
「ええ、まあ」
「キミ。馬鹿なの? 愚かなの? せっかくこっちが気を利かせてあげたのにっ もー信じらんない!」
何故俺はキレられているのだろう。世間的に常識的な行動をしたにも関わらず、だ。
ああ、てか、そんな事よりもー
「そんな事よりも、何ですか俺が神様って?」
香は憑き物が落ちた様な表情となり、
「あー、そうだった。そっか、それ言わなくちゃだよねー」
京はそんな二人のやり取りを面倒臭そうに眺めるだけだった。
* * * * * *
「キミ、この恵比須の辺りに来るのは、初めてなんだっけ?」
いつの間に一緒に食事を済ませた香が食後のお茶を啜りながら悠人に尋ねる。
「ええ。昨日、本当に偶然この辺りに来たんですよ」
「そっか。この辺ってさ、城ヶ島とか葉山とかと違って、ちょっと寂れてるでしょ?」
確かに。東京から電車で一時間ちょっと。車でも二時間はかからないだろう。それでいてこれだけ海の幸豊かで山の幸もふんだんにある。だが、所謂湘南や葉山の辺りとは全く雰囲気が異なっており、観光客など殆どいないのではないだろうか。
「観光の名所も無いし。だからこの恵比須にはホテルやレストランなんかも無いし。あるのは、昔からの生活を受け継いで、細々と生きている、私らのような住民だけ。わかる?」
悠人はなんとなく頷く。
「この集落はね、この磯部の家でしょ、田圃持ってる私の家、畑耕している小畑の家、鶏を飼っている鳥山の家。この四世帯だけなのよ。」
それは驚いた。まだ家の周りをよく見ていないから分からないが、もっと大きな村かと思っていた。
「みんな自給自足みたいな生活してるのよ。ウチで取れたお米をみんなに配って。小畑さんから野菜もらって。鳥山のお婆ちゃんから卵や鶏肉分けてもらって。この京ちゃんが取ってくる海藻や魚介類を頂いて。」
「それじゃ、コンビニとか無いんですか?」
京がプッと吹き出し、
「歩いて一時間のとこにあるよ。雑貨屋なら港の前にあるけどさ」
「ここは、俺が倒れていた磯から遠いのですか?」
「そうね、歩いて十五分位かしら。後でこの辺散歩してみたら? まあ五分もあれば見回れちゃうけどね」
そう言って香はぺろっと舌を出す。
世間との隔絶。
それが悠人の頭に浮かんだ言葉であった。
「何となくこの辺の事はわかりました。で、俺が神様って言うのは、何なんですか?」
香が口に含んだお茶を吹き出す。
「ゲホッ ゴホッ それは京ちゃん説明しなさい、ね?」
京は面倒くさそうに、大きな溜息をつく。
「口で言ってもアレだから、後でコイツを連れてくわ」
連れてくって、一体どこへ…?
食事の後片付けを終え、茶の間を簡単に掃除した後、悠人はこの家に来て初めて家の外に出た。改めて京の家を眺め返る。平家建ての古い木造でトタン屋根がなんだか懐かしさを醸し出している。
庭先に作業場の様な蔵があり、中に釣竿や網などの漁業関係の道具が所狭しと並べられている。
家の前には車一台分の細い砂利道があり、その道の両側にそれぞれ古びた家が立ち並んでいる。京の家の隣が香の家だろうか、二階建てのしっかりとした造りである。その正面に平家建ての京の家によく似た造りの家があり、その奥の並びに二階建ての立派な家が見て取れる。それぞれさっき香が言っていた鳥山家、小畑家であろうか。
その奥の家から、ガッチリとした体型の二十代後半くらいの男性がこちらに歩いて来る。
「おー、昨日はサンキューな、シンタ!」
隣で京が大声で話しかける。その男は更に近づき悠人の前に立ちはだかり、
「もう大丈夫なのか?」
と顔に似合わない野太い声で悠人に話しかける。
「え、ええ。もう、大丈夫、です」
悠人より十センチほど背が高く、目の前の大胸筋がはち切れそうな程の体付きだ。無精髭をいっぱいに生やし、眼光の鋭いそのシンタと呼ばれる男は悠人を一瞥し、
「それなら良かった。」
と呟く。京が、
「昨日、アンタをウチまで担いでくれたんだぞ、お礼ぐらい言っとけ」
悠人はハッとして、
「あ、あの、有り難うございました、お陰で助かりましたっ」
と慌てて頭を下げる。
シンタは軽く首を振り、京に片手を上げてクルリと背を向けて戻って行った。
悠人は京の耳元で、
「あの人が、小畑さん?」
「うんそう。初江さんを手伝って畑耕してんの。」
「なんか、凄い迫力というかオーラのある人だな」
「昔自衛隊にいたからな。いっぱい人殺したらしいぞ」
「まさか。自衛官は人殺しなんて絶対しないよ。そんな事件起きたら世間がひっくり返るよ」
「それはニュースにならないだけ。シンタはつえーぞ。ぜってーケンカ売るなよ」
京が気味悪い声でヒッヒッヒと笑いながら歩き出す。
砂利道を小畑家とは逆に進む。両側は雑木林に覆われて、成る程夜では辺りは真っ暗で歩くのも苦労しそうである。街灯は皆無、電信柱すら目に入らない。
その雑木林は小高い山に続いており、その山と山の谷間の集落なのだとようやく分かる。そんな思いを察するかのように京が、
「この道を登っていくと、シンタの畑とカオちゃんとこの田圃があるんだよ。あと、琴音さんとこのニワトリはさ、あのお家の裏庭で放し飼いになってんだよ。帰りに卵もらってこーぜ」
悠人は惰性で頷き、京の後を追った。
濡れた革靴は履けたモノではなく、京の祖父のモノだった運動靴を借りて履いている。悠人は身長百七十センチ、足のサイズは二五。たまたまサイズがピッタリで、見た目は最悪だが妙に履き心地が良く足が良く進む。
不意に京が振り返り悠人をまじまじと見て、
「なんかじーちゃんが生き返ったみたい。面白い!」
と言って吹き出す。
おい、こら。
自分の祖父とそっくりとはちょっと失礼だぞ。それに俺の顔は写真で見た京の祖父の顔と全く違うし。
「顔立ちじゃなくって。その作務衣に運動靴。キャハ、歩き方もちょっと似てるし」
そう言って悠人の横に来て、突然腕を取って歩き出す。
女性と付き合ったことのない男子が女性にされて動揺するランキングの最上位に位置する、『腕組歩き』。悠人の額から大粒の汗が零れ落ちる。
冗談ではない。彼女は亡くなった祖父のつもりで絡まっているのだろうが、俺は俺だ。キミのお爺さんではない。綿積悠人だ。
曇り空のせいか昨日よりも風を冷たく感じていたのだが、今は全身に汗をかく程に心も体も熱くなっている。
その冷たい風が隣の京の香りを悠人の鼻腔に触れさせる。悠人の心は更に熱くなり、忘れかけていた後頭部の痛みがぶり返してきた。
心が、熱い。燃える程に、熱い。
生まれてこの方初めての感覚に大いに戸惑う悠人である。
砂利道が二股に分かれ、その一方を進む。周りの樹々は密集さを増し、道の傾斜から山を登っているのが分かる。
しばらく歩いてからふと振り返ると、眼下に恵比須の青い海と磯が眺められ、悠人は思わず声をあげる。
「うわっ すっげー!」
京は立ち止まり、
「もっと上まで行けば、もっとキレイだよ」
「で、俺たち、どこに行くの? この山の頂上?」
「違うし。あとちょいだから、ついてきて」
それからまた道が二股に分かれ、一方は頂上へ行く道、もう一方はちょっと降る道であり、京はその降る道を先導して行く。
二、三分歩くと、樹々の中に突如小さな寺が出現する。造りは古く苔むしており、とても一介の観光客が訪れるような社では無い。やや新しい石の柱に、海音寺、と見難い文字で書いてある。
その寺の裏に小さな平屋建ての家があり、どうやらそこが目的地だった様だ。
「ミミョーばーちゃん! 京だよー」
そう言いながら、京はその家の扉を開けて家の中に入っていった。
* * * * * *
ミミョー婆さんの家は樹々に囲まれて暗くじめっとした感じなのだが、中に入ると線香の匂いが心地よく不思議と穏やかな気持ちになっていく。
靴を脱ぎ京に続いて廊下を進むと、茶の間の縁側の座卓に一人の老婆が座っていた。
「京ちゃんかい? いらっしゃい。よく来たね」
「えへへ、久しぶりっ 元気だった?」
「ああ元気だよ、そうだ京ちゃん、お茶を淹れてくれないか、その人の分も」
「はいよっ ちょっと待ってねー」
おい。俺を置いて行く気か?
たちまち居心地悪くなった悠人に、
「あんたかい、よく来たね」
と老婆は優しく語りかける。総白髪を後ろで束ね、皺だらけの小さな顔の老婆はどうやら全盲らしい。悠人を見ずに縁側から見える樹々を眺めながら穏やかな声で、
「さっそく海にでも出たのかい、あんたから潮の匂いが漂ってくるよ」
悠人はちょっとはにかみながら、
「昨日の夕方に磯で足を滑らせて頭を打って気を失っていたんです。その時に水に浸かっちゃって」
「おやおや。それはあの子はたいそう驚いただろうに」
「ああ、京ちゃんですか。そうじゃないでしょうか、きっと」
「ふふふ。あの子のびっくりした顔が見たかったよ」
そう言って老婆はクシャクシャの笑顔を樹々に向ける。
「もう良くなったのかい?」
「ええお陰様で大分良くなりました。まだ大きなたんこぶはありますが」
「ほっほっほ。そっちもそうなんだけど。心のケガ、の方だよ?」
悠人はギョッとした顔で、
「心の、怪我、ですか?」
「うん。心の、ケガ。」
「よく、わかりました、ね……」
「歳を重ねると、色んなことが分かるようになるんじゃよ。目は見えんけどな、色んなもんが見えるようになるんじゃよ」
いつもの悠人ならば疑いの目を差し伸べたに違いない。だが今の悠人はその言葉を驚く程素直に受け止めて、
「そっか。俺の心の怪我、見えますか?」
「血は止まった様じゃな。あとは傷が塞がるのをじっくりと待つ事じゃ。」
「出血、してましたか……」
「ああ。それにしても、遅かったのお。」
「は? 何がですか?」
「ここに、恵比須に来るのが。京の所に、来るのが。」
「遅かったって、どういう事ですか?」
「あんたが、傷を背負って、恵比須に来るのが。もっと早く来ると思っとったわい」
老婆はきゃははと笑う。
どういう事だ? ここに? 来る? 俺が?
「そうじゃ。あんたが、ここに、来る。そう夢に出たんじゃよ。」
お茶を持ってきた京が割と神妙な顔つきで、
「ミミョー婆ちゃんはさ、毎年見る初夢を正月の三ヶ日にこの辺の人達にお告げすんの。それが又よく当たるんだわー昔から。そんで今年の三ヶ日。婆ちゃんが言うにはー」
(傷つきし海神が海より現れ その傷を癒せしのち幸福を振りまかん)
海神? ワタツミ? へ?
「そ。だからアンタ誰って聞いて答えた時、アタシとカオちゃんはぶっ飛んだの。だって婆ちゃんのお告げそのもんじゃん、アンタ。」
綿積という苗字が海神と同音なのは知っていた。だが生まれ育ちは山間部だしこれまでに海に関係のない生活を送ってきたので、悠人にはさっぱり理解できなかった。
「海の神様。それがアンタなんだってさ、婆ちゃんいわく。だからアンタは『神様』なの。分かった?」
何その、AはB故にBはAなり、みたいな説明。悠人は未だに納得が行かない。
「で、昨日夕方、磯にシジミ採りに行ったらさ、人が怪我して倒れてんじゃん。名前聞いたら海神じゃん。まさに、(傷つきし海神)じゃん。お告げそのもんでしょ?」
うーーーーーむ。
悠人は深く太く唸る。ミミョー(美妙)さんのお告げ。確かにそれは俺に一致する。するのだがー
悠人はハッとする。先ほど美妙さんは言った、「心の怪我は大丈夫かい」と。就活で深く傷いた俺の、心の傷。すると美妙さんは心に傷を負ったワタツミという人間がこの地に現れることを予知していたと言うのか!
そして。その傷をこの地で癒やし、その後何らかのお返しをする事になると言うのか? 幸福を振りまく、とはそう言う事であろう、悠人は呆然と老婆を見つめるしか無かった。
「さっき血は止まったと言うたが。傷はまだまだ癒えておらんよ。ゆっくりこの地で治していきなされ。そしてー」
老婆らしからぬ、恥じらいを含む笑顔を樹々に向けた。
その隣で美妙さんの肩を揉みながら京がうんうんと頷いていた。
* * * * * *
美妙さんのお宅で簡単な昼食をご馳走になり、お宅を出た後
「山の上まで行ってみっか?」
と言うこととなり、二人は十五分ほど山道を登り、頂上に辿り着いた。
山頂からの景色を見て、悠人は絶句した。
眼下の恵比須の海の何と青いことだろう。左手には遠く横須賀、更に横浜が伸びている。右手には城ヶ島がポツリと突き出ており、その先には水平線しか見えない太平洋が広がっている。
季節はまだ紅葉には少し早く、樹々は色づき始めて間もない感じだ。だがその豊かな自然と広大な海との景色が、心を確実に癒しているのに悠人は気付いている。
だが……
「でも。俺、そろそろ帰らなきゃ」
バイトもある。大学の授業もある。親に連絡を入れ、地元の就職先の相談にも乗って貰わねばならない。
京はその言葉に眉を顰め、
「え? 帰るって、どこに?」
「東京に。住んでいる県人会の寮に。」
慌てた素振りで京は、
「え、でも婆ちゃんはケガ治るまでずっとここにいるって?」
「それは、美妙さんのお告げではそうだけど。現実的にはもう帰らないと…」
「でも、ケガ治って、ないんでしょ?」
「それは… そうだけど…」
「嫌だよ」
小さくうめく様な声を絞らせて、
「ダメだよお、ここにいなくちゃ、恵比須にいなくちゃあ!」
悠人の生真面目さが京の想いを断つ。
「それは出来ない。夕方にはここを出て、コインロッカーの鞄を拾って東京に帰らないと。」
毅然とした悠人の物言いに、京はそれ以上言葉をつげなくなってしまう。
山頂の無言の二人に海から駆け上がってきた冷たい風が切なく吹き巻いている。
「えええー、ホントに帰っちゃうの? 明日には戻ってくるんでしょ? ね?」
香が驚きと悲しみの表情で悠人に訴えるも、
「本当にお世話になりました。落ち着いたら一回挨拶に来ますので。」
悠人は就活風に脇を締め両手先をピンと伸ばし、四十五度の角度で頭を下げる。
就活スーツはクシャクシャながらも乾いており、就活靴も問題なく履けて歩けそうだ。
心残りは磯に置いてきたであろうスマホ。そして……
「京ちゃん。本当にお世話になった。君が来てくれなかったら俺は死んでいただろう。君は命の恩人だよ。一生忘れないから。有難う。」
まるで別れる恋人への言葉のような挨拶に、京は何も返事をせず悠人の顔も見ず。
二人の後ろで様子を伺っている集落の人々に悠人は頭を下げ、最後に二人に
「じゃ、また。」
と言い、砂利道を県道に向けて歩き出した。
スマホが無いのでマップ機能が使えず、来た時とは違う県道沿いの大回りのコースを徒歩で三崎口駅まで向かう。
バスが通っている様だが、バス停の時刻表によると生憎時間が合わず歩いた方が早いので、悠人は大きな溜息一つついてから歩き出した。
宮川港という所まで来た時に、そう言えば定期をスマホに入れていたことを思い出し、同時にSuicaも使えないことにも気付き、大きく肩を落とす。
来た時には殆ど下り坂だった故に、駅に向かう道は概ね上り坂である。徐々に重くなっていく足を引き摺りながら、やはりバスを待てばよかったかと軽く後悔する。
それでも歩き続けるうちに大きな県道に出ると同時に、景色が一変して市街地の雰囲気が漂ってくる。
丸一日、居ただけなのに。
何故に、あの緑に囲まれた潮の香りの漂う集落が懐かしく感じるのだろう。
そんな郷愁を振り払い、更に足を街に向け進める。
街の匂い。解されていた心が固くなっていくのを感じる。
県道はやがて国道に合流し、昨日見た景色が逆向きに広がっている。もう駅までは十分程であろう、長かった一日が間もなく終わる。
昨日右手に見えたワークウエアショップが左手に見える。悠人は急に、昨日までの現実社会、即ち就活に敗れ去った惨めな自分の姿をショップに重ね合わせた。昨日までの自分、を。
牛丼のチェーン店が左手に見えてくる。昨日は何気なく見たのだが今日はその存在が重苦しく感じてしまう。
もう駅は、目と鼻の先である。
駅に到着し、大きな溜息を吐いたあと。悠人はコインロッカーから就活鞄を取り出す。そしてその場で中身を見、一冊の書類を取り出す。
俺をズタボロにした会社のパンフレット。
(来年さあ、もう一回よおーく就活の勉強し直してから、おいでよ。今回は残念ですがご縁がなかったと言うことで。)
悠人の頭に、鮮明にあの管理職の暴言が蘇る。手の震えが止まらなくなる。パンフレットに大きな水滴が一粒、また一粒落ちていく。
道ゆく人々が悠人を振り返り心配そうに首を傾げる。悠人は肩を震わせパンフレットを握りしめ立ち尽くしている。
俺は、この先、一体どうすれば……
どれ程時間が経っただろう。不意に悠人の脳裏に老婆の言葉が優しく響いてくるー
(傷が塞がるのをじっくりと待つ事じゃ)
俺の、この心の傷。このまま東京に帰って治るのでしょうか?
(ゆっくりこの地で治していきなされ。)
そうしたいのは山々なのです。でも俺には、待ってる人ややらなきゃいけないことが……
(ダメだよお、ここにいなくちゃ!)
京の叫び声が頭中に響き渡る!
俺を誰が待ってるって?
俺がやらなきゃいけない事って、何?
そんな事より、今俺は、途轍もなく大事なものを失おうとしてはいないか?
悠人は鞄とパンフレットを駅前のゴミ箱に捨て、駅前の公衆電話からバイト先に連絡を入れ、何度も頭を下げてから受話器を置いた。
大丈夫。道は覚えている。
右手の牛丼店はよく世話になったなあ。今度いつ来れるのかな。口の中に脂っこい牛の味が広がっていく。
ワークウエアショップに入り、下着と普段着と動きやすそうな靴を買い求め、試着室でそれらに着替えて身につけていた就活ウエアは全て廃棄してもらった。あ、ネクタイだけは作業着のポケットに捻り込んだ。
店を出る頃には辺りはすっかり暗くなっている、どんだけ服選びに時間をかけたのだろう。そんな自分にプッと吹き出しつつ、国道から県道に入り昨日の記憶通りの道筋を足取り軽く進んで行く。
途中バスが悠人を追い越して行く。が、悠人は気にしない。もう今は恵比須の浜近くのあの集落の事、そして京のことで頭の中ははち切れそうなのだ。
歩くのがもどかしく、小走りになる。昨日と違い、動き易い。顔は自然と綻んでいき、すれ違う地元民は作業着姿で若い男が笑いながら小走りする事案を通報するか否か迷っている。
「昨日もよ、農道を怪しいスーツ姿の男がキョロキョロしながら歩いてたって言うし。治安悪くなったのかねえ」