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悪魔


「っ、うぇ……」


 路地裏の壁に手を付き、アスモデウスは吐き気を抑えるように、口元に手をやった。

 あの小さな宿屋。

 向けられた殺意。

 対抗する術は、あった。

 あってしまった。

 アスモデウスはそれを行使した。してしまった。

 怯えた表情で殺意を向ける魔物たちを皆殺しにして、アスモデウスは僕の手を引いた。

 昔馴染みだという女性の魔物も、関係なく、血を流し、果てた。

 凄惨な光景だったと思う。けれど、僕の心は少しも動かなかった。


「どうして……」


 どうして、とアスモデウスは絞り出すように呟く。

 どうして、あの頃は仲良くしていたのに。

 どうして、自分が殺意を向けられなければならないのか。

 どうして、どうして、とアスモデウスは繰り返す。


 十年。

 僕にとっては一生にも等しい年月。

 それはきっと、人間だけでなく、魔物を変えてしまうのに、十分な時間。

 何かがあったのだ。

 その、何か、はわからないけど。

 きっと、何かが。

 かつての仲間が、そんなことをしてしまう程に。


「これからどうするの?」

「知らない」


 壁に背を預けて、蹲ったアスモデウスには僕を引っ張っていった時のような鮮烈さはない。何てことはなかった。ただ物凄い力があるというだけで、僕と同じだったのだ。

 

「行こうよ」

「行けない」

「……ちぇっ」


 僕は思ってた。

 復讐するに足る力を持った存在なのだと、僕を救って、導いてくれる存在なのだと。けれどそんなことはなかった。彼女はそんな存在ではなかった。


「じゃあ、喰うね」

「勝手にすれば」

「うん」


 まるで何もかもがどうでもいいとでも言うように。アスモデウスは僕に手を差し出した。

 こんな弱っちいの、望んでない。

 なら、僕の糧になって。


 僕は彼女の手を取った。









「さて、どうしよう」


 僕は途方に暮れた。

 案内人もいなくなったし、これからどうしよう。目的地はわかっている。力も、足りないかもしれないけど、ある。けど手段がない。そこに到達する為の、手段が。


「まぁ、いっか」


 難しいことを考えるのは止めだ。

 せっかく外に出て、解放されて自由になったのだから、一人で歩き回ってみよう。


「よし!」


 気合を入れて、僕は一歩を踏み出した。


「――きゃっ!?」

「っと」


 踏み出した瞬間、何かとぶつかった。

 思わずよろけるが、僕でも耐えられるくらいに力が弱い。


「大丈夫?」


 僕はそのぶつかったものに対して手を差し出した。

 へたり込んで、お尻を痛そうに擦っているのは、小さな女の子だ。紫色の髪の毛に褐色の肌は、僕の周りでは見たことはない。

 そして何より目立つのは、背中に広がるコウモリのような羽。アスモデウスが度々出していたものとよく似ている。

 僕が見ていることに気が付くと、慌てたように、背中を擦り、それを引っ込めた。


「えとえと……み、見ました……?」

「羽?」

「――ッ!? ち、違います! 私、悪魔じゃないです!!」


 と、言われても。


「だ、駄目です! 駄目です! ――――っひ! ぜ、絶対に言わないで下さぁい!!」


 少女は何かに気が付くと、僕を押し退けて近くのゴミ箱の中に飛び込んだ。本当になりふり構って居られないようだった。

 彼女が飛び込むと同時に、こちらに近づいてくる靴音が聞こえた。

 ごつごつとした足音は重く、重厚だ。

 相手に恐怖を与えるように、特化した音だ。

 そして、路地の入口から、ぬう、とそいつは姿を現した。


 黒。

 そう表現するのが正しいのかもしれない。

 漆黒のコートに漆黒のフード。表情は見えない。正体もよくわからない。


「坊主……ここいらで悪魔を見なかったか?」

「見てない」

「……そうか。坊主、お前、嘘吐いてないだろうな?」

「吐いてないよ」

 

 僕の経験、生まれてからこれまで、人を信用したことは一度もない。 

 だからこういう時に嘘を吐くのは得意だった。


 心を乱すことなく、僕は嘘を重ねる。


「そうか」


 じっと僕の目を見て、男はそう呟いた。

 踵を返し、男は去っていく。


 その後ろ姿を見送って、僕は安堵のため息を吐いた。


「で、君は誰なの?」


 僕はゴミ箱を見詰め呟いた。

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