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6.

 そして……その時は訪れた。


 着地と同時に凄まじい破砕音と砂埃が上がり、周囲に濛々と立ち込める。

 次第に晴れて行く煙の中心に、ハンス・エーヴァルトが居た。

 脚を伸ばして力を地面へ逃し、左手を支えにして屈んでいる。

 彼の立つ大地は罅割れ、ささくれ立っていたが、自身は怪我一つ無い。

「……ここか」

 僅かにずれたサングラスを上げ立ち上がると、ハンスは周囲を見渡した。ホリィ・ウェイトリィによって強化された体は、薄暗い竪穴の中でも容易に物を見通す事が出る。

 そこで初めて気付いたのだが、最深部には横穴が存在した。どうも囚人用の寄宿舎だったらしい建物の残骸を穿って、見通せぬ程深く進んでいる。広さも相当だ。そして何より驚いた事に電線が走っている。点々と、二メートル間隔で付けられた照明は簡単なものであり、薄ぼんやりとした光を上げている中で、どちらかというと摩滅している時間の方が長かった。それでも無いよりかは遥かに良いし、それに、そこにはまた別の意味が宿っている。どの様な形であれ明かりがあり、また電気が通っている。という事はやはり、

《嗚呼来ちゃったのかい、あんた》

 横穴の奥から掠れた女の声が響いたのは、その時だった。

 彼の高鳴る心臓が、一層強い音色を奏でる。

《ちゃんと警告したんだがね、無駄だったみたいだ……馬鹿な奴》

 主とは相当距離が離れているのか、ここまで届くまでの間に随分反響し、膨れた声になっている。姿は見えない。秩序だった小さな照明の元、闇が轟いているだけだ。

 声が聞こえる度に、ハンスの胸のボリュームは一段ずつ上がって行く。

 落ち着けと念じ、左手を握り締めるが、一向に効果は無い。

 声を聞くのは始めてでは無いが、録音と肉声では印象が違い過ぎる。

「……私を知っているのか……イルザ、イルザ・ヴォルフ……そうだろう?」

 逸る気持ちを抑えながら、ハンスは横穴の奥を睨んだ。

 まだ姿は見えてない。暗闇だけがそこにある。

 その中で、かんらかんらと聞くだけならば陽気で、軽快な笑い声が轟いた。

《嗚呼そうだよ、あたしを倒しに来た狩人、馬鹿で死にたがりの狩人。さっきジョージ・翁が伝えて来たのさ、また一人、私に殺される輩がやってきたとね》

「……」

 ハンスは視線そのままに、先程出逢った老人の事を思い出した。成る程、やけに馴れ馴れしく接してくると思ったら、繋がっていた訳だ。噂の協力者というのも彼かもしれない。

 だが、今更そんな事を知った所で何になるだろうか。

 やる事は変わらないのだ。依然変わり無く。

「……そうだ、狼。私はお前を倒しに来た狩人……ハンス・エーヴァルトだ」

 彼はそう名乗ると、すっと構えを取った。体重を後ろへ掛けながら、左腕を引いて行く。

《聞いた事の無い名前だねぇ、新入りかい? わざわざあたしを狙うだなんてねぇ》

 対する彼女は、先程同様、余裕の態度だ。

 ハンスの眉間に皺が寄り、右腕が軋む。

 こいつは知らない、いや知ろうともしていない。

 自分が狩人である事以外の事を。

 何故自分がここに居て、狼を屠ろうとしているのかを。

 指が鳴った。五本のそれを余りに強く握り締めたが為に。

《ま、どうでもいいか……結局やる事は変わり無いんだからさ》

「……」

 それはこちらの台詞だとハンスは思ったが、しかし何も言わず、ただ力を込める。

 唯一残った左腕に、失ったもう一本の力を宿す様に極限まで、体を捻り、絞りながら。

 びきりと、月の地に亀裂が走った。

《嗚呼これは……これは、全力で挑んだ方がいいね……》

 イルザの声がここに来て成りを潜め出す。彼女も彼が如何なる者かに気付いた様だ。老人から情報を伝えて貰っていないのか、或いは聞いていても信じていなかったのか。恐らく、後者だとは思うが、

《一度踏み込んだんだ、逃がしゃしないよ……危険は絶って置かなくちゃねぇ……》

 そのいずれにしろ、イルザの雰囲気が変わった。

 声が止み、変わりに奇妙な音が横穴から響き始める。それは骨が鳴り、体が軋む音に近かったけれど、それだけでは形容出来ない。流動的な何かが蠢き、固体を砕きながら溶け込ませて行く。岩礁か流氷を思わす音だ。生物が立てるものでは無い。

 それに合わせて場の空気も変わって行く。

 異様な程弛緩したものから、極度の緊張を孕んだものへ。

 爪先から頭の天辺まで、全身の細胞が総毛立ち、泡立つ様な不快な感覚をハンスは感じた。機械仕掛けとは言え、機械そのものではない生まれながらの体だからこそ解った。

 来る、と。

 そして事実その通りの事が起きた。

 敵が来た。

 時間も空間も超越したかの様な凄まじい勢いで。

 狼は狩人の目の前に姿を現した。

 そこから接触の間に、殆ど時は流れなかったであろう。

 だが鍛え上げられたハンスの眼は、イルザの姿を仔細に捉えた。

 全長五メートルを超える巨躯を覆う白銀の毛並みは恐ろしい程美しく、血走った瞳は燃え立つ緋色。その滑らかに伸びた四肢の一つ一つは人間よりも長く太く、先端に伸びる爪は短剣の様に黒く鋭く尖っている。自身の体と殆ど同じ長さを誇る尻尾が鞭の様にしなって大地を打ち鳴らせば、それよりも尚高らかに足音を上げ、走り寄る姿は銀の風そのもの。そして牙。何人もの餌食を貪って来ただろう牙は、どす黒く汚れ、滝の様な唾を迸らせながら、確かに刻まれた笑みの中でぎらりと光り、輝いている。

 かつては殆ど解らなかった事実を、今のハンスは一瞬でそう理解した。

 成る程これは確かに怪物だ、と。

 そして牙が今や自分に触れようとするその時も、今度の彼は動く事が出来た。

 全体重を掛けて左足を前に突き出しながら、ハンスは迫る巨体の真正面へと腕を放つ。

 筋肉の動きを正確に、存分に力が乗る様動かせば。

 拳は大気を突き破り、音を超えて、肉に触れた。

 風が爆ぜた。

 衝撃の波が上がり、ハンスは背後の壁に向けて吹き飛んで行く。

 イルザの巨体を対岸の壁にまで吹き飛ばしながら。

 大地に両脚を付けてブレーキと成し、どうにか壁にぶつかる直前で停止した彼は見る。

 何が起きたのか理解出来ていない様な顔で、きりもみながら壁へとぶつかる狼の姿を。都市の瓦礫が降り注いできても何もせず、なるがままでいる彼女を。

 イルザから眼を離す事無く、ゆっくりと身を起こしたハンスは、そっと左腕を伸ばした。

 サングラス越しの灰眼を煌かせつつ中指を立て、軽く前後させる。

 イルザの赤眼はその動作を確かに見た。驚きに開き、怒りに細める。

 瓦礫を四方へ吹き飛ばしながら、巨体が跳んだ。

 前足を構え、爪を立てながら。

 ハンスなどすっぽりと収まってしまう様な大顎を広げて。

 対する彼は何もしない。

 もとい、出来なかったというのが正解か。自分の何倍もある存在をふっ飛ばす程の力、それは自身へも当然の様に返って来る。ハンスの左腕の筋は幾つか切れており、全力で修復されているけれど、今はまだまともに動かせない。何も考えずに正面からぶん殴ったのである、傷付いて当然だ。だが、それで良い。

 再び迫り来るイルザにくっと笑みを見せると、彼は叫んだ。

「『貪り喰らう者(グレイプニル)』!」

 途端、彼の体から何かが飛び出す。

 コートの後ろ、流れる裾を抜けて現れたのは、幾何学的な形状を持つ機械だった。小さな人工衛星の様な形に手を思わせる意匠があり、重力操作部の前面に三つの爪とそれに囲まれる様に青いレンズが収まっている。

 グレイプニルと呼ばれたその機械は、まる見えない糸か腕にでも操られている様に、瞬時にハンスの目の前へと移動すると、この時にも喰らい付かんとするイルザに向けてレンズを向けた。上と左右に向けて爪が開き、眼の様にレンズが青く煌く。

 雷鳴が上がった。

 イルザの体が止まる。

 中空で、体から煙を、口から咆哮を上げながら。

 三つの爪から電流が迸り、彼女を覆って、いや巻き付いていた。最早雷と言った方が適切な勢いを持って青白い電気の蛇はのたうち、蛭の如く絡み付き、檻の様に拘束している。

 左腕の中で筋繊維が繋がる音を感じながら、自らの今は無き右腕の付け根に埋め込まれた発信機によって遠隔操縦されるその機械と敵の姿を見、ハンスの顔に笑みが浮かぶ。


 雷を武器とする事を彼が考えたのは、月に始めて来たその時の事だった。

 ハンスが強盗二人に容易に襲われ、倒れたのは、確かにマーニに対する認識の甘さが大きい所であったけれども、もう一つ、自身が地上で受けて来た、今思えば余りに簡易な改造手術の所為でも多分にあった。

 妻が死んでから月へ行くまでの二ヶ月間、彼は狩人として必要な資格の申請を出すと共に、地上で合法的に執り行われている各種手術を敢行した。勿論あくまで代用としてだ。評判が大変宜しくない月の都へ行くというのに、生身では心許無いという理由である。身体的にハンデを負っているならば尚更だ。

 そうして相応の力を得たハンスだったが、結果は御覧の通りだ。改造されていたから暫くして起き上がる事も出来たけれど、そうで無ければ意識も失っていた。

 如何に強かろうと、地球上の生物であるならば、天の力が効かぬ事は無い。

 身を持ってそれを実感したハンスがホリィに入手を頼み、そして渡されたのは、侵入者に対して放電し、その身動きを封じるという対人用の自動兵器である。ただし、相手の事も考慮した結果、出力は限界まで上げられ、電圧の上限も著しく向上されている。常人であれば一瞬で黒焦げとなるレベルだ。対人用というよりも最早対怪物用である。


 だが、それでも彼女は倒れない。

 眼も焼けんばかりの電流を浴び苦悶の声を上げて震えながらも、イルザは生きていた。

 しぶとくもまだ。妬ましくもまだ。

 ハンスは笑みを消すと、右手を通してグレイプニルの出力を上げた。小型化されてはいるが威力は相当だし、電源もたっぷり残っている。このまま放電し続けられるだろう。

 変わる事の無い勢いを持って、雷はカメラレンズが捉えた対象へと、三つの爪から放たれている。自身はこれを喰らわぬ様な衣服を身に付けているとは言え、サングラス越しに見ているだけでもその凄さが伝わってくる。同時に毛が焦げ、肉が焼ける。違法改造ここに極まる、凄まじい放電ぶりだ。

 その中で苦しげに呻き続ける巨狼の姿は情け無いものであり、消した笑みも再び浮かんでくる。相手がこちらを侮り、突撃して来る事は見越していた。こちらが片腕だと思って、ただの餌食である狩人と考えて。今までの彼女の行動から、それは容易に判別出来た。だからこそ、簡単に嵌める事も出来た訳だ。今頃その小さな脳髄は苦痛と驚愕に震えているだろう。何が起きたのか半ば理解出来ぬままに、カヤ達がそうだった様に。

 イルザの大顎が開かれ、叫び声が、悲鳴が上がった。ぐぐっと体に力を込めている様だけれど、入り切れておらず、進めはしない。ハンスは笑った、何と無駄な足掻きだ、と。

 だがそこで彼は気付く。

 自分は一体何秒、何分の雷を放っているのだろうか。

 それ程長い時間は経っていないのは確かだが、しかし短いからと言って無事という筈は無い。実際奴は苦しんでいるけれど、苦しんでいるという事はそれだけの余裕があるという事、まだ生きているという事、死んではいないという事だ。

 最初に受けた、全身の細胞がざわつく様な感覚が再び沸き起こった。まさか、と完全に微笑を締めながら、見えざる右腕によってハンスはグレイプニルの出力を上げる。

 最大の一歩手前だ。

 これ以上はエネルギー消費の激しさも加え、機械が持たない。

 青白い雷は更に白く染まり太く拡がり、巨狼の咆哮が上がった。

 上がり、上がり続け、止む事が無い。

 ハンスの額から一筋の汗が垂れた。

 何という生命力か。

 在り得ない事だがイルザの身は耐えているのだ、この豪雷から。

 絶える事無く耐え続け、今にも抜け出そうと身を悶えさせている。

 彼は苦痛と憤怒に細められた紅い視線を感じた。

 気付いた時には緋色の瞳が目の前にあった。

 行き成りの事だったが、体は反応した。身を翻すと、横へと転がる。

 先程まで居た所にイルザの顔が突き出した。開かれた顎を鋭く閉ざしながら。

 二回、三回と転がった後で起き上がったハンスの眼に、グレイプニルの雷を突破した狼の姿が飛び込む。直ぐにまた対象を指定し、電流を放つが、彼女は背後より来るそれを振り解いて、巨大な爪と牙を振り翳しながら幾度も幾度も襲い来る。その度にハンスは何度も何度も後方へと跳び、距離を離そうとするけれど、彼我の差は埋まったままだ。

 歯を噛み締めながら、彼は左手を振うと、袖の中からオライオンを取り出す。グレイプニルが突破された時の為に一応の用心として持って来ていたのだ。まさかその危惧が現実のものになるとは思っていなかったけれど、ハンスは下がりながら迫り来る狼の紅眼へと電磁銃(レールガン)の狙いを定める。この巨体だ。予備武器(サイドアーム)の拳銃如きの威力ではろくな効果も無く、ならば急所に当てる事で威を制しようという算段である。

 ハンスは引鉄を引いた。バッテリーの為に、全長に対して著しく肥大化した銀の銃身は、その名が示す様に高速の矢を撃ち放つ。距離は至近にして、外す事は無く、矢は命中した。イルザの瞳から一筋の血が迸り、片目を襲う痛みが叫びを促す。

 ただ、それだけだった。

 狼はその脚を留める事無く大地を踏み鳴らし、続け様に撃ち込まれるハンスの弾丸を無視しながら、壁に背をつけ、遂に逃げ場を失った狩人の身へと一気に跳び掛かった。

 今度は避けきれない。

 そうするには、余りに遅過ぎた。

 凄まじい圧力が体に圧し掛かり、ハンスは眼を見開くと同時に吐血する。

 胸部を中心とする全身の骨が軋み、肉が裂けた。

 押し込まれた壁には亀裂が走り、窪みが穿たれる。

 人の手によって創り変えられている彼の身はまだ動いてこそいたけれど、被害は甚大だ。

 まるで破城槌をそのまま喰らった様。

 自身の前面を完全に覆う前脚の裏から逃れようと、ハンスは身悶えする。

 左腕を伸ばし銃を、右腕を操りグレイプニルを向けようと。

 だが、彼女の方が先に動いた。

 咆哮と共にイルザは走り始める。

 片足でハンスを踏みながら、残りの三本で壁を蹴って。

 その身を幾多の建造物の外壁ごと摩り潰すが為に。

 巨狼は竪穴の内壁を、何十年何百年と無節操に積み重ねられてきた建物の層を、螺旋状に廻りながら駆け上げって行く。コンクリートは豪快に抉れて通って来た痕を刻み、突き出た鉄骨や硝子の破片が狩人の体を裂いては地面へと落ちた。

 猛烈な痛みと熱が背後と頭に走り、重低全て綯い交ぜとなった破砕音が響き、イルザの荒々しい呼気が耳に当たる中、ハンスは断続的な悲鳴を上げた。

 傷付いた肉体は直ぐに元へ戻ろうと細胞をフル稼働させ、煙が立ち昇るけれど、治った矢先に傷が付けられては意味も無い。

 一際大きな破片によってサングラスが飛ばされれば歪んだ顔が露となり、余程の電気、熱であっても溶けず破れないコートが、衝撃も加わった事で盛大に割けた。

 その下に着ている上着はあっと言う間に布着れとなり、燃え屑となって消えて行く。

 大気との摩擦で燃え尽きる隕石の様に削られて行く中で、ハンスは、と叫んだ。

 それは言葉にならず、ただの吐息にしか過ぎなかったが、それでも彼は叫んでいた。

 この想像の範疇を超えた敵に。

 それが与える激痛に、そして宇宙の無情と言えるものに、理不尽に。

 彼は妻の為にここまで来た。呆気無く、手を伸ばすも届く暇も無く狼に奪われた彼女の敵を討つ為に、地上で身を鍛え、天への階段を昇って宇宙まで、月までやって来た。誰に何と言われ、止められても、船に乗り込み月都市を訪れ、そこで協力者と、同胞と出会い、更なる磨きを上げ、ようやくの末に狼の敵まで辿り付いたのである。

 そうして挑んで見れば、結果はこの有様。

 一度は追い詰めたかに見えたけれど、だが覆され、そうして今ハンスは死のうとしている。殺されようとしている。一思いにやればいいものを未だに舐めているのか、過剰に警戒してかは知らないが、こんな命を弄ぶ様な方法で持って、無残に磨り潰された挙句に。

 そうだ、そうして私は成す術も無く死ぬのだ。

 何も解らぬ間に死に果て、冷たい屍となってしまったカヤの様に。

 或いは。

 在りし日の殆どを忘却し、本来とは違う体で彷徨うテレスの様に。

 ハンスは死ぬのだ。

 必死に駆けたその挙句に、いとも容易く事切れる。そういう運命だったのか。

 ……だが本当に?

 本当にそれで良いというのだろうか?

 そんな勝手が許されていいのだろうか?

 いや、違う。

 彼は閉じ掛けていた眼を開いた。

 右腕が今まで以上に軋みを上げる。

 失い掛けていた意識が自問に向けて、はっきり否と叫んだ。

 そんな事は断じて許さない。

 そもそも、許さないからこそ、この場に居るのでは無いか。

 ハンスはオライオンを手放した。

 開いた指で、今や動く大地と化した壁に手を掛けんとする。

 だが突起に触れても脆く崩れるか、呆気無く去ってしまう。

 グローブの先が摩擦熱で破れ、白い指が晒され、それもまた赤くなって行く。

 まだ足りないのだ。

 こいつを跳ね除けるには、まだ足りない。

 彼は腕だけで無く、ただ流れるに任せていた両脚を曲げると、踵を押し付ける。

 三本の支えを軸に押される体を少しでも仰け反らせ、拘束を緩めようとする。

 けれども、それだって脚を僅かに外に出し、背中をほんの数ミリ浮かせる程度だ。

 思わぬ抵抗にイルザの顔が歪むけれど、速度も相変わらずである。

 これでも足りない。もっと、何かがいる。

 何か、決定的に物事を、運命を覆す様な何か強烈な……あれしかない。

 ハンスは叫んだ。その名を、かつて片腕の戦神が巨大な狼の魔物を封じる為に使用したという逸話に則って設定したその名を。最初の起動以外は別に呼ばずとも構わない、だがどうしても叫びたかった、大いなる武器の名を。その名は、

「グレイプニルっ!」

 雷鳴が上がった。閃光も、咆哮も。そして爆発も。

 最大出力による放電。凄まじい威力を誇る反面、強度限界を超えた機械が自壊してしまう諸刃の剣だ。加えて今は耐電耐熱用の服も無い。

 グレイプニルがただの鉄屑と成り果てる瞬間に放たれた雷は、狼の体を通して担い手をも貫き、彼の身を焼き焦がす。ハンスは声にならぬ声で叫んだ。身構えてはいても、だが耐え切れるものでは無い。もし彼が人を超えていなかったならば、後少し機械が保っていれば、そのまま死んでいただろう。

 だがハンスはぎりぎりで耐え、それだけの成果を得た。

 押さえつけていた力が緩む。

 如何にイルザとは言え、これだけの電力は堪えたのだろう。或いは先の蓄積もあってか、巨大な狼は大分小さくなった穴の底に向けて落ちて行く。狩人と共に。

 暫くの後に轟音と砂煙が上がった。

 大地が、壁が震え、大小の瓦礫を落とす。

 地面に付いたハンスは、肩で息を吐きながら、ゆっくりと起き上がった。

 左腕で脇腹を押さえる。

 落ちる時、イルザの体がクッションとなったとは言え、痛みはあるし、先程の傷も残っている。テレスが全力で動いた様に、だが逆の意味で、全身から煙が上がる。

 こんな時に言うのも何だが、酷く腹が空いていた。無理な動作と治癒を絶え間なく行った結果、カロリーを消費している。今は僅かなエネルギーをどうにかやりくりして、無理矢理稼動している様なものだ。早く何か口にせねばならぬだろう。人間の生態から遠く離れた今、物を食べる事に考えを及ぼすというのも、考えて見れば皮肉な事か。

 帰ったら……そうだ帰ったら、彼女に一つ料理でも作らせてみようか。

 完全とは言えないまでも、動かせる分には治された体で、ハンスはそう薄っすら笑うと、前を見た。晴れようとしている砂煙の中で、のろのろと影が動き、身を現す。

 イルザだった。

 その体は、正に満身創痍である。最初の殴打に続く雷撃の中で壁を駆け上がり、再び強烈な雷撃を受けた後で諸に落下した。あの巨体では、落ちた時の重みも凄まじかったろう。狼は苦しそうに舌を出して喘ぎながら、所どころ黒ずみ、汚れた体を上下させている。

 だが、彼女の紅い眼から戦意は消えていない。寧ろ逆に増してさえ見えた。

 ハンスはその視線を真正面から受け止め、イルザの生命力と同時に、その精神力にも舌を巻いた。それが何に由来するかは解らないが、流石レジェンド級と言うべきか。

 けれども、立ち向かわなくてはならないのは彼とて同じである。

 きっと眉間へ皺を寄せながら、ハンスは構えた。直ぐにでも走り出せる様に。

 合わせてイルザも身構える。尾を振り立て、喉笛を震わせながら。

 両者は相手を見、睨み合った。一方が動けば自分も。そんな気迫を滾らせて。

 その時、竪穴の縁から小さな瓦礫が転がる。音を上げ、底まで落ちて行く。

 合わせて彼等が動いたのは、殆ど同時の事だった。

 がくがくと震え、崩れそうになる両脚を駆使してハンスは駆ける。

 目前へと大股で、跳ぶ様にやって来る宿敵を目指し。

 中途で舞う様に体を廻しながら、勢い良く跳んで。

 大口を上げて襲い掛かって来たイルザの鼻面へと、豪快な飛び蹴りを放った。

 回転と助走を持って放たれたそれは、彼女の眼と眼の間にめり込み、悲鳴を零させる。

 もう一発、と先の脚を軸に逆脚で片目を蹴ろうとした時、彼の体は揺れた。

 鼻先を深く沈めた後、イルザは首をぐんと上に向けると、ハンスを中空へと弾く。

 高々と、足場の無い虚空へ。

 その下でぐわと牙を剥き、一食いにしようと待ち構え。

 だがさせないっ。

 上昇した、させられた狩人は、後は落ちるまでという高度まで来た時ぐるんと身を回す。脚を内壁に向け、それを足場とし。体を左回りに捻り、捻り切り、極限まで力を溜めれば、意外な顔をしている狼に向けて、勢い良く頭上、今は真下へ跳んだ。

 落下の速度に踏み込みの分が加わり、見る間に距離は埋まって行く。

 そしてイルザの顔が目の前に来た時、ハンスは一気に拳を放った。

 大気を抜け。風を爆ぜさせ。一瞬の焔を上げ。

 狼の上顎を強打し、自身の体ごと地面へ叩き突ける。

 再び大地が、壁が揺れた。

 最初に来た時よりも、先よりも深い亀裂が大地に出来、月の地が隆起する。

 更に硬質な物に皹が入る音。

 ハンスの左腕の骨が、噛み締めていたイルザの牙が、今の衝撃に耐え切れずに悲鳴を上げたのである。だが、それだけでは無い。

 最早治る事も無く、握り込まれたままの状態で左腕を震わせているハンスのその下で、ぐったりと突っ伏していたイルザの体が、見る間に縮んで行く。皮の下で肉と骨が音を立てて蠢き、溶ける様に消えながら、狼は徐々に人型となり、やがて裸の女性へと転じた。

「……はぁ……はぁ……糞……」

 うつ伏せの状態で、人間に戻ったイルザが呻く。彼女はもう虫の息だった。

 ハンスがそっと腕を逃せば、イルザは長く伸びるに任せられた髪を払って起き上がり、だが出来ずに今度は仰向けに倒れた。

 瓦礫の壁を背に、筋肉質な裸体を隠す事無く、そもそもそんな余裕も無く、彼女は呻く。

「……糞……こんな……糞……何、だってんだ、一体……糞、め……」

「お前が手に掛けて来た者達も同じ事を考え、言っただろうさ……、と」

 ハンスは吐き棄てる様にそう応えると、辺りを見渡した。そして瓦礫の中に埋まっているのを見つけると、ゆっくりと歩み寄り、震える左手でオライオンを取り出した。

 動作を確認すれば、運の良い事にまだ動く様だ。弾も、後一発残っている。

 その電磁銃を握って、彼はまた彼女の元に戻った。

 憎悪を込めて見下ろしながら、銃口をイルザの額へ密着させる。

 これならば、指が震えていようとも関係無い。確実に脳天を撃ち抜ける。

「……殺す、のかい……」

「嗚呼そうだ。悪いとは……思わないがな」

 虚ろな視線が向く。ハンスはぐっと残っていた最後の力を左腕に送ると、ぐりっと額を押した。後は引鉄を引くだけ。それで終わる。全てが終わり、報われるのだ。

 と、その時、呆然と彼を見詰めていたイルザの眼が開かれた。定まらない焦点で何処を見ながら、土色の唇で言葉を囁いた。それは全く持って信じられない言葉で、

「……やめ、ろ……」

 ハンスの頭にかっと血が上った。今更こいつは何を言っているのか理解出来ずに。

 彼は引鉄を引き絞る。

 一瞬の銀光が煌いた後、イルザの瞼は更に開かれ、そして二度と閉じる事は無かった。


《大したもんじゃな、本当にやっちまったわい》 

 気が付くと、目の前にあの老人が立っていた。原理としてはスピナーと同様だけれど、出力と積載量が圧倒的に低いホーバに乗って、ここまで降りてきた様だ。

 かくいうハンスはというと、どうやら撃った後で自身も倒れたらしい。彼はふらつく頭を支えつつ身を起こした。ちらと視線を横に向ければ、見事な球形の弾痕を額に刻んだイルザの死体がある。口を開き、虚空を見詰めているその顔に、先程までの生気は無い。

「嗚呼……そうだ、な……」

 ハンスは半裸の体を震わし、立ち上がって見下ろす。

 予想外に感慨は無かった。

 というよりも、彼女に関する一切の感情が根こそぎ無くなっている。

 喜びも愉しさも、怒りも哀しみも、何も無い。

 妻を殺し、右腕を奪った相手が、まるで赤の他人の様だ。

 ただ終わったのだという実感だけがそこにある。

 暫くの間、ハンスはイルザを見ていた。

 それから彼女に奪われた自分の右腕に視線と、左手をやる。

 先程から疼きは起きていない。ようやく脳が、無いという事実を認識した様だ。

 そうだ。怪物が死に、復讐が終わり、怨恨が消えた。彼は自由の身となった。

 左腕から天上へと視線を移したハンスは、ふっと笑みを浮かべた。

 今度はその眼を老人へ向けて、

「……すまないが、上まで運んでくれないだろうか? それから食事でもあれば……」

《御安い御用じゃよ。というよりも、その為に来たのじゃからな》

 勿論ロハでは無いぞ、と汚らしい歯を見せて笑う老人に、解っている、と頷くと、ハンスはホーバにイルザを乗せた。

 狩人として獲物を仕留めた証明には、原形を留めた死体が最良である。それから記憶に証言。前者は自分が、後者はこの老人が示してくれるだろう。彼が彼女の味方だったかどうかは解らないし興味も無いが、廃品回収屋の例に漏れず、随分とビジネスライクな人間の様だから、金を出せば隙に喋ってくれる筈である。

 そしてそれは社会に、世界に、最早狼は去ったと告げる事になる。ハンス・エーヴァルトの手によって。かつて愛する者と自身の一部を奪われた、狩人のその片手によって。

 ハンスはそれを思い、くっと笑った。

 堕ちて来た道を取って返しながら、その左手を天へと指し伸ばして。

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